10.不死鳥に乗って不時着
不死鳥ギンシュの飛ぶ速さは、風そのものだった。いや、風よりも速い。
ラウスは最初こそ「うおおおお!?」と叫んでいたが、しばらくすると笑いが止まらなくなっていた。空気が頬を裂くほど鋭く、それでも痛くない。
ギンシュの羽が柔らかく包みこみ、まるで熱を帯びた空気の中を滑っているようだった。
「すげぇ……これ、鳥じゃねえ、戦闘機だ!」
「戦闘機ってなんだ?」とグンザが後ろから怒鳴る。
「知らねぇけど、とにかく速え!」
ラウスが興奮して叫ぶと、ギンシュの翼が微かに震え、笑ったように金色の羽が光を散らした。
「しっかり掴まれ。今回は落ちたら二度と拾えんぞ」
「まさか、落ちたことあるのか?」ラウスがグンザに聞く。
「一度だけな!」
誇らしげに言う声に、ラウスは吹き出した。
「誇るな! 普通は恥ずかしいやつだぞ!」
「馬鹿言え、落ちたってことは乗ってた証拠だ!」
ふたりのやりとりに、ギンシュの羽毛がさらりと揺れて応える。
眼下には、赤黒い海を割って浮かぶ島影が広がっていた。
島の中央には、赤土の山脈が渦を巻くように盛り上がり、山肌のあちこちから煙のような赤光が立ち上っている。
「……あれが、朱雀のいる地か」
ラウスが呟く。空気が熱を帯び、鼻腔に焦げた鉄の匂いが混じった。
ギンシュの声が響く。
「紅蓮の島までは、あと一刻ほどだ。朱雀の傍らには、狼男――ライカという者がいる。古くから炎を守ってきた、朱雀の番人だ。私はまず、彼と話をしたい」
「狼男……また獣人か」
ラウスが唸る。
「グンザさん、会ったことある?」
「ねぇな。朱雀もライカも、昔話でしか聞いたことがねぇ。俺のじいさんが言ってた、“燃える心を持つ神獣”だと」
「どんな奴なんだ?」
「怒ると山ひとつ燃やすらしい」
「は? 燃やす!?」
「だから、気ぃつけろ。あいつの機嫌を損ねたら、お前の毛並みが炭になる」
「縁起でもねぇこと言うな!」
ラウスが叫ぶと、グンザは楽しそうに笑った。
遠くに見える島の稜線が、ひとつ、またひとつと紅く染まり始めていた。
それは夕陽のせいではない。火口の奥から、脈打つような赤光が滲み出しているのだ。
「……あれが、朱雀の炎の乱れだ」
ギンシュの穏やかな声が静かに響く。
「燃えているのではない。――迷っているのだ」
「迷ってる?」
ラウスが眉を寄せる。
「炎がか?」
「炎は“心”のかたちだ」
ギンシュの声は静かで、それでいて深く響いた。
「朱雀の心が濁れば、炎はそのまま乱れる。怒りや悲しみ、あるいは……絶望に呑まれれば、炎は自らを喰らい尽くす」
「だから、燃え尽きるかもしれないって話だったのか」
グンザが腕を組む。
「だが、どうしてそんな状態に?」
「それを確かめるのが我らの務めだ」
ギンシュの翼がゆっくりと角度を変え、赤い島の方向へと滑空する。
「朱雀は聖獣だ。私よりも強い。だが同時に――私よりも、脆い」
ラウスが息をのんだ。
「強くて脆い……?」
「燃えるものは、燃え尽きる。それを恐れて火を消す者もいれば、燃え尽きることを誇りとする者もいる。朱雀は後者だ。自らの命を燃やしながら、なお世界を照らそうとする。その志を、私は敬う」
ギンシュの声は、柔らかな炎のようだった。
「だが――それが孤独に傾けば、世界を焼き払う焔にもなる。そのとき彼を止めるのは、我らの“理”ではない。“心”だ。燃えるものを責めず、寄り添う心だ」
沈黙。グンザが短く息を吐く。
「……さすが、不死鳥のギンシュ。器がでけぇな」
「でけぇというか、もう島くらいあるな……」ラウスが呟く。
ギンシュの翼がわずかに震えた。笑ったのかもしれない。
眼下には、すでに朱に染まった島の中央火口が迫っていた。
ところどころで地表が呼吸するように膨らみ、光が漏れている。
空気が熱を帯び、ラウスの頬を焼く。
「行くぞ。もうすぐそこだ」
ギンシュが翼を大きくはためかせた瞬間、炎の気流が渦を巻き、空間そのものが鳴った。
ラウスは息を呑みながら、燃える島を見つめる。
「――見えてきた。紅蓮の島だ!」
島の輪郭が、だんだんと形を変えていった。近づくにつれ、それがただの赤土ではないと分かる。島というより、巨大な火山そのものだった。
地面のいたるところに、赤い筋――熔岩の亀裂が走っている。まるで島全体が、ゆっくりと血を流しているようだった。
「……すげぇな」
ラウスが呆然とつぶやく。熱気が肌を焼く。息をするたび、肺の奥がじりじりと痛んだ。
「朱雀の炎が、抑えきれていない」
ギンシュの声が低く響いた。
「これは……怒りか、それとも――苦しみか」
その瞬間、空が閃いた。
雷のような音が轟き、赤光が尾を引いて天を裂く。火の粉が降り注ぎ、空気が歪む。ギンシュの翼が広がり、三人を包むようにして防いだ。
「しっかりつかまれ!」
グンザが叫ぶ。ラウスは反射的に翼の根元にしがみついた。羽毛が熱を遮り、視界が真っ白に染まる。
「……こいつは、やべぇぞ」
「見りゃわかる!」
グンザの額に汗がにじむ。
「ギンシュ、降下できるか!」
「試みる」
ギンシュの声は落ち着いていた。だが、その羽ばたきには、風圧とは違う重みがあった。炎の流れを読み取り、まるで空の河を逆行するように、翼をたたんで滑空する。
熱風の中、朱に染まった外輪の火口が見えてきた。地面が、まるで呼吸するように波打っている。あちらこちらで火が噴き上がり、空気がぐらついて見えた。
「着地する。掴まっていろ」
ギンシュの声が落ち着いているのが、逆に恐ろしかった。
翼が大きく傾く。視界がひっくり返る。ラウスは思わず悲鳴を飲み込み、隣のグンザは「うおおおおっ!?」と叫びながら翼の骨に必死でしがみついた。
火山風が下から吹き上げる。熱気が刃のように突き上げ、羽毛を焼く音がした。火口の縁がぐんぐん迫る。まるで炎の竜巻が口を開け、こちらを丸呑みにしようとしているようだった。
「ギンシュ! 本当に降りられるのか!?」
「……降り“たい”とは思っている」
「おいその言い方やめろおおお!!!」
風が爆ぜた。ギンシュの羽が一枚、ぱっと弾け飛んで火の粉になった。ラウスは頭を伏せ、叫ぶ。
「俺ら焼き鳥になっちまう!!」
「焼き鳥は不死鳥だけだ。俺らは熊のソテーだろ」
それでもギンシュは翼を畳まなかった。真紅の火流を正面から割り、滑空ではなく、ほとんど落下と呼べる角度で火口へと突っ込む。
――ドンッ。
衝撃が全身を貫いた。ラウスの視界が一瞬、真っ白になる。地が揺れ、岩が砕け、火山灰が爆ぜた。
巨大な翼が地面を打ち、地鳴りが走る。それでもギンシュは、ぎりぎりで身を翻して体勢を戻した。土煙の中、かろうじて立ち上がる不死鳥――そして転がるラウス。
「うわっ、足が、足が地面に刺さってる!?」
「安心しろ、それはマグマだ」
「安心できるかっ!!」
ばさり――。
ギンシュが最後に翼を一度だけ打ち、舞い上がる灰を静めた。地面には長く黒い滑走跡。どう見ても「着陸」ではなく、「不時着」だった。
グンザが両手を腰に当てて、肩で息をしながら言った。
「……いやぁ、よく生きてたな、俺たち」
「だから言っただろう」ギンシュが平然と答える。「“着地する”とは言ったが、“安全に”とは言っていない」
「不死鳥ジョークかよ!」
ラウスの突っ込みが火口にこだました。
そのとき。
熱風の向こう、炎の揺らめきの中、長い影がゆらりと歩いてくる。鋭い耳、しなやかな体躯、太く立派な尾、そして黄金色に光る双眸。
「……お出迎えか?」
ラウスが息を呑む。その影はゆっくりと歩み寄り、低く響く声を放った。
「ここは“朱雀の領”。人の足で踏む場所ではない」
炎の中から姿を現したのは、灰色の狼の男――朱雀の番人、ライカだった。




