第六章 来訪者
第六章 来訪者 をお届けします。
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第六章 来訪者
射るような強い陽射しに、カナンは思わず顔をしかめた。
一年の半分を雪と氷で閉ざされるシエル村で生まれ育ったカナンにとって、王都の夏は信じられないほどの暑さだった。木々の枝葉が影を落とす日陰の小径を歩いていても、生地の薄い夏物の服を貫いて太陽に肌をじりじりと焼かれるようだ。空も緑も色濃く、風はひりつく乾いた熱気を孕んでいる。
辺境の小国とはいえ、まがりなりにも一国の領主が滞在する為の邸だけあって、ガラハイド国領主邸は驚くほど立派で大きかった。敷地も恐ろしく広い。
スヴェアに言わせれば、
「うちの領主邸なんざ全然小さい方」
という事だが、このだだっ広さで「小さい方」と言われても………というのが、カナンの正直な心境である。
円柱形に刈り込まれたイチイの並木に、トケイソウが絡みつく瀟洒な東屋。赤煉瓦造りの立派な厩舎には木の柵で囲った放牧場まで併設されており、数頭の馬に混じって何故かロバが小さな口で旺盛に草を食んでいる。おそらく領主邸の使用人が日用品や食料の買い出しへ行く際に荷車を曳かせているのだろう。まさかそんな事に騎士の馬を使うわけにはいかないだろうから。花壇に植えられた色とりどりのポピーの花が鮮やかだ。大きなリンゴの古木がリスの戯れる緑眩しい芝生にくっきりと影を落とし、不気味なシルエットをしたイチジクの巨木がねじくれた枝を四方に伸ばしている。夜に見ると幽霊か空恐ろしい怪物か何かと間違えてしまいそうだ。白い花を咲かせたヤロウの群生の間を、ガラハイド国攻防戦で〈天の民〉の槍騎兵が乗っていた叫び鳥をそのままギューッと小さくしたようなウズラが雛を引き連れて動き回っている。小鳥のさえずりも聞こえる。ここが大地で最も人口の多い巨大都市のただ中である事を忘れてしまいそうだ。
カナンはやや早足で小径を進んでいた。スヴェアとの約束の時間が迫っていたのだ。歩を進める度に、足の下で小径に敷いた砂利が渇いた涼しい音を立てた。
中央に鎧姿の騎馬像がそびえ立つ大きな蓮池の前まで来た時、カナンは自分の方へやって来るスヴェアの姿に気付いた。
「カナン、ここにいたのか」
スヴェアの声音には「探していた」というふうな色が混じっていた。
カナンは何度かまばたきした。
「あれ? ひょっとして、もう約束の時間を過ぎちゃってる?」
「いや。そうじゃない」
スヴェアは頭を横に振った。カナンほどではないが、額にうっすらと汗が滲んでいる。かっちりとした制服姿のせいでよけいに暑そうに見えた。一応、彼が着ているのは風通しの良い生地で作られた夏用の制服だという事なのだが。
「領主邸の中にいないから探したぞ。どこにいってたんだ?」
カナンは親指で背後を示した。
「厩舎だよ。カピトさんの仕事を手伝ってたんだ」
カピトとは、領主邸の騎士たちの馬の世話をしている馬丁である。家族と共に厩舎の二階に住んでいる。自分よりはるかに大きくて力の強い動物が相手の仕事だというのに、まるで日陰のタンポポのようにひょろひょろっとした痩せた男だ。エイデンの黒馬の世話も今は彼がやっている。
「主人に似てどえらいイケメンだなぁ、お前」
などと軽口を言いながら、物騒な目つきで睨みつけてくる「気安く触るな」オーラ全開の巨大な黒馬に平然とブラシをかける彼の度胸に、カナンはつくづく感心したものだ。
風邪をこじらせ肺炎になりかけたカピトの息子に薬を処方し、一緒に看病して以来、カピトはよく家族の食卓にカナンを誘うようになっていた。カピトも、彼の妻アベリーも豪快に笑う陽気な性格で、カナンは彼らと過ごす時間が好きだった。
しかし、食事を奢ってもらうばかりでは悪いので、その代わりにカナンは馬丁夫婦の仕事を手伝ったり、喘息持ちのアベリーに代金は貰わず薬を処方してあげたりしていた。
この馬丁夫婦だけではなく、最近ではカナンが薬師だと知った領主邸の騎士や使用人たちも彼に薬の処方を頼むようになっていた。
頭上から降り注ぐ恐ろしい〈天の民〉の槍も冠鷲の鉤爪もなく、悪意に満ちた他国の騎士も残酷な公妃もいない。
カナンにとっては、プレストウィック国でエイデンと出会って以来、初めての心穏やかな日々となっていた。
スヴェアはカナンが歩いてきた方角に目線を向けた。
「最近よく厩舎に出入りしてるよな。薬師をやめて馬丁にでもなるつもりなのか?」
「まさか」
カナンは笑った。
「そんなわけないよ。カピトさんがお昼ご飯に誘ってくれたから、そのお礼に厩舎の仕事を手伝っただけ。馬の世話の仕方とか、馬具の手入れ方法なんかも教えてもらってるんだ。いつまた旅に出るかわからないし、そういうのって覚えておいても損はないでしょ?」
「それはそうだが………」
スヴェアは顎をしゃくってカナンの胸元を示した。
「………ところで、気付いてないみたいだがアリアンテが外に出ちまってるぞ」
「え? あ、ほんとだ」
いつもは服の下に入れてあるはずの水晶の首飾りが、いつの間にか服の上に飛び出してしまっていた。馬の蹄の手入れをしていた時に、屈んだ拍子にでも出てしまったのだろうか?
「……?」
しかし、アリアンテを元通り服の下に戻そうとして、カナンはふと違和感を覚えた。アリアンテがくすんでいるような気がしたのだ。もっと透けるように儚く美しい金色ではなかっただろうか?
「? どうした?」
スヴェアが尋ねてくる。
カナンは頭を横に振った。
「ううん。何でもない」
きっと木陰の下で見たせいでそんなふうに感じただけだろう。
そう思い直し、カナンはアリアンテをいつものように服の下に入れた。
スヴェアは腰に手を当てると、渋い顔をして言った。
「お前さん、あんまり領主邸の食堂では飯を食わないよな。どうしてだ? レディ・マリエルが気にしてたぞ。もしかして自分に遠慮してるんじゃないかって」
「そんな事ないよ。ただ、僕にはあんな豪華な料理は贅沢すぎるっていうか………」
カナンが祖父ワクトーと共にシエル村で暮らしていた頃は、食事と言えば黒くて固くて酸っぱいパンと、茸やいくつか野菜の切れ端が浮かんだ薄いスープばかりだった。たまに出る茹でたアヒルの卵や固い塩漬け肉がご馳走だった。
プレストウィック国でハネストウの薬屋に住み込みで働いていた時も、塩漬けではない肉が食卓にのぼる回数がほんの少し多かっただけだ。ハネストウの妻が作ってくれる鶏肉のハムを挟んだサンドウィッチや胡桃の粉を練って焼いた平たいお菓子が、素朴だが驚くほど美味しくて感動したのをカナンは覚えている。
それなのに、領主邸で供される食事では、眩しいほど真っ白で柔らかいパンにバターやジャムをたっぷりつけ、レモンやミントの香りがする水を飲み、ナッツを詰めたキジの丸焼きやほろ苦く焦がした砂糖を絡めた羊肉、濃厚なクリームを添えたウズラやローズマリー香る鹿肉パイを食べている。
そして、食後にはその日によって種類が変わる香り高いお茶と、甘いお菓子や瑞々しい新鮮な果物。
こんな贅沢な食事は自分には似合わないと、カナンは思ってしまうのだ。
身の丈に合わないというか。
スヴェアはカナンの背をポンと叩いた。
「何言ってやがる。お前さんはもっといいモンをたくさん食って、体に肉を付けた方がいい。細すぎだ」
カナンは自分の二の腕をさすった。
「以前よりはだいぶましになったと思うんだけど」
「俺に言わせればまだまだだ」
スヴェアは体の向きを変えた。
「そんな事より、客が来てるんだ。エイデンの野郎はまた姿が見えないし、あいにくレディ・マリエルもワクシナー国領主邸のお茶会に招待されていて留守なんだが、客はお前さんにも会いたいとさ」
カナンは目をみひらいた。
「僕に?」
「そうだ。なかなかインパクトのある連中だぞ」
にやにやしながらスヴェアが言う。
明らかに面白がっている。
カナンは不審げに眉をひそめた。こういう顔をしている時のスヴェアには要注意だ。素直な反応をするカナンを面白がって、からかってくる。「悪い人」ではないのだが、「人が悪い」のだ。ガラハイド国にいた頃、アダル=ソーンがよくそうぼやいていた。
自分の腕の中で息絶えた若い騎士の姿が突如脳裏によみがえり、カナンははっと身を強張らせた。
「どうした?」
目ざとく気付いたスヴェアが尋ねてくる。
カナンは曖昧に頭を横に振った。
「ううん。何でもない」
以前に比べると、ソーンの最期の様を夢に見る回数は減っていた。ラーキンの家に泊まった時エイデンが言っていたように、夢を見ても少しずつ遠くに感じられるようになった。
しかし、それでもやはり悪夢は悪夢だ。
起きている時も、あの時の光景を思い出すと胸がギュッと締めつけられるように苦しくなる。今のように。
この胸の苦しさ、痛みが、いつか完全に消え去る時は来るのだろうか?
しかし、消え去って欲しいと思う反面、そう願う事はソーンに対して申し訳ない気もするのだ。
ソーンの事を忘れたいと願う事なのだから。
親切にしてくれた、あの若い騎士を。
きっと「何でもない」とは程遠い表情をしていたのだろう、スヴェアが顔を覗き込んできた。
「何か悩み事があるなら、俺でよければ聞くぞ? ひょっとして気にしてるのか? 俺に剣を習っている事を、エイデンがどう思っているのか」
「!」
カナンは思わずスヴェアの顔を見た。
最近、カナンはスヴェアに剣を習い始めていた。今日もこれから習う約束だったのだ。
カナンが剣を習いたいと思うようになったのは、ディアドラ系譜図書館での出来事のせいだった。せめて自分の身くらい自分で守れるようになりたいと、そう思ったのだ。
いつまでもエイデンに守られているばかりではいけない、と。
ナタリア公妃とグリーナウェイらボルトカ国の騎士たちにひどい目に遭わされたあの出来事は、カナンの中で何かを変えた。
最初、カナンはエイデンに剣の指南を頼んだのだが、エイデンは「薬師に剣は必要ないのではないか?」と言って難色を示した。カナンが剣を手にする事に、何故かエイデンは乗り気ではないようだった。カナンにはなるべく危ない事はさせたくないと考えたのかもしれない。
その「危ない事」から身を守る為に、剣を扱えるようになりたかったのだが。
残念ながらエイデンにはわかってもらえなかったようだ。
それで、カナンはスヴェアに頼む事にしたのだ。スヴェアの方は快く引き受けてくれた。
以来、スヴェアに剣を習っている事をエイデンがどう思っているのか気になりつつも、カナンは剣の稽古を続けていた。
でも、多分、エイデンにやめろと言われてもカナンは続けるだろう。
そして、おそらくエイデンもまた、カナンにやめろとは言わないだろう。エイデンはそういう人だ。
ただ、エイデンに剣の指南を断られてしまった事実は、冷たい沼の底の泥のようにカナンの心に重く残った。
その感覚は、ラーキンの家で怪我の手当てをしようとした時にエイデンから強い口調で拒絶された時に似ていた。
「エイデンの野郎もケチ臭いよな」
スヴェアがしかめ面をして言った。
「剣くらい教えてやればいいのによ。あれだけの剣技を持ってやがるくせに。大体、あいつはいつも言葉が足りねえ。時々、無性にあのすまし顔をぶん殴ってやりたくなるのは俺だけか? ディアドラ系譜図書館を発ったあたりから、俺に対する態度は少しだけましになったがな」
「そうなの?」
「ああ。レディ・マリエルがあいつに何か言ってくれたらしい。『わたくしが叱っておきましたから』だと」
カナンは思わず吹き出した。
「エイデンに面と向かってそんな事出来るのは、レディ・マリエルくらいだよね」
もしかして、彼女こそが最強なのではなかろうか。
カナンはスヴェアに笑顔を向けた。
「いろいろ気にかけてありがとう、スヴェア。僕は大丈夫だよ。………それより、お客が待ってるんでしょ? 早く行こう」
「ああ」
二人は並んで小路を歩き出した。池から離れるにつれ、生ぬるい水の匂いが後方へと遠ざかっていく。庭師が大きな鎌で芝生の手入れをしており、刈られたばかりの芝生の爽やかな香りが瑞々しい。肌にまとわりつく熱気が少し和らぐようだ。鎌に驚いて飛び出してくる虫を狙っているのか、真っ赤な嘴と足をした鳥が数羽、庭師の周囲をうろうろしている。
「…………なあ」
しばらくして、言っていいものか否か迷っているような口調でスヴェアが口を開いた。
「エイデンの例の『約束の予言』の事なんだが………」
「? それが何?」
「確か、あの中にこういう文言があったよな? 『七賢者、再び集いし時』」
「うん」
「俺たちはそれを『七賢者の血を継ぐ末裔が再び集まった時』と解釈した。だが、その七賢者の一人だったナセル=フレイズ=ホーデンクノス卿の血筋はもう絶えちまってる。最後の一人がエルメイア国で死んだからな。エルレイ=ズヌイだってそうだ。〈天の民〉である彼の血縁も、当たり前だが〈天の民〉だ。どうやって見つけるんだよ? 〈黄金の鷺〉に乗り込むってか? いくらエイデンでも生きて帰れねえだろ」
「それは………」
一瞬、エイデンならやりかねないかもとカナンは思ったが、いくら何でもそこまでは……と、すぐにその考えを打ち消した。
「もしかして、今〈石の鎖の庭〉でジーヴァたちと戦っている〈天の民〉軍の中にいるとか? わからないけど。可能性はあるんじゃない?」
「だとしてもどうやって探し出す? ひとりひとり名前を聞いて回るのか? だが、問題はホーデンクノス卿の方だ。あのレディ・マリエルが予言を外すなんざあり得ないとは思うが、今回に限っては、ホーデンクノス卿の血を継ぐ最後の一人が死んじまった時点でもう『約束の予言』が果たされる可能性はなくなっちまってるんじゃないのか?」
カナンは反論出来なかった。
スヴェアが口にした疑念は、ずっとカナンも考えていた事だったからだ。
スヴェアは眉間に皺を寄せ、小難しげな表情で続けた。
「まあ、ホーデンクノス卿はかなりの女たらしだったらしいから、もしかしたら庶子の一人や二人や三人や四人、いるかもしれないが………」
「そうなの?」
「ああ。とびきりの美形で、口が巧く、社交的。女たらしっていうか、人たらしだな。しかも容姿と話術だけじゃなく、剣と弓の名手ときている。特に弓では彼の右に出る者はいなかったらしい。名家の貴族令嬢から馬丁の娘まで、貴賤を問わず常に女たちの熱い視線を集めていたそうだ。女絡みの素行が悪すぎて、父親から勘当されちまったほどだ。………尤も、七賢者として〈勝利王〉の側近になった途端、勘当は解かれたそうだが。『一家の恥さらし』呼ばわりしていたくせに、聖王陛下の覚えめでたくなった途端『我がホーデンクノス家の誉れ』扱いだ。現金なもんだぜ」
スヴェアは苦い口調で続けた。
「だが、仮にホーデンクノス卿に庶子がいたとしても、ディアドラ系譜図書館に名が刻まれていない以上、そいつが今どこでどうしているかなんざ探りようがない」
「そうだよね………」
聖王シーグリエン家は、正妻である王妃……もしくは聖王が女王である場合は女王が……産んだ子のみが正当な世継ぎとされる。聖王の愛妾が産んだ子供には、決して王子・王女の位は与えられない。産んだ母親の家の子とされ、臣下の一人としてしか扱われない。聖王法典にもはっきりとそう明記されている。聖王の血統は神聖で、唯一無二のものだからだ。
しかし、貴族は違う。
正貴族・准貴族の場合は、庶子……つまり正妻以外が産んだ子でも、当主がディアドラ系譜図書館の家系図に名を刻めば貴族と認められた。その家の姓を名乗り、紋章を身に付ける事が許されるのだ。
しかし、必ずしも全ての庶子が家系図に名を刻まれるわけではない。特に、母親の身分が低い場合………平民であった場合は。
家系図に名を刻んでもらえなかった庶子は、一介の平民として一生を送る事となる。当然ながら、父親の家や財産を相続する事も、貴族を名乗る事も許されない。勝手に名乗れば刑罰に処される。
ディアドラ系譜図書館に名がなければ「貴族」ではないのだ。
母親が身分卑しい平民出の侍女であったにも関わらず、クレメンツがガラハイド家の家系図に名を刻まれたのも、単に前領主に公子がいなかったからだ。もともと子種が貧相だったのか、それとも長年にわたる度を超す飲酒のせいで子種が枯れたのか、前領主は生涯グラディアとクレメンツ姉弟以外子には恵まれなかった。
もし、前領主の公妃、あるいは他にも数人いた貴族出の愛妾が男子を産んでいたら、クレメンツは母親と同じように領主館を追い出され、母親と同じように日々の糧にすら困窮するような貧しい暮らしを強いられた事だろう。
だが、前領主が「仕方なく」クレメンツの名を家系図に刻み、跡継ぎに定めた事は、ガラハイド国の領民にとってはこの上ない幸運だった。でなければ「聖女ロザリンドの再来」と謳われる当代一の予言者マリエルがクレメンツに仕える事もなく、ガラハイド国はプレストウィック国のように〈天の民〉の槍と剣によって壊滅していたに違いないのだから。
「………でも……」
と、カナンは低く呟くように言った。
「………エイデンはまだ諦めてないよ。『約束の予言』を」
「そうなんだよなぁ………」
スヴェアは大仰に溜め息をついた。
ラーキンから、ホーデンクノス家最後の一人がすでに死んでしまった事を告げられた時、エイデンはただ短く「そうか」と言った。
これからどうするのかとカナンが問うと、
「『約束の予言』はすでに動き出している。なるようになるだろう」
と、彼は答えた。
落胆しているようには見えず、カナンは不思議に思ったものだ。
義兄一家を一度しか訪ねなかったラーキンとは正反対に、王都に到着してからのエイデンは度々外出していた。彼が一体どこへ何をしに行っているのか、カナンにはまるでわからなかった。いつの間にか姿が見えなくなり、そしてまたいつの間にか領主邸に戻っている。影のように。
一度、カナンはどこへ行っていたのか聞いてみたが、エイデンからは曖昧な答えしか返って来なかった。
「王都には他にも用がある」
ディアドラ系譜図書館を発つ日、エイデンはそう言った。「確認したい事があるのだ」と。彼の行き先も目的も告げぬままの度重なる外出は、その事と関係があるのかもしれない。
いつか、エイデンは話してくれるのだろうか?
それとも………またいつものように何も言ってはくれないのだろうか。
「必要ない」……と。
考え込むように顎をさすりながら、スヴェアが言った。
「…………あの予言にある『石の剣の王』ってのは、一体誰の事なんだろうな。エイデンはあの予言で何を果たしたいんだろうか。言っちゃなんだが、文言だけ聞くと不吉だろ? 『天は堕ち、海はあふれる』なんざ。クレメンツ公と宰相のグラディア様には、個人的な事で世界は関係ないと答えたそうだが」
カナンは風に揺れる木漏れ陽に視線をやった。
「…………エイデンは…………」
言葉が、自然に口をついて出ていた。
「…………多分、何かを正したいんだと思うよ」
スヴェアは一瞬驚いたように目をみひらいた後、くしゃっと苦笑した。
「まるで予言者みたいな事を言うんだな」
カナンは口を尖らせた。
「何それ。からかわないでよ」
「からかってねえよ」
「そんなにやにや笑いながら言われても信じられない」
「ひでぇな」
それから、二人は何となく無言のまま、ザクザクと砂利を踏みながら小路を進んだ。緑の壁のようにきれいに刈り揃えられた背の高い生垣を通り過ぎると、ようやく重厚な石造りの領主邸が姿を現わす。敷地が広すぎるというのも考えものだ。なかなか目的地に辿り着けない。猟犬が寄り添う乙女の手の壺から水が流れ落ちる大きな噴水の向こうに、樫材に金属の薄板と鋲を打った頑丈な領主邸の正面扉が見えた。
正面扉の両脇には警備の騎士が二人、厳めしい表情で立っていた。カナンたちに気付くと、カッ!と踵を打ち鳴らし、堅苦しい仕草で敬礼する。
こうやって毎回正面玄関で騎士に敬礼されるのにも、カナンはどうしても慣れる事が出来なかった。自分はそんな身分でも立場でもないというのに。
カナンとスヴェアは重い両開きの正面扉をくぐり、領主邸に入った。
広々とした玄関ホールは吹き抜けで、二階部分は円形回廊になっていた。ぴかぴかに磨かれた大理石の床にはガラハイド家の紋章が描かれている。
そして、正面の壁には、凝った装飾の額縁に入れられた大きなクレメンツの肖像画。領主邸の玄関ホールには、こんなふうに現領主の肖像画を飾るのが正貴族の慣習らしい。領主の肖像画などというと実物よりかなり見目好く威厳があるふうに盛って描かれるものだが、クレメンツはありのままの自分の姿を描かせていた。
実に彼らしいと、肖像画を見た時カナンはそう思った。
肖像画の前を通り過ぎ、カナンとスヴェアは来客用の小広間へ向かった。
ガラハイド国領主邸の来客用の小広間は、「小」広間と呼ぶにはあまりにも広々とした瀟洒な部屋だった。シルの邸で通された小広間よりもはるかに広い。繊細なレースのカーテンが縦に細長い窓から差し込む強烈な夏の陽射しを和らげている。客人が寛げるよう、室内にはクッションを置いた黒檀の長椅子と優雅な金のテーブルが据えられ、窓を模したニッチには淡雪色のふわふわしたティーツリーの花が飾られていた。白漆喰の壁に、磨き上げられた黒い樫材の柱や梁が上品なアクセントになっている。
三つの巨大なシャンデリアが吊り下がる天井には、川が流れる森の中での鹿狩りの様子が描かれていた。馬に乗った貴族たちやラッパを吹く従者たち、そして疾走する猟犬の群れと角を振り立てて応戦する牡鹿。今にも飛び出して来そうなほど鬼気迫る、躍動感に溢れた見事な天井画だ。牡鹿の太腿には矢が二本刺さっており、そこから滴る血や、牡鹿に反撃されて足を引きずる猟犬の様子まで精密に描かれている。はるか遠くに影のようにうっすらと見えるのはガラハイド国の領都だろうか? という事は、これはシグクントの森での鹿狩りの様子なのかもしれない。
こう言ってはなんだが、どこもかしこもガラハイド本国の領都にある領主館よりはるかに広大で、絢爛豪華な邸だ。辺境の一小国の身の丈にあっているとはとても言い難いが、王宮や他国の手前、面目を保つ為にはこのような広大で贅を尽くした邸にせざるを得ないらしい。
貴族っていろいろ大変なんだな、と、カナンは少し同情めいた感想を抱いたものだ。
小広間の壁には、美しいタペストリーと共に古いが立派な肖像画が掛けられていた。初代ガラハイド国領主の肖像画だ。先ほど横を通り過ぎた蓮池の騎馬像の乗り手と同じ顔をしているので、あれも初代領主の像なのだろう。
初代領主の肖像画とは反対側の壁際には侍従と騎士が三人ずつ、直立不動の姿勢で控えていた。
何故か、六人とも戸惑っているような困惑したような何とも微妙な表情をしている。
その理由はすぐにわかった。
小広間の中に二頭の馬がいたのだ。
「!?」
カナンは思わずその場に固まってしまった。
何故、姿が映るほど丹念に磨き上げられた大理石の床の上に馬がいるのか。
しかも二頭も。
しかし、カナンはすぐにその二頭が馬ではない事に気付いた。
山羊のそれのように二つに分かれた蹄。ピンと垂直に立った、先端にだけ房毛が生えた尻尾。牙が覗く口に、組み紐できれいに編み込まれた薄いたてがみ。
羽根食いだ。
どうしてこんなところに羽根食いが?
先に客人の相手をしていたらしいラーキンが、入って来たカナンたちに気付いて笑顔を向けた。
「ああ、カナン、来たのですね」
ラーキンの言葉に、彼と向かい合わせに立っていた男が振り返った。
荒野を馳せる狼を連想させる、鋭さの滲む精悍な顔立ちの男だった。隙のない、見事に鍛え上げられた体躯の持ち主だ。適度に日焼けした肌は褐色の鋼のようで、その下の美しくなめらかな筋肉を際立たせている。飾り気のない実用性重視の麻織物の衣装の上に簡易な革鎧をまとい、幅広の帯に反りのある特徴的な長剣を佩き、腕と足には文様を型押しした革製の武具を付けている。振り返った時、帯の背中側に吊るした飛び刃が渇いた金属音を立てた。
男には連れがいた。三十代前半………そう、例えるならガラハイド国宰相グラディア公女と同じくらい年令の、長身の女性だ。
彼女の出で立ちも傍らに立つ男とほぼ同じだった。まるでこれから戦場へと赴くかのような、凛々しい姿だ。男と同じように日焼けし、実用性のみ追求した衣装と武具を身に付け、同じ武器を佩びている。袖から覗く腕は女性らしい柔らかな曲線を残しつつもよく鍛えられ、詩やダンスに興じるのみの貴族女性のような弱々しさは微塵もない。肌は小麦色の光沢を放ち、眩いほどだ。長い睫毛に縁取られた濃紺色の瞳には、炎のような力強い輝きが宿っている。夕陽を浴びた小麦畑のように燦然と輝く波打つ金髪を結いもせず背に垂らし、唇には紅すら引いていないが、恐れるものなど存在しないかのように毅然としたその姿は気高く華やかだ。
まるで獣の女王・黄金色のヒョウのように。
「あなたたちは………」
〈地の民〉の言葉で言いかけたカナンは、〈天の民〉の言葉に言い直して尋ねた。
『あなたたちは〈獣使い〉の一族ですか?』
男は破顔した。
『本当に、君は我らの言葉を流暢に操るのだな。ジーヴァの言った通りだ。私はナイヴァル=テュボー。ジーヴァの兄だ』
カナンは目をみひらいた。
『ジーヴァの………?』
確かに、目元や鼻筋がジーヴァによく似ている。瞳の色も同じだ。
そして………
カナンは服の上からアリアンテを握った。
ジーヴァの兄という事は、彼もまた七賢者の末裔だという事だ。
また一人、カナンの前に七賢者の末裔が現われたのだ。
『約束の予言』に導かれるように。
ラーキン。
ジーヴァ。
そしてこのナイヴァル。
気付けば、まだ所在のわからない七賢者の末裔は、〈天の民〉であるエルレイと〈勝利王〉オニールの右腕であった軍師イル=ファン=イアの子孫だけだ。
もしかして、エイデンが度々出かけているのは、イアの子孫を探しに行っているのだろうか?
しかし、やはり……先ほどスヴェアとも話したように……ホーデンクノスの血筋はすでに絶えてしまっている。エルレイの血縁者にしても、奇跡でも起きない限り見つけ出す事は不可能だ。
もはや、『約束の予言』は覆されてしまったのではないのだろうか?
しかし、今のカナンには、それをエイデンに面と向かって告げる勇気はなかった。
自分は何と臆病で、卑怯なことか。
夏物の薄い生地越しに、アリアンテのひんやりとした感触が掌に染みてくる。
カナンはアリアンテから手を離し、改めて頭を下げた。
『初めまして。カナン=カナカレデスです』
『こちらこそ。君に会えて嬉しいよ。………ところで』
ナイヴァルは、〈天の民〉の言葉から〈地の民〉の言葉に切り替えて続けた。
「私たちは君たちの言葉も操れるから、そちらで話そう。その方がラーキンにも理解出来る」
「わかりました」
カナンは頷いた。
ラーキンは〈獣使い〉の一族の血を引いてはいるが、彼らの言葉は喋れない。
「君の事はジーヴァからいろいろ聞いている。彼女は君の話ばかりしているよ」
「ほんとですか!?」
聞き返した声が思った以上に弾んでしまい、カナンは自分でも驚いた。
はっとしてスヴェアの方を見ると、面白そうににやにや笑っている。
この人はほんとに人が悪い。
カナンはスヴェアを睨んだ後、再びナイヴァルに視線を戻した。
「ジーヴァは元気ですか?」
「ああ。元気すぎて困るくらいだ。私たちと一緒に来る事が出来なくて、とても残念がっていたよ」
微笑むと、獲物を狙う狼のようなナイヴァルの双眸が少し優しくなった。兄という事もあるだろうが、ジーヴァよりかなり落ち着いた雰囲気の持ち主だ。外見年令は二十代半ばだが、ジーヴァがまだ六才であったように、このナイヴァルも彼の傍らの女性もきっと驚くほど年若いのだろう。
彼ら〈獣使い〉の一族は〈地の民〉よりはるかに成長が早いから。
「父カハンティも、君によろしく伝えてくれと言っていた。彼もドラン(ワクトーの事)の孫である君に会いたがっていたが、一族の長が戦線を遠く離れるわけにはいかないからね」
カナンは眉をひそめた。
「カハンティ」とは、確か先の大戦で戦死した七賢者の一人の名前ではなかったか?
「えっと………あなたのお父さんの名前のカハンティって……?」
「我ら〈獣使い〉の一族は、代々親の名を受け継ぐのだ。息子が父の名を、娘が母の名を継ぐ。父は、私の祖父が亡くなった時に『カハンティ』の名を継いだ。ジーヴァもそうだ。私たちの母が亡くなった時に『ジーヴァ』の名を継いだ。将来、私の父が死んだ時は私が、そして、私が死んだ時は私の息子が『カハンティ』の名を継ぐだろう」
「そうやって、我らの血と名は永遠に生き続けるのだ」
それまで黙ってカナンとナイヴァルの会話を聞いていた女性が、そこで初めて口を開いた。
華やかな外見に比してやや低めの、よく通る声だった。
「だが、一族の長は名と共に影も継ぐ」
カナンは聞き返した。
「影を?」
女性は頷いた。
「そうだ。それが長の証だ」
一族の長である事を表わす宝飾品か何かの事なのだろうか? 王冠や、紋章入りの指輪のような。「影」だなんて、あまりらしかぬ変わった呼び名だけれど。
内心で首をひねるカナンに向かって、女性は口調を改めて言った。
「初めまして、マルドラン。私はシャリマー=ニネ」
「マルドラン」とはジーヴァがカナンに付けた通り名だ。意味は「緑の手を継ぐ者」。
〈獣使い〉の一族は、一族以外の親しい者を通り名で呼ぶ。例えば、エイデンを「月のない夜」、ワクトーを「緑の手」というふうに。
正直言って、ちょっとややこしい。カナンも未だに呼ばれ慣れない。自分の事だと気付くのに数秒かかってしまう。
シャリマーの言葉を補足するように、ナイヴァルが言った。
「シャリマーは〈獣使い〉の一族で唯一の予言者だ」
「そうなんですね」
「シャリマー」という名前にカナンは聞き覚えがあった。
すぐに思い出す。
ディアドラ系譜図書館で、ジーヴァが「時々本気で首をへし折ってやりたくなる」と憤っていた、したり顔でもったいぶった事を言うというあの予言者だ。
思い出し笑いをしそうになり、カナンは咳払いしてごまかした。
「初めまして、シャリマーさん」
それから、カナンはまるで等身大の彫像のように小広間のど真ん中に堂々と立っている二頭の羽根食いを振り返った。
「ところで、この羽根食いはどうして室内にいるんですか?」
シャリマーは「一体何を言っているんだ」と言わんばかりの顔をした。
「羽根食いは常に我らと共にあるのが正しい。彼らはジェナが選んだ魂の半身なのだから。だから、私のカシュテサもナイヴァルのジヌーもここにいる。当然の事だ」
喋っている言語は同じはずなのに、先ほどの影を継ぐ云々と同様、カナンにはシャリマーが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
取り敢えず、二頭の羽根食いの名前が「カシュテサ」と「ジヌー」であるらしいという事以外は。
そう言えば、ディアドラ系譜図書館のホステッド・コスの玄関前でも、ジーヴァが同じような事を言っていたような………
「えーと………ジェナって?」
「我ら〈獣使い〉の一族に許しと加護を与えた者だ」
やっぱり全然わからない。
カナンは助けを求めるようにスヴェアを振り返ったが、彼はちょっと肩をすくめただけで、すでに理解する事を放棄してしまっている様子だった。
助け舟を出してくれたのは、ラーキンだった。
「要するに、〈獣使い〉の一族と羽根食いは常に一緒にいるのが『普通』で、それが当然だという事のようですよ。例え建物の中であろうとも。ですから、ホステッド・コスでも、ジーヴァは羽根食いと一緒に中に入ろうとしたのでしょう」
ナイヴァルが頷く。
「その通りだ。我らにしてみれば、君たちが馬を別の建物に住まわせている事の方が理解出来ない。それでは敵襲の際すぐに跨れないではないか」
「はあ………」
何と答えたらよいものか。
スヴェアが言った通り、なかなかインパクトのある客人だ。
ちょうどその時、扉が開いたままだった小広間の入口に見慣れた黒衣が姿を現わした。片手に折り畳まれた白い紙を持っている。
真っ先に気付いたカナンが声をかけた。
「あ、エイデン。おかえり」
カナンの言葉に、ナイヴァルたちも振り返る。
常に冷静で表情に乏しいエイデンも、思いがけない来訪者に驚きを隠せない様子だった。立ち止まり、目をみはっている。
『これは………何故、君たちが王都にいるのだ?』
唐突にシャリマーが動いた。つかつかと大股でエイデンに歩み寄る。
そして………
いきなりエイデンの頬を思い切り引っぱたいた。
パアン! と、小気味よい音が小広間中に響き渡る。
その場にいた全員がぎょっとして凍りついた。
あのエイデンを引っぱたくとは。
なんと命知らずな。
肩を怒らせ、仁王立つシャリマーに、殴られた当のエイデンは訝しげに尋ねた。
『…………何故、私は君に殴られなければならないのだ?』
『よくもまあそんな平然と私の前に立てるものだな! 憎たらしい! どうして私に黙って〈石の鎖の庭〉を出て行った!?』
エイデンは「わけがわからない」というふうに眉をひそめた。
『ディアドラ系譜図書館でジーヴァも似たような事を言っていたが………何故、君に断わりを言う必要がある?』
『必要ないとでも言うのか!? なんて薄情な男だ、お前は! 全く信じられん!』
巨石をも木っ端微塵に吹き飛ばしそうな怒りに満ちた罵声を真正面から浴びせられ、困惑しまくっているエイデンの姿は、なかなかの見物だった。
「あのぅ………」
カナンは、黙って二人の様子を眺めているナイヴァルに小声で尋ねた。
「ひょっとして、シャリマーさんってエイデンの事………?」
ナイヴァルは苦笑した。
「剣の腕は誰にも負けぬし、頭も切れる男だというのに、ある方面だけは極端に鈍くて困ったものだ、ファミーガは」
そうなんだ。
カナンはまだ言い争っている………というか、一方的にシャリマーに怒鳴られているエイデンに視線を戻した。その様は、まるで小さな子犬にキャンキャン吠えたくられて困り果てている狼のようだった。
エイデンの別の一面を垣間見たような気がして、カナンはおかしかった。
エイデンとシャリマーに視線を向けたまま、ナイヴァルは〈天の民〉の言葉に切り替えてカナンに囁いた。
『アンダーレイの処刑の件は聞いたよ』
カナンははっと彼を見た。きゅっと下唇を噛む。
『…………嫌な事件ですよね』
ラーキンにとっては特に。
ナイヴァルもそう思っているから、〈天の民〉の言葉に切り替えたのだと、カナンはすぐに理解した。壁際に控えているガラハイド国の騎士や侍従たちに、話の内容を聞かれないようにする為に。
彼らを疑うわけではないが、念の為に。
どこから漏れるとも限らないのだから。
カナンとナイヴァルが何について話しているのか、言葉はわからなくとも二人の表情を見て聡く察したスヴェアが、騎士と侍従たちに向かって命じた。
「しばらく外してくれ」
「畏まりました」
スヴェアと同じく〈天の民〉の言葉は理解出来ないが、エイデンとシャリマーの様子から大体の事情は察して口元が緩んでいた騎士や侍従たちは、慌てて表情を引き締めると丁寧に頭を下げて退室した。
扉が完全に閉まったのを確認してから、ナイヴァルは再び〈地の民〉の言葉に戻した。
「ドンとロザリンドの孫がここにいる事は、王宮には知られていないのだね?」
カナンは頷いた。
「大丈夫です。絶対に知られないようにしないと」
ナイヴァルはラーキンに向き直った。
「君に提案があるのだ、ラーキン。その為に私たちは来た」
「? 何でしょう?」
「私たちと共に〈石の鎖の庭〉へ来る気はないかね?」
「!」
ラーキンは息を飲んだ。
カナンとスヴェアも。
「君が来てくれれば、私も一族の者も非常に嬉しい。途絶えたと思っていたエスの血が再び戻ってくるのだから」
「だが、今〈石の鎖の庭〉は戦場だ」
横からスヴェアが言った。
「しかも最前線だ。ひと月前のガラハイド国のように。俺やエイデンならともかく、ラーキンは剣を扱う人間じゃないんだぞ」
やや非難めいた口調で言うスヴェアを、ナイヴァルは静かな表情で見やった。
「〈石の鎖の庭〉全域で常に〈天の民〉軍と交戦しているわけではない。連中は未だ我々の土地のほんの入口にしか入り込めていない。それに、私たちはラーキンに〈石の鎖の庭〉に永住して欲しいと言っているわけではない。危険が去るまで、彼の身の安全を図りたいのだ」
ナイヴァルは、掌を上に向けた右手をスッと横に動かした。
「確かに、この領主邸は言わばガラハイド国領内と同じ。他国の領主や騎士、王都の治安官や役人でも迂闊に手出しは出来ないだろう。しかし、相手が聖王の場合は別だ」
「!」
スヴェアははっと表情を硬くした。
ナイヴァルは続けた。
「例え君たちガラハイド国の騎士や、領主の信任厚いレディ・マリエルでも、聖王の命には逆らえない。何故なら君たちは〈地の民〉だからだ。もし、聖王がラーキンの引き渡しを命じてきたら、君たちは従うしかない。………違うかね?」
スヴェアは苦々しげに頷いた。
「…………ああ。そうだ」
「そんな………」
カナンは茫然と呟いた。傍らのラーキンを見やる。
ラーキンは体の横で固く両の手を握り締めていた。
その可能性を、彼もわかっているのだ。
ナイヴァルは浅く息をついた。
「そして、秘密とは漏れるものだ。どれほど用心していても」
ナイヴァルはラーキンの肩に手を置いた。
「今ここですぐに決めろとは言わない。だが、ぜひ私の提案を考えてみて欲しい」
「彼女が何か予言たのですか?」
ラーキンは、まだエイデンに噛みついているシャリマーを目線で示して尋ねた。
「だから、あなた方はいらしたのですか?」
ナイヴァルは頭を横に振った。
「そうではない。私たちがここに来たのはドン=エスの孫に会いたかったからだ。〈地の民〉として育った君には理解出来ないかもしれないが、途絶えたと思っていた血が戻ってきたという事は、我ら〈獣使い〉の一族にとって祝福すべき奇跡なのだ。ディアドラ系譜図書館から戻ったジーヴァから君の事を聞いた時、一族がどれほど歓喜し、ジェナの加護に感謝したことか」
ナイヴァルはシャリマーに暗い目を向けた。
「…………それに、予言者とて全ての未来が視えるわけではない。世の流れを大きく変える変事であっても、啓示が全くない時もある。『予言とは時と場所を選ばぬもの』………だったかな? 三年前、ウィメス王子が死んだ時もそうだ。彼の死を予言した予言者は誰一人いなかった。あれほどの悲劇を」
ナイヴァルはラーキンに視線を戻した。
「君は、我らにとって大切な一族の一員だ、ラーキン。〈獣使い〉の一族は決して同胞を見捨てない。シャリマーが予言してもしなくても、君に危険が及ぶ可能性が少しでもあるのであれば、我ら一族は見過ごせない。だから来たのだ」
ナイヴァルは、ラーキンの肩に置いた手に軽く力を込めてから放した。
それから、彼はやや大きな声でシャリマーに向かって言った。
「シャリマー、もう良かろう。そろそろ行かねば」
ナイヴァルの言葉に、シャリマーはようやく渋々といった体で怒りを引っ込めた。
しかし、彼女はすぐにナイヴァルの所へ戻ろうとはしなかった。エイデンの胸に人差し指を突きつけ、シャリマーは低く鋭く言った。
『お前の過去が姿を現わすぞ、ファミーガ。腹をくくれ』
『………何?』
シャリマーの常人とは異なるものを映す濃紺色の瞳には、心の奥底までをも貫くような厳かな光が宿っていた。
『ディアドラ系譜図書館でのお前は愚かだった。どれだけマルドランを傷つけたと思うんだ? 彼はお前の怪我の手当てをしてやろうとしたのに。マルドランが差し伸べる手を拒むな。でないと彼は選択を誤る事になるぞ』
エイデンは微かに目をみひらいた。シャリマーが何の事を言っているのかわかったからだ。
『何故、君がそれを………』
『予言たからに決まっているだろうが。馬鹿め。お前は誰よりも利口なくせに、時々ひどく愚かな真似をする。一体、お前は何を怖れているんだ?』
そう言い捨てると、シャリマーはエイデンが何か言う前にさっさと踵を返した。
戻って来たシャリマーにナイヴァルが尋ねた。
『気は済んだか?』
『これっぽっちも!』
憎々しげな返事が飛んでくる。
ナイヴァルは「やれやれ」といったふうに溜め息をついた。
ラーキンがナイヴァルに尋ねた。
「これからどちらへ?」
「水晶王宮だ。王都まで来ておきながら聖王に挨拶もしないのでは、『盾の誓い』の礼儀に反する。その後はエメルソン国領主邸へ。今はナサニエルに代わり、エメルソン国領主ユンドラ公が我らと王宮との連絡役だからね。私も会ったが、ナサニエルの友人だけあって聡明で気骨のある人物だ。王都にいる間、私たちはエメルソン国領主邸に滞在する」
ナイヴァルは頭を振りつつ苦い口調で続けた。
「本当は、我ら一族の大事な友であるナサニエルの元も訪ねたいのだが、そうもいくまい。これ以上、彼が聖王にいらぬ疑惑を抱かれては困る。我ら一族としても、此度のナサニエルの身に起こった事は実に残念でならない」
ラーキンは暗い面持ちで頷いた。
「ええ………本当に」
ウィーアードにオルデン国領主の座を取り上げられて以来、ナサニエルは王命通り王都にあるオルデン国領主邸で蟄居していた。彼の性格からしてこのままおとなしくしているとはとても思えないのだが、今のところナサニエルにもオルデン国にも全く動きは見られない。静かすぎて不気味なほどだ。最近では、ナサニエルは体調を崩し臥せっているらしいという噂も流れている。領主の地位を剥奪され、栓を抜いた桶の水のごとく瞬く間に王宮での影響力も消え失せてしまって、さすがの彼も精神的に相当参っているのだろう、と。
ナイヴァルが言った。
「では、私たちはこれで失礼する。また会おう、ラーキン。マルドランも」
「はい」
「会えてよかったです」
スヴェアは小広間の扉を開けると、下がらせていた騎士の一人を呼び戻した。
「フィロズ! 客人がお帰りだ」
「は!」
急いでやって来たフィロズは、客人に向かって丁寧に頭を下げた。
「門までお送りします」
「ありがとう」
と言いながら、ナイヴァルとシャリマーが何の躊躇もなくその場で羽根食いに跨ったので、カナンはぎょっとした。
え………ここまだ邸の中なんだけど?
思わずスヴェアを見やったが、彼は諦めたような表情をしている。
もしかして、彼らは訪れた時も羽根食いに跨ったまま領主邸の中まで入って来たのだろうか?
頭をぶつけないよう身を屈ませながら小広間の扉をくぐる時、シャリマーが呟くのが聞こえた。
『〈地の民〉の建物は出入り口の高さが足りないな』
…………どうやら、本当に羽根食いに跨ったまま中に入って来たらしい。
エメルソン国領主邸にも羽根食いに跨ったまま中に入るつもりなのだろうか?
領主邸の玄関扉の前で遠ざかるナイヴァルとシャリマーの後姿を見送りながら、カナンはエメルソン国領主邸の人々に同情した。
「…………面食らうだろうなぁ」
ジーヴァとホステッド・コスの支配人の時のように、玄関先で揉めなきゃいいんだけど。
スヴェアが人の悪いにやにや笑いをエイデンに向けて言った。
「派手にぶっ叩かれてたなぁ。あんな小気味いい音を聞いたのは久し振りだぜ。誰かに頬を冷やす物を持って来てもらおうか?」
「必要ない」
憮然とした答えが返ってくる。
カナンはラーキンをそっと見やった。
ナイヴァルたちの姿が見えなくなっても、ラーキンはまだ彼らが去った方角を見つめたままだった。
「ナイヴァルさんからの提案、ラーキンはどうするの?」
カナンが問うと、ラーキンは迷うように足元に視線を落とした。
「…………少し、考えてみます」
そう言い残し、ラーキンは邸内へと踵を返した。ナイヴァルの提案を受けるのか、それとも断るのか、自室で一人静かに考えるのだろう。
ラーキンはどんな決断をするのだろうか?
邸内へと入っていく彼の姿を見送りながら、カナンはそう思った。
確かに、王都にいるより〈獣使い〉の一族と一緒にいる方がラーキンにとっては安全かもしれない。いつ王宮に彼の祖母の事を知られてしまうかと、びくびくしなくてもいい。
しかし、先ほどスヴェアも指摘したように、〈石の鎖の庭〉は今戦場だ。ナイヴァルはああ言ったが、いつ戦火が拡大しないとも限らない。
そうなれば、返ってラーキンの身に危険が及ぶ結果となってしまうのではないか?
強い夏の陽射しが照りつける外から見る邸内は思った以上に暗く、ラーキンの姿はすぐに影に紛れた。
「………さてと」
と、スヴェアが気を取り直すように言った。
「それじゃ、俺たちも行くか、カナン」
剣の稽古に、という意味だとすぐにわかったカナンは、エイデンの白い顔をちらと一瞥してから頷いた。
「うん」
………だが。
「待て、カナン」
スヴェアと共に歩き出したカナンを、エイデンが呼び止めた。
「………何?」
カナンはやや固い表情で振り返った。もしかして、スヴェアに剣を習っている事を今更ながら反対するつもりなのだろうかと思ったのだ。
スヴェアもカナンと同じ事を考えたらしく、カナンの傍らに突っ立ったまま険しい目つきでエイデンを睨んでいる。
しかし、そんな彼らの心中など全く知らぬふうに、エイデンはずっと手に持ったままだった折り畳まれた紙をカナンに差し出した。
「先ほど届いた。君と、私宛だ」
カナンは首をかしげた。
「僕とエイデンに?」
エイデンが差し出したのは一通の手紙だった。高貴な身分の者が使うようなやや厚みのある上質な紙で、表面にはさざ波模様に銀粉が散らしてある。封蝋は割られており、エイデンはすでに読んだらしい。
「俺は先に行ってる」
エイデンがカナンを呼び止めた理由がわかり、表情を和らげたスヴェアが言った。
「場所はいつもの所だから」
「うん。わかった」
カナンはスヴェアに頷き返すと、エイデンに視線を戻した。
手紙を受け取り、開く。
「僕たち二人宛に手紙なんて、一体誰から…………え!?」
文面に目を走らせたカナンは、驚きのあまり思わずエイデンの顔を見上げていた。
*
後日、ガラハイド国領主邸内では、
「エイデンが昔捨てた女が追いかけてきて、彼の顔をぶん殴り修羅場になった」
という噂が、まことしやかに流れる事となった。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。
ジーヴァのお兄さんと、第2巻 七賢者の末裔 で名前だけ出ていたシャリマーの登場です。
シャリマーのキャラを作った当初から、あの平手打ちシーンは考えていました。必須項目です。
ほっぺを冷やすエイデンの姿を想像すると微笑ましい(笑)
もう少し女心を理解しようよ、エイデン。君の心は海底に沈んだ石か?
てか、誰かエイデンに教えてあげなさい。
あの場にいたガラハイド国領主邸の騎士と侍従六人のうち、邸内にエイデンの捨てた女云々の噂を広めたのは果たして誰か。
多分、六人全員ですね(笑)
次回はマリエルのお話が中心となります。
そう、結婚式をドタキャンされたあの気の毒な彼との対峙です。
次回も引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




