15.圧倒的な獣の力
ラウスの視界が、赤く染まっていた。世界が焼けている。火の粉が風のように舞い、すべての音が遠くなっていく。その中心に、ただ一つ――グンザの倒れた姿だけが見えた。
喉の奥で、何かが千切れた。
「じっちゃん……」
呼吸ができない。胸の奥が燃えている。怒りとも悲しみともつかないものが、骨の髄を焼いた。
――ゴウッ。
大地が鳴った。ラウスの足もとに、黒い火が灯る。瞬く間にそれは身体を包み、筋肉が膨張した。
皮膚が裂け、黒毛が噴き出す。骨が軋み、腕が太く、背が二倍に膨れ上がる。目が燃えるように光り、鼻息で火花が散った。
怒れるヒグマ――ラウス第二形態。完全獣化。
島が揺れた。イスキーの白い影が空間の裂け目に浮かぶ。今もまた、唇がにたぁと弧を描いている。
「……獣が!」
イスキーが囁く。
白い光が弾ける。周囲の岩が浮き上がり、刃のように宙を回転した。そのすべてがラウスに向かって落ちる。
ドガァァン――!!
だが、ラウスは動かなかった。岩の雨が、彼の背に当たるたびに砕け、粉になった。皮膚が岩より硬い。筋肉の鎧。
ラウスの眼が光を捉えた。次の瞬間――地が消えた。
爆音。
ヒグマの巨体が地を蹴り、空へ飛んだ。イスキーが瞬間移動で背後に逃げた――だが、遅い。
「どこを見てんだァァァ!!!」
黒い腕が光を裂いた。イスキーの肩を掴む。骨が砕ける音。白い体が捻じ曲がる。
イスキーの瞳が揺れた。
「……信じられない。こんな……単純な……力で……」
ラウスの口から、低い唸りが漏れる。言葉はもうない。怒りだけが、獣の心を動かしていた。
イスキーが焦ったように、周囲の空間をねじる。視界を歪ませ、天地を逆転させ、音を千切った。
だがラウスは、その歪みごと踏み潰した。
ドウッ――!!
地が爆ぜ、空間がきしむ。イスキーの幻影が何十にも分裂し、四方に散る。だが、ラウスの野生が、たった一つの“生臭い”気配を捉えた。
「……そこかッ!」
拳が閃いた。風が裂ける音より早く、イスキーの本体が捕まる。白い身体が持ち上げられ、宙に吊るされた。
イスキーがもがく。無音のまま、必死に手を振る。だが、空間操作も、重力の揺らぎも、効かない。
「やめろ……おまえは……世界を知らぬ……」
言い募るイスキーのその目に、初めて――恐怖が宿った。
ラウスの牙がむき出しになる。咆哮。その声は島全体を震わせ、火の海にこだました。
「うおおおおおおおお」
――ドガァッ。
拳が振り下ろされる。イスキーの身体が砕け、白い光が破片になって散る。砕けた欠片が宙に浮き、音もなく舞い落ちた。
残ったのは、静寂だけだった。
ラウスの胸が激しく上下していた。呼吸ひとつごとに、火の粉が吐き出される。その目は、なお赤く燃え、牙は血を滴らせていた。
島が静まり返る。風の音すら、ひととき止まった。
ヒグマの瞳に、まだ理性は戻らない。怒りだけが燃えている。
そのとき。
「ラウス」
柔らかい声が降りた。
ギンシュ――新たな朱雀が、ゆっくりと羽を広げていた。
「怒りの火は、護るために灯せ。焼き払うためではない」
ギンシュの声が、空から降りてきた。風が生まれ、灰が舞い、赤い炎の中に水色の光が溶けていく。
だが――ラウスには届かない。まだ、世界が真っ赤だった。耳鳴りがして、鼓動が爆音のように響く。拳を開こうとしても、腕が震える。
(……ヤメロ。ヤメロ……トマレ……)
自分の中の“野獣”が、暴れ続けていた。焼けた血が脈打つ。倒れたグンザの姿が、何度も脳裏に浮かんで消える。
歯を食いしばる。
「グ、ウゥゥゥ……」
喉が裂けるほど唸り、両手で頭を抱えた。圧倒的な野獣の力に飲み込まれそうになる。爪が頭皮に食い込む。痛みでしか、現実をつなぎとめられない。
ギンシュの光が、そっと包みこんだ。朱と水色の羽の中で、ラウスは獣のまま膝をついた。
「ハア、ハア」息を吐いて。痛覚を意識して。
やがてギンシュの羽に包まれて、ようやくその目に“青”が滲む。野獣の昂りが次第に薄まっていく。
「ラウス」
ギンシュの声が静かに降りた。
「おまえは、よく耐えた。……よく抗った」
ラウスの胸が大きく波打つ。肩で息をしながら、拳を地につけた。巨体が揺れ、ゆっくりと人の姿に戻っていく。毛が焼け、煙となって消える。荒い息の合間に、かすれた声が漏れた。
「……じっちゃん……ごめん……守れなかった……」
風が鳴った。朱と水の光が混じり、島の空気を穏やかに撫でていく。
ギンシュの声が、染み入るようにラウスの耳に馴染んでいく。
「泣くことを恥じるな」
ラウスの頬を、熱い涙が伝う。それは燃える雫だった。火の島の空気に溶け、光になって散る。
――その光が、ふと、掌の上の“灰”に落ちた。
ラウスは息を呑む。金と水の粒が、微かに脈打っている。ギンシュの灰。不死鳥の灰。
「それを使え」
ギンシュが、羽先で灰をそっと持ち上げた。
「その灰は命を繋ぐ火。だが、誰の命を呼ぶかは……おまえの“心”が決める」
ラウスはゆっくり立ち上がる。その視線の先、まだ動かぬグンザ。胸のあたりに血が乾き、静かに光が残っていた。
「頼む……じっちゃんを」
ラウスは灰を手に、膝をつく。掌からこぼれる粒が、風に乗ってふわりと舞った。
ギンシュが朱の炎を広げる。朱と水の光が、灰の粒と混じり合う。光は、まるで息を吹き返すように脈動を始めた。
――ぼうっ。
淡い火がグンザの胸に宿る。それは小さな灯火。だが確かな熱を持っていた。血の代わりに、金と青の光が流れ出す。焼けた傷口が、ゆっくりと閉じていく。
ラウスは息を止めて見守る。まるで火が心臓を打つように――一度、二度、鼓動が響いた。
「……う、」
声。
グンザの胸が、小さく上下した。そして、ゆっくりと瞼が開いた。
焦点の合わない目がラウスを見つけ、
「……そんな顔すんな。蜂蜜が足りてないんじゃねえか?……だから蜂の巣ごとって」
その瞬間、ラウスは崩れ落ちた。
「じっちゃああああああああん!!」
涙と笑い声がいっしょに出た。
グンザが起き上がり、自分の胸を見た。皮膚は滑らかで、血の跡もない。それどころか、肩のあたりが淡く光っている。
「……なんだこれ、ピカピカしてるぞ?」
「朱雀の炎と不死鳥の灰の力だ」ギンシュが微笑む。「つまり、グンザも“火の側”になった」
グンザがぽかんとしたあと、にやっと笑った。
「ははっ、俺もついに“じじい界の不死身”か!」
「そんな界あるか!」ラウスが突っ込む。
ふたりの笑い声が、紅蓮の空洞に響いた。炎が優しく揺れる。
ギンシュの羽がそれを包み、空へと昇る灰が、まるで金粉の雨のように降り注いだ。
ラウスは空を見上げ、静かに呟いた。
「……ありがとな、ギンシュ」
「礼はいらぬ。おまえたちの心が、炎をつないだだけだ」
朱と水の光が、紅蓮の島をやさしく染めていた。
怒りの火は鎮まり、その跡に残ったのは――確かに燃える、生命の灯だった。




