12.紅蓮の炎
火の窟――朱雀の眠る山の心臓部は、空気そのものが燃えていた。
息を吸えば肺が焼け、吐けば炎が揺らめく。
地面は赤く脈打ち、天井からは溶けた岩の雫が落ちて光る。
硫黄と鉄と焦げた石の匂いが、喉を刺した。
遠くでは、岩の割れる音が太鼓のように反響している。
ラウスは息を詰めた。
「……ここ、まるごと炉みたいだな」
汗が流れ、蒸気のように消える。皮膚がじりじりと痛む。
狼男ライカが先を歩く。尾の先が淡く光り、道を照らす。
「朱雀はこの奥だ。炎が自らの殻を破ろうとしている。急げ」
その声の通り、地鳴りが低く響いた。
洞の奥で何かが蠢く。
次の瞬間――轟音。炎が爆ぜ、空間を満たす光の奔流。
耳の奥で音が割れる。世界が白熱した音楽のようにうなった。
赤と橙と金のすべてを混ぜたような輝きの中に、一羽の巨鳥が姿を現した。
――朱雀。
翼を広げた瞬間、熱が空間を歪ませる。
羽の一本一本が炎の弦のように震え、見えぬ音を奏でる。
その音は悲鳴であり、祈りであり、燃える旋律だった。
羽ばたくたびに空気が波打ち、砂鉄が弾かれ、耳鳴りのような共鳴が洞を満たす。
ギンシュが一歩、前に出る。その羽に宿る水色の輝きが、熱の中で微かに揺れた。
「朱雀……」ライカが低く呼びかける。
「あなたの炎が、乱れている。目を覚ませ」
返るのは、低く響く声だった。男にも女にも聞こえる、永劫の響き。
「――誰が、我が眠りを乱した」
炎が一瞬、強まる。
洞窟の岩が割れ、火の粉が雨のように降った。
赤い粒が石に当たるたび、金属音を立てて弾ける。
焦げた匂いが、酸のように鼻を刺した。
ラウスは腕で顔を覆いながら叫ぶ。
「ギンシュ! あいつ、怒ってる!」
「怒りではない」
ギンシュが静かに言う。
「これは……苦しみだ」
朱雀の声が、ふたたび響く。
「また……誰かが来たか。我を止めに? それとも……燃え尽きるのを、見届けにか?」
その声には、哀しみが混じっていた。
ライカが一歩、近づく。
「違う。私は、あなたを護るために――」
「護る?」
朱雀の瞳が、金から紅に染まる。
炎が竜巻のように渦を巻き、周囲の岩を焼いた。
熱風が唸り、石壁が軋む。
洞窟全体が鳴り響く楽器のように、低音を震わせる。
「護るなどと……誰が誰を護ると言う!」
その瞬間、熱波が炸裂した。
ラウスとグンザは吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。
火の粉が降り注ぎ、地面が揺れた。
岩のひび割れから赤い光が滲み、溶岩の鼓動が聞こえる。
「朱雀!」
ライカが叫ぶ。「我を見ろ! お前の宝珠を守ってきたのは誰だ!」
一瞬、炎の奥で朱雀の瞳が揺れた。
だが次の瞬間、熱光が閃く。
「……その声を、知らぬ」
ライカの表情が凍る。朱雀は、彼を――忘れていた。
狼の銀の尾が力を失う。
「それほどの、苦しみか……朱雀よ」
炎が唸った。
それは怒号でも、風の音でもなかった。
まるで、胸の奥で誰かが泣いているような音。
「忘れてはならぬ者のことさえ、忘れているというのか……我は」
朱雀の声が、洞の壁に反響する。
「いくたび燃え、いくたび蘇っても……そのたびに、何かを落としてきた」
翼が広がる。炎が尾を引き、天井を焦がす。
空気が悲鳴を上げ、岩の裂け目から青白い火が漏れる。
焦げた石が砕けるたび、鈍い鐘のような音が響く。
「まだ燃え尽きるわけにはいかぬというのに。我にはまだ、果たしていない誓いがある。この炎は、誰かのために灯したものだ。だというのに――」
朱雀の声が、苦痛に歪む。
火が、さらに赤く滾った。
まるで自らを焼き滅ぼすための炎。
「記憶さえ……心さえ……燃やしてしまったのか。自らの炎で……!」
轟音。
朱雀の胸の奥で、炎が飛び散る。
赤、橙、金――三つの光が混ざり、狂ったように脈動する。
その熱が、周囲の岩を溶かし、空気を裂いた。
音がもはや音でなく、振動と光がひとつになって押し寄せる。
匂いは鉄、焦げ、そして甘い花のような残り香――燃えた命の匂い。
「なぜ……なぜ我は、こんなにも――苦しい!」
炎が朱雀の身体を呑み込んでいく。
翼が崩れ、羽が燃え、燃えながら再び生まれる。
死と再生が同時に起こっていた。
光が鼓動し、炎の波が脈打つたび、低い音が大地を叩いた。
その光景は、痛ましいほどに美しかった。
ライカが一歩、踏み出そうとした。
だが、ギンシュの翼がそれを制した。
「駄目だ。今、近づけば……朱雀の炎に飲まれる」
ラウスが息を詰めて呟く。
「……泣いてる」
本当に、そう聞こえた。
火の鳴る音の奥で、朱雀は声にならぬ声で泣いていた。
炎の化身でありながら、涙を流せない者の、悲しみの声だった。
紅蓮の炎が、その身も心もすべてを焼き尽くそうとしている。
悲しみと怒りだけが、まだ消えずに燃えている。
ギンシュが前に出た。
「朱雀。お前の炎は悲しみと怒りに囚われている」
「ならば――消してみせよ」
朱雀の翼が広がった。世界が紅に染まる。
その瞬間、ギンシュの周囲に淡い光が立ちのぼる。
赤ではなく、静かな青。
水のように柔らかく、それでいて燃える光。
朱雀の炎とギンシュの光がぶつかり、空気が裂けた。
紅と青――怒りと癒し。二つの炎が、互いの境界を求めて揺らめく。
ライカが息を呑む。
「……これが、“転炎の刻”の前兆……」
ギンシュの声が、朱雀へ届いた。
「燃え尽きるな、朱雀。お前の炎は、終わりではない。燃やすだけが生ではない。――癒す炎も、ある」
朱雀の瞳がわずかに揺れた。
その目に、ほんの一瞬、迷いと痛みの光が走る。
「癒しの……炎……」
その声は、誰にともなく呟かれた。
だが次の瞬間、轟音。洞の奥から新たな爆炎が噴き上がる。
山が唸り、天井の岩が崩れ落ちた。
ラウスが叫ぶ。
「ギンシュ! 避けろ!」
紅と青の光が絡み合い、火の窟が一瞬――夜のように暗転した。




