1.ヒグマじっちゃんのところへ行く
ラウス・サーガ、第2章開幕です。
EOとの宝珠を巡る騒動が終わって、青龍の湖から帰ってきた荒佐ラウスは、何事もなかったように学校生活に戻っていた。
あの湖のことは、夢みたいに遠い。いや、夢じゃなかった。あの戦いが夢で済むなら、そのほうがありがたいけれど。
|鴉とは死闘を尽くした。ヒグマ獣人であるラウスを、初めてヒグマへと完全獣化させた相手だ。鴉の黒い羽の攻撃は、痛かったなんてもんじゃない。風で飛ばされて叩きつけられたし。体の痛みも、心の痛みも、まだ忘れちゃいない。
私立稜館学園――通称「リョウガク」。制服が無駄にかっこいい進学校だ。
神野先生が突然アメリカ赴任になったとかで、ちょっとした話題になっていた。女生徒たちは「えー、嘘でしょ先生イケメンだったのにー!」と残念がり、男子は「ライバルが減ったってやつ?」とうそぶく。
そして今日も、ともに旅をし戦った岩尾はご機嫌だ。自分が部長をつとめる総合格闘部の部室で、ラウスの肩をばんばん叩いてくる。
「おいラウス、入部届出したな! これでお前も正式なヒグマ部員だ!」
「ヒグマ部じゃねぇよ。総合格闘部だろ。」
「いや、お前が入った時点でヒグマ部だろ!」
「納得いかねぇ!」
小新府ルルは、その横で部のマネージャーをしている。ルルがハーフマーメイドだということは、学校ではラウスと岩尾しか知らない。つい先日まで幼げだった彼女が、急に背が伸びて、髪もつやつやになった。もともとおとなしくて目立たないタイプだったせいか、「急成長」といった噂は立っていない。もしかするとそれは、彼女の持つ「蒼のたまご」のおかげかもしれないが。
だが、最近は廊下を歩くだけで男子の視線を集めているのが気にかかる。最近、部室に来ると妙にいい匂いがする。犯人はたぶんルルだ。
「ルルって、毎日どんどん可愛くなっていくんじゃないか?」とつい目を奪われるラウスだ。
そんな平和な日常が続いていた。風が生ぬるくなり、グラウンドの芝が青く光る、初夏。
放課後、格闘部の練習を終えて、岩尾やほかの部員たちと校舎の裏手を歩く。夕方の光がグラウンドを斜めに照らし、芝が金色に見えた。ラウスはペットボトルを口にくわえたまま、ふと溜息をついた。
ルルがそれに気づいて尋ねる。
「ラウス、どうしたの? ため息なんて」
「……また制服破けた。今日で三着目。」
「成長期なんですかねえ」
背後から涼しい声。宗田エムが、いつの間にか立っていた。相変わらず糸みたいな目で笑っている。いや笑ってはいない。
「うわっ、出た。なんで学校にもいるんだよ」
「お世話係ですから」
「お世話ってレベル超えてるんだけど」
ラウスは肩をすくめた。宗田はそのまま、いつもの調子で淡々と話を続ける。
「ラウス坊ちゃま、そろそろ行きましょうか」
「どこに?」
「おじい様のところへ、です」
「はぁ?」
唐突すぎて、間抜けな声が出た。
「グンザ様に、ご挨拶を」
「なんで急に……」
「完全獣化を迎えましたからね。おめでとうございます」
「おめでとうって……あれは、ただムカついて変身しただけだろ」
「ムカついて完全ヒグマ化できる時点で、立派な大人です」
宗田は淡々と言い切った。ルルが心配そうに覗き込む。
「でも……いいの? あんな大変なことになってたのに、ラウス、平気?」
「平気平気。ちょっと毛が増えて見えただろうけど」
「ちょっとじゃなかったですけどね」宗田がさらりと補足する。
「本能の制御は重要です。おじい様に教えを受けておくのが安心かと」
「やだよ、山とか。虫いるし寒いし。第一、じっちゃん話長い」
「そうですか。では仕方ありませんね」
宗田は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、何気ない声で続けた。
「……グンザ様のところに行けば、鮭は川から生け捕りです」
「行く!」
反射的に即答したラウスに、岩尾が吹き出す。
「お前、単純すぎるだろ」
「うるせぇ! 鮭は正義だ!」
「はいはい、わかりましたから。行く準備、しておきますね」
宗田は微笑んで、軽く頭を下げた。その目が一瞬だけ細く開き、縦に裂けた瞳孔が、夕日を反射した気がした。
ラウスは気づかない。ただ、「山行ったら、でっけぇ鮭食って昼寝だ」と能天気に笑う。
その空の向こう――見たこともない夕焼け色の鳥が、羽ばたいた。
*
ゴールデンウィーク初日。
ラウスたちは山行きの観光バスに乗っていた。行き先は北東、荒佐家の山。つまり、グンザじいちゃんの家。
「……満員じゃねえか」
バスの中で、ラウスは不機嫌だった。窓際の席に押し込まれ、隣には宗田、通路を挟んで岩尾とルル。周囲は登山リュックを背負った観光客だらけ。
「人気なんですね、この山」
ルルは窓の外を見ながら、にこにこしている。
「GWだからな。熊も観光する時期だぜ」と岩尾。
「誰のこと言ってんだよ」ラウスがにらむ。
ラウスはシートに沈みこんで腕を組み、ため息をついた。
「坊ちゃま、イライラしてますね」
「するだろ。俺、狭いとこ嫌いなんだよ。あと人間多すぎ」
「文明社会ですから」宗田は涼しい顔で答える。
「お前、冷房みたいな返しすんなよ」
やがてバスはトンネルに入った。車内が暗くなり、ルルが少し不安そうに膝の上のカバンを抱く。
そのときだった。
ガタンッ!
急な揺れ。バスが大きく左右に振れた。運転手が「うわっ!」と叫び、急ブレーキ。車内が悲鳴に包まれる。
ラウスは反射的に立ち上がった。その瞬間、ラウスの後ろの席で子供がシートから落ちかけるのが見えた。
「危ねぇ!」
考えるより先に体が動いた。
宗田の頭を押さえ、思いきり腕を伸ばす――爪が、出た。鋭い熊の爪の先で、なんとか子供の服をひっかけて引き上げる。
子供は無事。だが、周りの客が固まった。
「……熊……?」
「熊がいるっ!」
「出たああああああ!!」
阿鼻叫喚。ラウスは慌てて手を引っ込める。
「違う違う! 俺、人間! いや、クマだけど人間! って何言ってんだ俺!」
「坊ちゃま、声が混乱してます」宗田が冷静にツッコむ。
運転手がブレーキを踏みっぱなしで立ち上がった。
「誰だ!? 誰が熊だ!?」
「ほら、そこの! 黒い毛! 動いた!」
「動いてねぇ! 俺の腕毛だ!」
岩尾が苦し紛れに叫んだ。
「違います! ヒグママスコットです! うちの学校の! 着ぐるみです!」
「いや着ぐるみって言うな!」
混乱の渦の中、宗田が静かに前へ出た。バスの天井灯が彼女の瞳に反射して、ほんの一瞬、縦に光が走る。
「皆さま、落ち着いてください。事故ではありません。
熊など見ていません。助けてくれたのは――ただの学生さんでしたね」
淡々とした声。ざわめきがふっと消えた。乗客たちは一斉にまばたきし、そしてぽかんとした顔で座り直す。
「……寝てた?」「今の、夢……?」
宗田は小さくため息をつき、ラウスに目をやった。
「坊ちゃま、公共交通機関での熊バレは厳禁です」
「助けただけだろ!」
「えらいです。でも人間社会は“結果より見た目”ですから」
「とっさに熊になっちうまうのは仕方ないだろ」
「努力でカバーです」
「ぐぬぬ」
やがて途中の停留所で、結構な人数が降りて行った。登山口とバス停に書いてある。さっき助けた子どもとその母親らしき女性も同様に降りていく。降りぎわ、母親が赤い登山帽を脱いでぺこりと頭を下げる。赤ん坊を抱っこ紐で抱いている。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「気をつけてな」ラウスが照れくさそうに頭をかく。
男の子も母親を真似てか、お揃いの色の赤い野球帽を脱いで、にこっと笑った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
母親に手を引かれ、静かにバスを降りていく。
「可愛いね」ルルが微笑ましそうに言う。
ラウスは窓の外を見ながら呟いた。
「……あーあ。また宗田に助けられちゃったよ」
「坊っちゃまのお世話はわたくしの仕事ですから」宗田が即答。
「なんか、いや」
バスは笑い声を残して、山道を登っていった。




