第七章 織りなす過去の軌跡
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第七章 織りなす過去の軌跡
久し振りに訪れた両親の墓は、マリエルの記憶よりずっと小さく感じられた。
ひっそりと並ぶ二つの墓石の表面は汚れ、長年風雨にさらされ続けた痕跡がはっきりと残っている。角は欠け、苔と泥がこびり付き、長い間誰も手入れしていない事がひと目でわかった。きっと叔母夫婦は一度も訪れた事などないのだろう。
マリエルが王都を出る前からそうだったように。
叔母は、自分のように商売に成功した裕福な商人とではなく、貧しい木工職人と結婚したマリエルの母をひどく蔑んでいた。叔母は義理の兄の存在すら認めようとせず、彼の顔を見に来たのは姉夫婦の葬式の時だった。涙も悲しみの表情も一切ない冷たい目で、二つ並んだ棺に横たわる姉とその夫を見下ろしていた。
葬儀の場から連れ出された時の、乱暴に掴まれ引っ張られた腕の痛みを、マリエルは今でもはっきりと覚えている。
マリエルは両親の墓の前に跪くと、持ってきた白いナデシコの花束をそっと供えた。ひりつく熱気を含む風が、レースのように繊細な花びらとマリエルの金色の髪を揺らす。頭上高く輝く太陽は力強く、二つの墓石の影をくっきりと地面に落としている。
それなのに、刻まれた墓碑銘に砂と泥が溜まった墓石は、冷たく暗い。
静かに祈りを捧げるマリエルの数歩後ろでは、いつも通りスヴェアが控えていた。王都に着いてからはガラハイド国領主邸の他の騎士たちと交代でマリエルの護衛の任に就いているが、やはりスヴェアが就く頻度は多い。マリエルがクレメンツから「貴婦人」の称号を与えられて以来、ずっと彼女の護衛の任を務めてきたからだ。〈救国の貴婦人〉が最も信頼する騎士として、階級に関係なくスヴェアは領主邸の騎士たちから一目置かれている。
しかし、今日は彼の他にもあと二人の騎士がマリエルの護衛として同行していた。名前はマーシャラーとカッカス。二人とも若いながら腕の立つ有能な騎士だ。スヴェアと同様、油断なく周囲に目を配っている。
護衛に三人もいらないとマリエルは言ったのだが、領主邸の騎士たちを統括している筆頭騎士のヨーント卿が最近の王都は治安が悪化しているからと譲らなかったのだ。
「万一、レディの御身に何かあっては、主君クレメンツ公に申し訳が立ちませぬ」
とまで言われては、マリエルも折れる他なかった。
それに、スヴェアの負担を考えるならば護衛は複数人いた方がいい。
どれくらいそうしていただろうか。こちらへ近付いて来る人物に気付いたスヴェアが、マリエルに低く声をかけた。
「レディ・マリエル」
視線を上げたマリエルは、思いがけない人物を見て目をみひらいた。
トロイだった。今日は仕事が休みなのか、私服姿である。黒い縁飾りのある薄藍色の衣装が彼の髪と瞳の色によく映えていた。清々しく、品がある。腰に佩いた長剣だけは水晶騎士団の長剣で、象嵌されている黄金の太陽が夏の陽射しを反射して誇らしげに輝いている。
マリエルは立ち上がった。
昔、彼との結婚式当日に逃げ出した過去を持つ彼女としては正直二度と顔を合わせたくなかった相手だが、危険な人物ではない。
トロイが何者か知っている護衛の騎士たちも、警戒する事もなくこちらに歩いてくるトロイを待ち受けた。
但し、マリエルとトロイの因縁について知っているスヴェアだけはやや表情が硬かったが。
「レディ・マリエル。奇遇ですね」
シルの邸で会った時と同じく、トロイは堅苦しい仕草で丁寧に挨拶した。口髭に刷いた微笑が上品だ。穏やかで、安心感がある。きっと彼は部下にもこんなふうに接しているのだろう。
トロイはマリエルの足元の墓石に目をやった。
「それはご家族の墓ですか?」
マリエルは頷いた。
「ええ。両親の墓です。もっと早く来たかったのですが、なかなか時間が取れなくて………」
「ずいぶんとご多忙のようですね。噂は私の耳にも届いております。貴女に予言を貰おうと、ガラハイド国領主邸を訪ねる者が引きも切らぬとか。貴女をお茶会や夕食会や宴に招待する貴族も多いと聞きました。せっかくの貴重なお時間だというのに、お邪魔をしてしまったのでしたら申し訳ない。お姿をお見かけしたので、つい………」
すまなそうに詫びるトロイに、マリエルは微笑んだ。
「いいえ。そんな事はありませんわ。お心遣い感謝致します、トロイ卿」
単にうっすらと微笑むだけでも、〈救国の貴婦人〉と讃えられる予言者は純白の八重のダリアのごとく高貴で美しかった。深い森の奥で密やかに水を湛える泉のような青い瞳。透けるような白磁色の肌。胸元でひっそりと光るフクロウの護符は金細工ではないようだが、彼女が身に付けると純金よりも輝いて見える。幾筋か細い三つ編みにして背に流しただけの蜂蜜色の髪は、日頃王宮で髪を高く結い上げ宝冠や櫛やベールで飾り立てている貴婦人たちを見慣れているトロイには返って新鮮だった。
「トロイ卿もどなたかのお墓参りですか?」
「はい」
トロイは歩いて来た方角を示した。
「今日は妻の命日なので。子供たちも一緒に来ておりましたが、家庭教師が来る時刻が近づいて参りましたので、乳母と共に先に帰らせました」
「お子様がたはおいくつですの?」
子供がいるのか、と思いながら、マリエルは尋ねた。
まあ、トロイの年令であれば、子供の一人や二人いてもおかしくはない。
「六才になりました。めでたくも双子でして。男子の双子です。どちらもやんちゃで、私も乳母も手を焼いています。よけいな事ばかりすぐに覚えてしまって」
答えるトロイの顔は子煩悩な父親そのもので、マリエルは自然と顔を綻ばせていた。
「元気があってよろしゅうございますわね」
「ええ。四十半ばでようやく授かった子供たちです。健やかに育ってくれればと願っています」
それから、トロイは墓に供えられた白く可憐な花に視線をやった。
「貴女は王都のご出身だと、レディ・シルに伺いました。そして、王都にお戻りになられたのは久方振りだと。では、ここに来られるのも?」
マリエルは両親の墓に視線を戻すと、感慨深げに答えた。
「ええ………十二年ぶりになります」
最後にここを訪れたのは、今目の前にいるこの准貴族との結婚式から逃げ出し、王都を出奔する直前だった。叔母夫婦の追っ手を恐れ、ほんの数分いただけだった。生前の両親がよく彼女の額や頬にしてくれたように、二人の墓石にそっとキスし、立ち去った。
あれからもう十二年。
あっという間のようでいて、ずいぶんと昔の事のようにも思える。
「十二年……ですか。王都を出られた後はどちらに?」
「とある予言者に師事しておりました」
予言の才を持って生まれた者は、他の予言者の下で自分の能力との向き合い方や視た予言の読み解き方を学ぶ。そうしないと、時も場所も選ばず突如現れ溢れ出る予言に心を押し潰され、最悪の場合精神を病んでしまうからだ。
大予言者カラグロワのように独学で持って生まれた特殊な力を磨く者もいるが、それはごく少数だった。
あの日、花やレースやリボンで華やかに飾り立てられた結婚式場から逃げ出して何とか王都の門まで辿り着いたマリエルを、一人の老人が待っていた。
彼は予言者だった。マリエルの事を予言し、迎えに来たのだという。
老いた予言者は自分の馬車にマリエルを隠して王都の門をくぐり、怒り狂った叔母夫婦の追っ手からマリエルを匿ってくれた。
その後、マリエルは王都からはるか遠く離れた森の片隅でひっそりと居を構える老いた予言者の下で指導を受けた。いつ叔母夫婦や式当日に花嫁が遁走するという恥をかかされたトロイ家の追っ手が来るかもしれず、マリエルは息を潜めて暮らした。師匠の元に予言を貰いに人が訪れた時は、姿を見られぬよういつも隠れていた。
そうして八年余りの歳月が流れたある日、老いた予言者はマリエルにこう告げた。
「お前はここを去らなければならない。西方の国々を訪ねなさい。お前が真に仕えるに相応しい主君が見つかるだろう」
旅立ちの手向けに、老いた予言者は自分のフクロウの護符をマリエルにくれた。
マリエルは西方へと旅立った。あちらこちらの国や街や村をさすらい、とある辺境の国で恐ろしい洪水の予言を視た。
領主館へ赴き、それを訴えた。
全く相手にせず邪険に追い払おうとする家臣たちを制し、年若い領主だけがマリエルを信じてくれた。
そうして、マリエルはガラハイド国の予言者となった。
老いた予言者の予言の通りに。
マリエルは軽く頭を下げた。
「………では、そろそろわたくしは失礼致しますわ。ガラハイド国領主邸に戻ります」
「お送りします」
紳士らしく申し出るトロイに、マリエルは後方に控える三人の騎士を示して言った。
「いえ。大丈夫ですわ。彼らがいてくれておりますから」
「では、せめて墓地の入口までだけでも」
トロイは引き下がらない。口調も表情も物腰も穏やかだが、案外押しの強い性格なのかもしれない。義理の親子なので血は繋がっていないはずなのに、このあたりあの隻眼の貴婦人にそっくりである。権謀術数渦巻く王宮では、遠慮深い性格ではやっていけないのだろう。
頑なに固辞するのも無礼かと考え、仕方なくマリエルは折れた。
「わかりました。ではお願いします」
二人は石畳の小径を進んだ。
少し距離を置いて、スヴェアら三人の護衛の騎士が続く。
墓地にはマリエルの他にも何人か墓碑の前に佇む人々がいた。地面に落ちた自分の影を見つめるように深く頭を垂れている。跪き、肩を揺らして嗚咽している者もいる。きっと愛する者を、大切な誰かを亡くしたのだろう。悲しみが地面を伝い、こちらへ這い寄ってくるかのようだ。
墓地はなだらかな丘になっており、芝生と剥き出しの土がまだら模様を描いていた。もとは一面芝生に覆われていたのだろう。きちんと磨かれ、真新しい花が手向けられた墓もあれば、マリエルの両親のそれのように薄汚れ苔むした墓もある。傾き、倒れてしまっているものすらある。寂寥感漂う荒んだ光景だ。ぽつりぽつりと地面にへばりつくように咲くタンポポの花がまるで黄色いシミのよう。ところどころにあまり手入れされていないブーゲンビリアがこんもりと茂り、濃いピンク色や朱を含んだオレンジ色の花を咲かせている。
ブーゲンビリアは別名「墓守り花」と呼ばれ、墓地では必ず目にする植物だ。もともとは埋葬した遺体を獣が掘り起こさないよう鋭い棘を持つこの花木で覆ったのが始まりだったが、〈地の民〉の間では最愛の恋人を失ってしまった女が悲しみのあまりこの花木に姿を変えたのだという伝説がある。咲き乱れる花は女の涙で、その身にまとう鋭い棘は墓荒らしや獣から亡き恋人の骸を護る刃である、と。
悲しい伝説とは裏腹に、その花姿は華やかで美しい。
「そう言えば………」
ずっと無言で歩く事に耐えきれなくなったマリエルが口を開いた。
「王都に到着した日以来お会いしておりませんが、レディ・シルはお元気ですか?」
「ええ。まあ………それなりに」
何も考えず発した問いだったが、トロイの歯切れの悪い返答を聞いたマリエルはすぐに「しまった」と思った。
何故なら、マリエルたちが王都に到着したあの日………つまり聖王ウィーアードの命でエルレイの薔薇の園が焼き払われ、ナサニエルがオルデン国領主の座を取り上げられたあの日以来、シルとレクサの間には亀裂が入ってしまったらしいのだ。レクサがプルーデンスの宴に出席した事をシルが咎めたのが原因だという。
招待されたとある正貴族のお茶会で、マリエルはその話を聞いた。
表向きはディアドラ系譜図書館の〈前門〉倒壊事件で負傷したシルに対し静養するようレクサが命じた事になっているが、実際は二度と顔を見せるなと言い渡されたのだ、と。
「わたくし共、今その話題で持ちきりですのよ? レディ・シルはレクサ王女のお気に入りでしたのに、世の中何が起きるかわかりませんわね。もともと少しばかりきつい性格の方でしたし、身の程をわきまえなかったのでしょう。口は禍の元ですわね、本当に。それにしても、レディ・シルは自業自得ですけれど、レクサ王女がこれほど短気な御方であったとは思いませんでしたわ。虫の居所が悪かったのかしら? レディ・マリエルも、もし王宮に出仕するよう命ぜられた時はお気を付けあそばせ」
と、マリエルにその噂話をもたらした公女は真っ赤な紅を引いた口元を扇子で覆いながら眉をひそめてそう言った。
どれほど権力を誇る寵臣でも、一度王族の不興を買えばあっという間に没落する。そして、政敵を追い落とそうと皆が虎視眈々と機会を伺っているのだ。足の引っ張り合い、中傷合戦など日常茶飯事。王宮とはそういう恐ろしい場所なのだ。シルも二度と王宮に出仕する事は出来ないかもしれない。
トロイは沈んだ声音で言った。
「義母上の身に起きた件について、貴女のお耳にも届いているのですね」
「……………はい」
全くもっていらぬ質問だった。
己の配慮のなさを恥じ入りながら、マリエルは横を歩く白金色の髪の准貴族に謝った。
「無神経な質問でした。申し訳ありません」
「いえ。義母上も深く反省しておりますし、いずれレクサ王女もお許し下さるでしょう。王女は寛大な御方ですから」
ばつが悪そうなマリエルを気遣ったのか、トロイは話題を変えてくれた。
「それはそうと………今日は散策には良い天気ですね。場所はあまり相応しくありませんが」
マリエルは思わず苦笑してしまった。
「ええ。確かに」
「では、次はぜひ散策に相応しい場所にてお会い願えませんでしょうか? 王都には王宮以外にも美しい庭園が数多くありますので、ご案内致します」
マリエルは一瞬返答に窮した。単なる社交辞令なのか、それとも本気で自分を誘っているのか判断がつかなかったのだ。いつもの彼女なら貴婦人らしく上品な「模範解答」がスラスラと口をついて出るのに、今日はどうにも調子が出ない。
きっとトロイに対する引け目のせいだ。
こうして並んで歩いていても、居心地が悪くて仕方がない。墓地の広さが恨めしい。
結局、マリエルは無難な返答をした。
「そうですわね。いつか、お互い時間の合いました時に」
トロイは、きれいに整えた口髭に上品な笑みを乗せた。
「ええ。ぜひ」
それから、トロイはやおら口調を変えて続けた。
「このような事をお尋ねしても良いのかどうか………もし、ご不快に思われましたら申し訳ないのですが。予言とは一体どのように視えるものなのか、お聞きしてもよろしいですか?」
生真面目なトロイの性格がよく表れている丁寧で礼儀正しい問いに、マリエルは思わず微笑んだ。
「そのようなお心遣いは無用ですわ、トロイ卿。よく聞かれる事ですので」
自らに関する予言を貰いたがるのと同じくらい、人々は予言者がどのようにして予言を視るのか聞きたがる。純粋な好奇心からの場合もあるし、怖いもの見たさの場合もある。
羨望と畏怖だ。
自分にはないもの、自分とは「違う」ものに対する。
好奇心か、それとも怖いもの見たさなのか………トロイはどちらなのだろう?
そう思いながら、マリエルは答えた。
「予言の啓示がある時は、まるでわたくしもその場にいるかのように現れます。視えるだけでなく、この身の全てで感じるのです。ガラハイド国で洪水の予言を視た時は、押し寄せる水の冷たさを感じました。息が詰まるような泥水の匂いも。なす術もなく流され、溺れゆく村人や家畜の姿を。悲鳴も、助けを求めて宙を掻く手も濁流に吞まれ、沈んでいった。ディアドラ系譜図書館の〈前門〉が倒壊した時は、巨大な門扉が恐ろしい轟音と共にわたくしの頭上に落ちてきました。もうもうと立ち昇る粉塵で息も出来ず………恐ろしい光景でした」
横でトロイが息を飲む気配がした。そこまで生々しいとは思わなかったのだろう。
「それは………予言を視る度にそのような体験をされるのは、お辛くはありませんか?」
「予言の才を持って生まれた以上、仕方ありませんわ」
さらりと答えるマリエルに、トロイは何と言葉を重ねればよいのかわからない様子だった。
過去、マリエルに同じ質問をしてきた者たちと同じように。
「…………貴女のご高名は以前から耳にしておりました」
しばらくの間言葉を交わす事なく並んで歩いた後、トロイは目線を前に向けたまま再び口を開いた。
「例の、洪水から村人を救った件です。貴女のように日付までも正確に予言出来る予言者は少ない。〈天の民〉の空中砦がギズサ山脈を越えて来襲する事も、貴女は予言した。そのおかげでガラハイド国は戦の準備を万全に整える事が出来、隣国プレストウィック国のように壊滅せずに済みました。貴女は当代一の予言者であられる。〈救国の貴婦人〉、『聖女ロザリンドの再来』と称賛されるに相応しい」
「身に余るお言葉ですわ」
トロイがあまりにも手放しに称賛するので、マリエルはむず痒かった。
それに、いくら予言が当たっても自慢出来るような事ではない。犠牲になった者たちの事を思うと。
ガラハイド国攻防戦で散った大勢の騎士や兵士たち、慣れぬ武器を手に果敢に戦った領民たちの事を。
丘の上にずらりと並んだ真新しい墓標の列を、マリエルは忘れられない。
あのディアドラ系譜図書館の門番の事も。
あの門番の遺族は、彼一人だけが命を落とした不運を嘆き悲しんだに違いない。「何故、彼だけが」……と。
「…………貴女のお噂を耳にした時から、私はずっと貴女に尋ねてみたい事があったのです」
トロイの言葉に、マリエルは物思いから引き戻された。
「? 何でしょう?」
「予言の才というのは十才前後に現れる事が多いと聞きました。貴女もそうでしたか?」
確認するように問うトロイの真意がわからず、マリエルは戸惑いながら頷いた。
「ええ」
マリエルに予言の才が現われたのは九才の時だった。トロイと結婚させられそうになる約二年前の事だ。
最初は何が起こっているのかわからず、しかし、わかった後も叔母夫婦にも誰にも決して打ち明けなかった。強欲な叔母夫婦に知られたら最後、いいように利用されるだけだと幼いながら彼女にはわかっていたから。
もし、もっと早くこの予言の才が現われていれば、両親の死を防げたかもしれないのに。
そう悔やまない日はなかったが。
「レディ・シルからお聞き及びかもしれませんが、彼女の義理の娘である私の妻は、子供たちが二才の頃に病没しました。ですから、子供たちは妻の事を覚えていません。肖像画でしか母親の顔を知らないのです。妻の病はひどい苦痛を伴うものでした。治療法はなく、痛みを和らげる薬もやがて全く効かなくなりました。辛い闘病生活のせいで彼女は見る影もなく痩せ細り、衰え、最期は全身を襲う耐え難い激痛に悶え苦しみながら息絶えました。そのような妻の様子を見せられず、一時レディ・シルに子供たちを預けたほどです。死が妻を連れ去るその瞬間まで、彼女の唇から絶え間なくこぼれ続けた悲鳴と苦悶に歪む顔を、私は忘れる事が出来ません」
淡々とした口調とは裏腹に、彼が語る言葉と表情は悲嘆に満ちていた。固く握り締めた拳が微かに震えている。
マリエルは何も言えなかった。どんな慰めの言葉も空々しく思えたから。
トロイは足を止めると、痛みを湛えた暗い目で真正面からマリエルの顔を凝視した。
「………だから、貴女は私との結婚を忌避されたのですか? 私の妻となった者は悲惨な最期を遂げると、予言して?」
「!!」
マリエルは息を飲んだ。我知らず一歩退いていた。唇を動かしたが、言葉を発するのにしばらくかかった。
「…………わたくしの事………気付いておられたのですか…………? いつ………?」
狼狽に震える声で問うマリエルに、トロイは薄く苦笑いをこぼした。
「レディ・シルの邸で、初めてお会いした時に」
「どうして………」
「黙っていたのか、ですか? 貴女が黙っておられたからです」
顔面蒼白のマリエルのただならぬ様子にスヴェアたちが何事かと近付いてきた事に気付いたマリエルは、片手を上げて彼らを制した。
「大丈夫です」
心配と困惑に顔を曇らせつつも、スヴェアたちは引き下がった。
トロイは風に揺らめき輝くマリエルの髪を眩しげに見つめた。
「すぐにわかりました。十二年前、肖像画で拝見した通りの………いえ、それ以上にお美しくていらした。あの肖像画は、少々年令を上げて描かれていたようですね。それで返ってわかったのです。当時、貴女は貴女を引き取った叔母夫婦の姓を名乗っておられましたが、私は貴女の元々の姓がサンデバルトである事も知っていました。あの結婚話が持ち上がった折に私の父が貴女の事を詳しく調べさせたので」
当然だ。ディアドラ系譜図書館に家系図が記されている貴族ではなく、裕福とはいえ一介の商人の娘を娶るのだ。身辺を調べないはずがない。
マリエルは俯いた。
トロイの顔を正視する事が出来なかった。
「……………何とお詫びすればよいのか………本当に申し訳ありませんでした。貴方にも、貴方の家にも、とんだ恥をかかせてしまって………」
自分は、この物静かで誠実な男に何という仕打ちをしてしまったのか。
マリエルは今さらながらに罪悪感で心臓をギュッと締めつけられる心地だった。
「もう過ぎた事です」
涙の滲む声で謝罪するマリエルに、トロイは優しく声をかけた。
「それに、実は私は貴女に感謝したいほどなのです」
「………え?」
思いもよらぬ言葉に、マリエルは顔を上げた。
「当時、我がトロイ家は恥ずかしながらどうしようもないほど経済的に困窮していました。祖父と曽祖父の二代にわたる放蕩が原因です。ですから、あの結婚は……貴女も当然ご存知だったとは思いますが……貴女の持参金が目当てでした」
トロイは苦い溜め息を足元に落とした。
「貴女の年令を知った母は猛反対しました。私もです。いくら貴族は政略による早婚も珍しくないとはいえ、持参金目当てにまだ年端もゆかぬ少女を娶るなど恥ずべき行為です。仮にも王宮に仕える准貴族ともあろう者が。ですが、父は全く聞く耳を持たず、強引に話を進めてしまいました。結局、母も私も当主である父に従うしかありませんでした。使用人たちに払う給金ですら何ヶ月も滞っていたような有様でしたので」
金に困った准貴族が、持参金とその後の金銭的援助目当てに裕福な商人の娘を娶る事は今に始まった事ではない。領地を持つ事が出来ない准貴族は、正貴族のように領民から税を搾り取るという事が出来ないからだ。仕える主君からの報償でしか収入を得られない。
中には、トリーシャ国のアニガン家やワゼルダイン国のロンドロンダ家、ダウリーヨ-ダン国のトアナス家のように他の事業で財を成す事に成功した准貴族もいるが、それはごく少数だった。
虚栄や自制心の欠如から身の丈以上の贅沢に溺れ、借金を重ね、没落する准貴族のなんと多いことか。
そこにつけ入り、「貴族の血筋」を利用してさらなる富と権力を狙う裕福な商人も。
かのビスズ=アンダーレイ然り。
マリエルの叔母夫婦然り。
「貴女がいなくなって、当然ながら父は激怒しました。しかし、私は内心ほっとした。肖像画でしかお顔を知らなかったし、結局ひと言も言葉を交わさぬままでしたが、一度も会った事もない三十近く年の離れた男との婚姻など、貴女にとってはこの上なく不本意だったはず。逃げ出したくなるのも当然だ、と」
出来れば式当日ではなく、もっと以前に逃げてくれていれば良かったのだが。
「あの日」の騒動ぶりを思い出しながらトロイはそう思ったが、口には出さなかった。
「父の怒りの矛先は貴女の叔母夫婦に向けられました。経済的に困窮しているとはいえ、仮にも王宮に仕える准貴族です。父の剣幕と、商売への悪影響を恐れた彼らは、詫びとして貴女がもたらすはずだった持参金にさらに上乗せして父に献上しました。そして…………」
トロイは言いにくげに一瞬だけ躊躇った。
「…………そして、対外的には、貴女は『不幸にも式当日に事故で急死した』事にしました」
マリエルは苦い笑みを浮かべた。
「そうですか………わたくしは死んだ事になっているのですか」
いかにもあの叔母夫婦らしい。
では、今トロイと歩いているこの墓地のどこかに自分の墓もあるのだろうか?
マリエルは皮肉交じりにそう思った。
あの叔母夫婦の事だ、そのような「くだらぬ事」に金などかけなかったかもしれないが。
「父も彼らの嘘に合わせました。でなければ、『持参金に目が眩んで強欲な商人の口車に乗った挙句、花嫁に逃げられた愚かな准貴族』だと王都中の笑い者になってしまうからです。貴女の叔母夫婦がもたらした『持参金になるはずだった金』は、トロイ家を経済的困窮から救いました。父は先代と先々代が遺した莫大な借金を清算し、辛抱強く仕えてくれていた使用人たちにも滞っていた給金を支払う事が出来ました」
以来、トロイは自分の家の財政状況が再び悪化しないよう、あまり勤勉ではない父に代わって懸命に仕事に励み、ついには水晶騎士団第二師団の長という栄誉な地位まで登りつめた。
よほど懲りたのか、トロイの父が彼に持参金目当てに裕福な商人の娘との縁談を画策する事は二度となかった。
それ見た事かと、妻にこっぴどく怒られたせいもあるが。
やがて、トロイの実直で優れた仕事ぶりに感心したシルの夫・前パサネスティ卿が、自分の娘との縁談をトロイに持ち掛けたのだ。
「私の妻は素晴らしい女性でした。明るく、慈悲深く、芯が強く、聡明な貴婦人でした。彼女が側にいてくれるだけで、私は心癒されました。そう、彼女は…………彼女は、決してあのような悲惨な最期を遂げねばならぬ女性ではなかった」
まるで亡き妻が背負わされた病の辛苦を自身の身に感じたかのように、トロイは表情を歪めた。
「遠い辺境の地に、決して予言を違えぬマリエル=サンデバルトという優れた予言者が現われたという噂を聞いた時、名前からもしやあの時の商人の娘なのではないかと思いました。年令的にも符合します。ですが、王宮に仕える一介の准貴族に過ぎぬ私には事の成否を確かめる術はありません。レディ・シルの邸で貴女を紹介された時は、本当に驚きました。昔、見た肖像画の通りの………いえ、それよりもはるかに美しく麗しい女性が、奇跡のように突如目の前に現れたのです。愚かにも言葉をなくし、無様な木偶のごとくその場に突っ立ってしまいました。…………あの時はとんだ失礼を致しました。お詫びします、レディ・マリエル」
「お詫びなど………そんなふうには見えませんでしたわ。ですから、わたくし、貴方はわたくしの事には気付いていないとばかり………」
大した自制心である。
マリエルの方は、内心の動揺をカナンたちに見抜かれたというのに。
「それから、先ほど仰られた奥様に関するご質問………卿と結婚したせいで奥様は死の病に罹ったのではないか、わたくしがそれを予言したから婚姻の場から逃げ出したのではないかというご質問ですが、わたくしは予言を視たから貴方との結婚を避けたのではありません」
単に嫌だっただけだ。
……とは、口が裂けても言えないが。
「予言者は自らに関する予言を視る事は出来ません。ですから、奥様は卿と結婚したせいで病を患い、お命を落とされたわけではありません。決して貴方のせいではありません」
マリエルの言葉のひとつひとつを噛み締めるように、トロイは黙って聞いていた。
乾いた砂に水が染み込んでいくように、ただじっと。
やがて、彼は掠れた声で呟いた。
「………そう……ですか………」
予言者は自らの未来を予言する事は出来ない。
もちろん、トロイもその事は知っていたはずだ。
しかし、それでも………知ってはいても尚、妻の悲惨な最期と、かつて自分と結婚するはずだった少女が後に〈救国の貴婦人〉と称賛される希代の予言者であるかもしれないとわかった時、そう考えずにはいられなかったのだろう。
自分と結婚したせいであの優しい妻は恐ろしい病に罹り、まだ幼い子供たちを残したまま若くして死ななければならなかったのではないか、と。
おそらく、トロイは妻を深く愛していたのだ。
心の底から。
まるでずっと胸を圧迫していた重りがすっと消え去ったかのように、トロイは大きく深く息を吸い込んだ。
「…………ありがとうございます、レディ・マリエル」
深々と頭を下げたトロイに、マリエルは微笑んだ。
「お礼など………どうかお顔を上げて下さいませ。わたくしの方こそ、あの時は本当に申し訳ない事をしました。改めてお詫び致します、トロイ卿」
「いいえ。先ほども申し上げました通り、もはや過去の話です。よろしければ、これからはお互いこの事は忘れて、新たな気持ちでお会いしたい。良き友人として」
「そうですわね」
二人は再び歩き出した。
先ほどまでのまるで石を飲み込んだような重苦しく気まずい感覚が嘘のように、マリエルの心は軽やかだった。突き抜けるような真っ青な夏空は清々しく、滑るように頭上を飛び交うツバメの鳴き声が耳に心地好い。
間もなく墓地の入口が見えてきた。古びた鉄柵の門は開け放たれたままになっている。日が暮れると墓守人が閉めるのだろう。死者の副葬品を狙って出没する墓荒らしや夜中に忍び込んでバカ騒ぎする酔っぱらった若者たちの侵入を防ぐ為、門が施錠された後の墓地には獰猛な番犬が放たれる。
入口の外では、墓地を訪れた者が馬を繋いでおく繋養柵に手綱をくくられた数頭の馬と、数台の馬車が停まっていた。その中には扉にガラハイド国の紋章を刻印した馬車もあった。マリエルに気付いた御者が御者台から降りて一礼し、馬車の扉を開けて彼女を待ち受ける。
トロイは尾花栗毛の馬の手綱を繋養柵からほどくと、ひらりと跨った。
「では、失礼します、レディ・マリエル」
マリエルは優雅に微笑んだ。
「送って下さりありがとうございました、トロイ卿」
………しかし、次の瞬間。
突然、マリエルの体がガクッと傾いた。
「!?」
一番近くにいたスヴェアが咄嗟に彼女を支える。
「レディ・マリエル!?」
「いかがされました!?」
マーシャラーとカッカスも繋養柵から手綱をほどいていた自身の馬を放り出し、倒れたマリエルに慌てて駆け寄った。
トロイも。
御者はおろおろするばかりだ。
「……っ!」
ふいにマリエルの手がスヴェアの腕を掴んだ。袖の布越しに指が食い込む。
そのあまりの強さに、スヴェアは思わず顔をしかめた。このか細い手のどこからこんな力が出るのか。
震える声がスヴェアの耳に届いた。
「……………なんてこと…………!」
「え?」
スヴェアは、これ以上ないほど大きくみひらかれたマリエルの青い瞳の中に強い恐怖の色を見た。
「…………彼が皆を死なせてしまう……………なんて恐ろしい………!!」
消え入りそうな掠れた声でそう呟くと、マリエルはそのまま気を失った。
最後までお読み下さいまして、ありがとうございました。
マリエル(とついでにトロイ)の過去についてのお話でした。
トロイってばなかなか心の広い人ですよね。もしかしてマリエルはでっかい魚を逃してしまったのかも。惜しい。
でも、年令設定では二人の年令差は29才なんですよね。
やっぱ無理か(笑)普通にキショイわ(笑)
11才の少女にそんなおっさん(トロイごめん)と結婚するよう命じた叔母夫婦は、マジ人でなし。
次回は、シャリマーが言っていたエイデンの過去が姿を現わします。
次回も引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




