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石の剣の王3 集結  作者: 水崎芳
第五章 兄と弟
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第五章 兄と弟(2)

第五章 兄と弟(2)をお届けします。

最後まで読んで頂けますと嬉しいです。

         *

 シファに(いざな)われ入った別室には、縁に美しい彫刻と銀の飾りが施された横長い大理石のテーブルの上に、すでに数々の料理がずらりと並べられていた。

 料理から立ち昇る湯気が食欲をそそる。

 壁際には数人の給仕が息をせぬ彫像のように微動だにせず控えており、また四隅には警備の兵が厳めしい表情で立っていた。

『さあ、ルカ、座ってくれ』

『はい、兄上』

 シファに促されるままルカが席につこうとすると、給仕の一人が滑るようにスーッと近付いてきた。

 手慣れた仕草でルカの椅子を引く。

 ルカは戸惑った。給仕に椅子を引いてもらうなど、〈庭園〉ではあり得ない事だったからだ。

 そもそも〈庭園〉には給仕などいない。

 シファも席についたのを合図に、別の二人の給仕がなめらかな動作でシファとルカのグラスに淡い金色の酒を注いだ。

 続いて、手に(とう)を編んだ平たい籠を持ったこれまた別の給仕が近付いてきて、被せていた真っ白な布をめくり、焼き立てのパンを恭しく皿に置く。テーブルに近付く時も、離れる時も、足音ひとつ立てない。まるで影か霧のようだ。

『どうした?』

 戸惑い気味のルカの様子に気付いたシファが尋ねてきた。

 ルカは曖昧に頭を横に振った。

『いえ、ただ………〈庭園〉では、飲み物を注ぐのもパンを取るのも自分でやっているので………』

『給仕はおらぬのか?』

『はい』

『そうか』

 給仕がいない事の方が不可解だというふうに、シファはわずかに頭を傾けた。

 〈庭園〉では、ルカはいつも守護者テンペランスも含めた大勢のハランたちと一緒に和やかながらも賑やかな食事をしていた。〈庭園〉の最高位にあるテンペランスですら、飲み物は自らグラスに注ぎ、隣の席から回ってきた籠からパンを取る。

 もし、アマルハス=アトフやスカワ=オキトワがその様子を見たら、士官学校の食堂のようだと思った事だろう。

 シファはテーブルの上に所狭しと並べられた数々の料理を示しながら、冗談めかした口調で言った。

『誤解のないよう言っておくが、私はいつもこのように贅沢な食事をしているわけではないぞ。今日は特別だ。お前と食事をするのだから。家族二人、兄と弟で』

 ルカは微笑んだ。

『はい』

 とは言ったものの、壁際に居並ぶ給仕と警備の兵たちに見守られながらの食事は、正直言ってルカには落ち着かないものだった。料理も種類が多すぎて、どれから手をつけたら良いのかまるでわからない。取り敢えず先ほど給仕が配ってくれたパンをちぎって口に運ぶと、リンゴの甘酸っぱい味と香りがした。

 どこかぎこちなくしばし食事が進んだ頃、ルカはふとある事に気付いた。

『兄上、この料理………もしかして、私の好みに合わせて下さったのですか?』

 ()()ルカの好物をシファが知っているはずがない。という事は、つまりシファは〈庭園〉にわざわざ事前に問い合わせて、王宮の料理人にこれらの料理を作らせたという事になる。

 シファは少し照れたように微笑んだ。

『まあな』

『お気遣いありがとうございます』

『礼など無用だ』

 ルカは目線で室内を示した。

『いつもここで食事を?』

 こんなふうに、全く喋らぬ給仕や警備の兵に囲まれながら、たった一人で?

 シファは頭を横に振った。

『いや。ここではあまりとらぬ。執務もあるし、食事の為だけにわざわざ奥宮(ここ)まで戻るのも億劫なのでな。奥宮へは寝る為だけに戻っているようなものだ。だが、それとて執務室での仮眠で済ませてしまう事も多い』

 シファは苦笑しつつ続けた。

『奥宮の宮廷官たちには、もっと奥宮を使ってもらわねば自分たちがいる意味がないと愚痴られているがな』

『王の務めはお忙しいでしょうが、どうかご自分のお体も大切になさって下さい』

 気遣うルカに、シファは鷲のように精悍な光を放つ瞳を和らげた。

『嬉しい事を言ってくれる。お前は優しいな、ルカ。母上も、今のお前を見たらきっと喜ばれた事だろう。お前が〈庭園〉に入った後、母上はお前に会いに行きたいと涙ながらに何度も父上に懇願していた。父上は決して許さなかったが』

 ルカは目をみひらいた。

『そう………だったのですか?』

 そんな事は全く知らなかった。

 そんなふうに母が悲しみ、泣き暮らしていたなんて。

 しかし、一見非情に思えるが、何故グロフトがナヤに息子(ルカ)と会う事を許さなかったのかは、ルカには理解出来た。幼いルカが母と王宮を慕って戻りたがる可能性があったし、何より民の上に立つ王妃としてそのような我儘は許されない。ハランの親たちは皆、愛しい我が子に会いたい気持ちを懸命に押し殺し、耐えているのだから。

 ハランが家族に会う事が出来るようになるには、〈庭園〉の守護者から一人前のハランになったと認められ、ハランの証アリアンテを授けられなければならなかった。

 例外はひとつだけ。

 家族の葬儀だ。

 〈庭園〉に入って以降、ルカが母ナヤの顔を見たのは、彼女の葬儀の時だった。棺の中に横たわり、永遠に目を閉じた母の顔だ。

 ある朝、いつも通りナヤに仕える宮廷女官が彼女を起こしに寝室へ行くと、彼女はベッドの上ですでに冷たくなっていた。寝ている間に心臓が止まってしまったのだ。

 例え三百年を超える長寿を誇る〈天の民〉であろうとも、〈地の民〉と同様病には勝てない。

 もし、その場に誰かいれば、すぐに彼女の異変に気付き、もしかしたら助かったかもしれない。しかし、夫であるグロフトはいつも通り執務に追われ、その日も奥宮には戻っていなかった。

 深夜、誰もいない寝室のベッドで孤独な最期を遂げた母。

 葬儀の場で、シファから母の最期の様子を聞いたルカは、いたたまれぬ気持ちになったものだ。

 空になったグラスに給仕に酒を注がせながら、シファは言った。

『王妃を娶れば奥宮で食事をする事も増えるだろう。なるべくそうしたいと思っている。子が出来れば尚更。何故、父上が奥宮を留守にしがちだったのかは、自身が王位に就いた今は十分理解出来るが、私は父上と同じ轍は踏まぬつもりだ。王であろうと一介の市井の民であろうと、家族は大事にせねば。失ってから後悔しても遅いのだ。父上は、母上を一人で死なせてしまった事をずっと悔いておられた』

『兄上………』

 ルカは薄く微笑んだ。

 先ほど、シファはルカの事を「優しい」と言ったが、そう言うシファの方がよほど優しい。

『兄上の妃となる女性は、きっとこの上なく幸せでしょう』

『妃か………』

 シファは溜め息をついた。

『最近、家臣たちがいつ私は王妃を娶るのかとうるさくてかなわぬ。確かに、私は歴代の翼の王の中では婚姻が遅い方だからな、彼らの懸念はわからぬでもないが』

 こんな事を聞いても良いのだろうかと内心迷いながら、ルカは恐る恐る尋ねた。

『何故、なかなか王妃をお決めにならないのですか?』

『いろいろ難しいのだ。王妃には翼の王(わたし)と共に民を統治する能力が必要だ。時には私の行いを諫め諭し、常に民に心を砕き、慈悲深くあらねばならない。私が〈女神の御手の上(レピッテウォルト)〉を留守にする時は、私に代わり摂政として執政も担わなければならない。伝統として王妃は軍人の家系から選ばれるが、それとて王宮や軍内部での力関係に直結する。王妃候補本人だけではなく、彼女の両親や兄弟姉妹、親戚連中の人格も考慮せねばならない。王妃(本人)は申し分なくとも、家族や親族が無能な権力欲の権化では困る』

『…………いろいろ難しいのですね』

『心配するな。私とてちゃんと考えている。全く候補がおらぬわけではない。此度の〈地の民〉との戦が終わったら、はっきりさせるつもりだ』

 ルカはきゅっと唇を引き結んだ。シファが〈地の民〉との戦の最前線へ赴く予定である事を思い出したのだ。

『いつ、コンシャナフォアへ発たれるのですか?』

『もう間もなくだ』

 翼の王が最前線に立つ事自体にももちろん意味があるが、シファがコンシャナフォアへ赴く第一の目的は増援だ。現在、翼の王の直轄部隊である〈ロムルス大隊〉を中心に、アマルハス=アトフやハヴァメム=ラトレルら将軍率いる部隊が、出陣に備え着々と準備を整えている。

『そうなれば、コンシャナフォアの兵力は今の二倍以上になる。圧倒的多数をもって、〈石の鎖の庭(ブラントーム)〉に居座っているあの忌々しいシーマー共を一気に殲滅し、次に〈地の民〉の王都と水晶王宮を()とす。父上が成し得なかった事をするのだ。聖王ウィーアードと、彼奴のたった一人の王女(むすめ)を捕らえ、民の目の前で八つ裂きにして冠鷲の餌にしてくれよう。〈地の民〉共は王家を失い、そして自らの命をも失う事となる』

 開戦時、シファが派兵した〈天の民〉軍の数は、七十年前よりはるかに多かった。父グロフト王が犯した過ちを繰り返すまいと、万全を期したのだ。コンシャナフォアを本陣としたのも同じ理由だ。

 それなのに、結局また戦は長引いてしまっている。戦線は膠着し、コンシャナフォアは〈石の鎖の庭(ブラントーム)〉の北の端にほんのわずか食い込んでいるだけだ。軍内部では、シファの戦略の甘さを囁く声も出始めていた。

 シファ陛下は自信過剰に過ぎるのではないか? と。

『ロイックもコンシャナフォアへ行くのですか?』

『そうだ。ロイックと、他にも数名のハランが我らに同行する。〈黄金の鷺(ここ)〉と同様、ハランあってのコンシャナフォアだからな、現在コンシャナフォアに従軍しているハランたちの負担軽減の為だ。交替させる者もいる。だが、ある程度目途が付いたら、ロイックは〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉へ戻らせるつもりだ。彼には、〈庭園〉でコンシャナフォアへの派遣を希望しているハランたちの取りまとめと調整をしてもらわねばならぬからな』

『そうですか………』

 交代要員が複数いるほどロイックの賛同者が多いという事実を改めて思い知らされ、ルカは暗い気分になった。

 コンシャナフォアを制御するハランが相次いで〈獣使い〉の一族に討たれた時も、すぐに代わりのハランが派遣された。彼らは無理強いされたわけでも、誰かに命じられたわけでもない。自ら志願して最前線へ赴いたのだ。

 今回、ロイックと共にコンシャナフォアへ発つハランたちも、おそらくそうなのだろう。

 一体、誰が行くのだろうか?

 ルカは、ロイックの影を帯びた顔を思い出しながら言った。

『………ロイックの事なのですが………』

『彼がどうした?』

『今日、王宮(ここ)に来る前にロイックに会ったのですが、その時に彼が妙な事を言っていたのです。「自分は姓を変えた」とか何とか………一体どういう意味なのか、兄上はご存知ですか?』

 グラスを口元に運んでいたシファの手が、ぴたりと止まった。

 シファはひとつ浅く息をつくと、壁際に居並ぶ給仕と警備の兵に向かって命じた。

『しばらく外せ』

『御意、陛下』

 給仕や警備の兵たちは恭しく一礼すると、ぞろぞろと部屋を出て行った。

 彼らがいなくなると、ただでさえだだっ広い部屋がよけいに広く感じられた。

 シファはグラスを置くと、テーブルの上で両手の指を組み合わせた。

『ロイックがお前にそう言ったのか?』

『はい。言ったというか、思わず口走ったといった感じでしたが………』

『………そうか』

 シファは目を伏せた。言うべきか否か迷っているようだった。

 しばしの推敲の後、シファは意を決したように目を上げた。

『そうだな。翼の王の弟たるお前は知っておいた方がよかろう。確かに、ロイックは姓を変えている。先の大戦後に。彼の元の名はロイック=ズヌイ。かの大罪人エルレイ=ズヌイは、彼の実の弟だ』

『!!』

 驚きのあまり言葉をなくすルカの反応を確認しながら、シファは続けた。

『ロイックの他にも、あの当時ズヌイ姓の者は皆姓を変えたはずだ。父上の計らいでな。ゆえに、現在〈天の民〉にズヌイ姓の者は存在しない。万一、大罪人の血縁であると知られれば、どんな危害を加えられるかわからぬからだ。実際、先の大戦中も大戦後も、数名のズヌイ姓の者が家を焼かれ、襲撃された。命を奪われた者もいる』

 自分たちを裏切り、あろうことか敵である〈地の民〉に寝返った大罪人エルレイ=ズヌイに対する〈天の民〉の怒りと憎悪は凄まじく、生きている者へはむろんの事、その矛先は故人にまで向けられた。ズヌイ姓の墓は悉く打ち壊され、暴かれて、古い遺骨は粉々に砕かれ、埋葬されて間もない骸はばらばらに切り刻まれて野晒しにされた。

『父上は、息子エルレイを処刑した後に自害したカデナル将軍の墓の在処を秘匿し、墓碑には別の名を刻ませた。真の名では墓が荒らされるからだ。ロイックの母も、息子(エルレイ)の罪深さと(カデナル)の末路に耐えきれず、大戦後間もなくして心を病み、自ら命を絶ったと聞いている。彼女は夫とは異なる地に葬られたはずだ。そう遺書にあったと、いつだったかロイックが言っていた。「愛する息子を惨たらしく殺した()の隣で眠るのは絶対に嫌だ」……と』

『…………男………』

 「夫」ではなく。

 ロイックの母のやり場のない悲しみと怒りを表わしているかのような遺書の文言に、ルカは胸を衝かれた。エルレイ=ズヌイの犯した罪が、ロイックの家族をズタズタに引き裂いてしまったのだ。

 シファは苦い口調で続けた。

『一般のズヌイ姓の者は、姓を変え家を捨てて遠くの地に移れば済むが、ハランであるロイックは姓を変える事は出来ても〈庭園〉を出るわけにはいかなかった。ずいぶんと辛い目にも遭ったようだ。それまでは、「兄弟揃ってハランの才を持つとは素晴らしい」「両親もさぞや鼻が高かろう」と、周囲から称賛され羨望の的であったというのに。…………天地がひっくり返るとは、まさにああいう事を言うのであろうな』

『……………私は………何も知りませんでした』

 茫然と呟くルカに、シファは慰めるように表情を和らげた。

『全てお前が生まれる前の話だ、ルカ。守護者殿の指示で、ロイックの元の姓を知る古参のハランは決してその事を口にせぬし、先の大戦後に〈庭園〉に入ったハランにもその事は教えていない。だから、お前が知らなくても当然だ』

 ルカは、先ほどのロイックのとの会話を思い出した。

 ロイックもまた彼の母と同じように、やり場のない暗い感情に心を苛まれているのだろうか?

 実の弟を「汚らわしい罪人(シーマー)」と吐き捨てるほどに。

 七十年経っても奴の呪いは消えない。

 我々ハランを……()()苦しめ続ける、と。

 ロイックの身を包む仄暗く陰鬱な(かげ)は、そのせいだったのだ。

 だからこそ、彼はハランの名誉を取り戻す事に固執しているのかもしれない。

 彼自身の心をも、救う為に。

『もうひとつ、ずっと疑問に思っている事があるのですが………』

 ルカは、前々から抱いていたとある疑問をシファに尋ねてみる事にした。

『何だ?』

『先の大戦でエルレイ=ズヌイが卑劣にも敵である〈地の民〉側に寝返った事は誰もが知っていますが、そもそもあの男はどのような罪を犯して〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉を追放されたのですか? よほどの大罪であったのだろうとは思いますが、もし彼が追放されていなければ、あの裏切り自体起きなかったのではないかと、私は思うのですが』

 返ってきた答えは苦々しく、そして衝撃的だった。

『奴は、守護者殿を(あや)めようとしたのだ』

『………え!?』

 ルカは目を剥いた。

 テンペランス様の命を狙った!?

 仮にもハランともあろう者が!?

 絶句するルカに、シファは清濁併せ持つ(まつりごと)の世界に身を置く者らしい冷徹な口調で言った。

『〈庭園〉内も全くの清廉潔白ではないし、王宮と同様に権力争いもある。だが、ハランによる守護者の暗殺未遂など聞いた事がない。自らの頭を切り落とすようなものだ。だが、エルレイ=ズヌイはそれを企てたのだ』

 ルカは掠れた声を絞り出した。

『一体………何故……?』

『何らかの不正を行っていたらしい。それを守護者殿に咎められ、暴挙に及んだ。だが失敗し、そして犯した罪に相応しい罰を受けた。鞭打たれ、両腕を折られ、二度と天の水晶を操れぬよう舌を切り落とされて、〈地の民〉共が吐く穢れが渦巻くおぞましい大地へと()とされた。アリアンテを取り上げなかったのは守護者殿の慈悲だ。奴は決して許されぬ罪を犯したが、それでも同胞(ハラン)であるのだから、その証を身につけたまま最期を迎えられるように、と。自分を裏切り、命を狙った相手に情けをかけてやるとはな。私には到底真似出来ぬ。私が守護者殿の立場であったなら、カデナル=ズヌイがやったようにこの手で奴の体を切り刻み、血の海に沈む様を眺めたろう』

 シファは同情めいた苦い溜め息をついた。

『…………守護者殿は、エルレイ=ズヌイを自分の後継者にと考えていたそうだ。それほど奴を高く評価していた。その信頼を裏切り、あまつさえ自らの不正行為を隠蔽する為に守護者殿を亡き者としようとするとは………ハランによる守護者の暗殺未遂など、あってはならぬ事だ。〈庭園〉の権威に関わる上に、ハランばかりか全ての〈天の民〉に及ぼす影響も計り知れぬ。ゆえに、この件についての詳細は秘され、記録は封印された。エルレイ=ズヌイは同胞と故郷を裏切り、敵に寝返った卑劣な大罪人。父親であった将軍が自らの手で討った。それだけだ。………ルカ、お前もこの件はロイックの改名の事と同様、二度と口にするな。よいな?』

 ルカは青ざめた顔で頷いた。

『……………わかりました、兄上』

 しかし、結局あの大罪人は〈庭園〉を………ハランを貶めた。靴底でハランの名誉を踏みにじった。テンペランスの命を狙っただけでも許しがたいというのに、それだけに飽き足らず敵側に寝返り、七賢者などと呼ばれ、彼らの王に仕えた。

 何と汚らわしく、心歪んだ人間だ。我々ハランの………〈天の民〉の恥さらしだ。その名を口にするのも………頭に思い浮かべる事すらおぞましい。

 静かに怒りに震えるルカに、シファは興味深げにちょっと頭を傾けた。

『それにしても珍しいな。常に冷静なロイックが「口走る」などとは。彼と口論でもしたか?』

『!』

 図星を突かれ、ルカははっと怯んだ。

 シファは腕を組むと、鷲の意匠を透かし彫りした椅子の背もたれに寄り掛かった。

『お前は守護者殿と同様、ハランをコンシャナフォアへ派遣する事には反対のようだからな。その事で口論したのであろう?』

 残念で仕方がない、というふうに、シファはゆっくりと何度も頭を横に振った。

『この戦の意義がお前にはわからぬか。たった一人の弟に理解してもらえぬとはな。残念な事だ』

『兄上………』

 シファは椅子の背もたれから身を離すと、申し訳なさそうに唇を噛み俯いたルカの顔を覗き込んだ。

『父上はまだ寿命が尽きるようなお年ではなかった。先の大戦で、大地を覆う穢れを浴び続けた結果だ。お前はずっと〈庭園〉にいて、父上が衰弱していく様を見ていないゆえわからぬかもしれぬが、父上が体だけでなく精神も弱っていく様をただ見ているしかないのは辛かった。他にも、個人差はあるが、父上と同じように病に罹り短命だった従軍者が何名いると思う?』

 以前のグロフトは威厳に満ち、眩いばかりの生気に溢れ、まさに栄光ある〈天の民〉の頂点に立つ王としてのあるべき姿を体現していた。

 しかし、先の大戦後、〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉に戻ったグロフトはまるで別人のようだった。ほどなくして体中を蝕む病に苦しむようになり、次第次第に弱っていった。その様は、まるで根が腐った木が立ったままボロボロに枯れ朽ちていくかのようだった。

 執政も、グロフトに代わり息子のシファが担う事が多くなっていった。ロムルスの王剣を継ぐずっと前から、すでに事実上シファが翼の王だった。

『ですが、兄上、〈地の民〉からすれば、たった七十年で一方的に協定を破棄してくるような相手は信用出来ないと思っているはず。将来、停戦交渉となった時、それではこちらにとっても不利なのではありませんか?』

 シファは「何を言っているのだ」と言わんばかりの顔をした。

『お前は、この私が〈地の民〉ごときと交渉すると思っているのか? 父上と同じ愚か者だと?』

『え?』

 ルカは息を飲んだ。

 シファは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

『何故、そんな顔をする?』

『いえ、ただ………兄上が、父上の事を「愚か者」と仰られたので、驚いて………』

『事実だ。父上の一番の誤ちは、〈地の民〉を滅し去る為の戦であったにも関わらず、無責任にもそれを途中で投げ出してしまわれた事だ。それでは、戦死した将兵は全くの無駄死ではないか。父上の(めい)で故郷から遠く離れた汚らわしい異郷の地まで赴き、勇猛果敢に戦ったというのに。大地を覆う穢れにさらされ続けたせいで心身を蝕まれ、寿命を削り取られた者たちの犠牲は? 王たる者が信念を貫かずしてどうするのだ。やるからには最後までやり遂げなければ。中途半端な行いほど愚かしい事はない。私は父上とは違う。必ずやこの世界から穢れを………愚かしく汚らわしい〈地の民〉共を消し去ってみせる。あの薄汚い害虫共を、一匹残らず』

 ルカは押し黙った。

 返す言葉が見つからなかった。

 今度の〈地の民〉との戦に臨むシファの固い決意の程を知ったからではない。シファが、亡き父王をこんなふうに思っていたという事実が、ルカから言葉を奪っていた。強い口調で語る兄の声音には、父グロフトに対する怒りと………侮蔑すら感じられた。

 そうでない事を祈っています。

 王宮から〈庭園〉へと戻る鳥車(ノーリュート)の中で、シファがグロフトの遺言を握り潰したと考えているのかと問うた時の、テンペランスの返事を思い出す。

 テンペランスは、父グロフトに対するシファの(くら)い感情を知っていたのではないだろうか? だからこそあんなふうに………

 自分だけが、何も知らなかった。

 常に守護者の鳥車(ノーリュート)に同乗し、翼の王のただ一人の弟であるというのに。

 押し黙ってしまったルカの様子に我に返ったシファは、眉尻を下げ口調を和らげた。

『すまぬ。少し言い過ぎた。お前しか聞いておらぬからつい、な。立場上、私はなかなか本音を吐き出せぬのだ。だがお前は別だ。たった一人の血を分けた弟なのだから』

『兄上………』 

 淡く微笑むシファを、ルカは複雑な心境で見つめた。その両肩に民の命と未来を背負い、翼の王としての激務に追われ、今は将軍らを率いて〈地の民〉との戦に臨んでいる兄を。

 そして、この広大な奥宮にたった一人で住んでいる兄を。

『お前が言うように〈地の民〉が私を………我ら〈天の民〉をどう思うかなどという事は関係ない。〈地の民〉が何をしているかこそが問題なのだ。先の大戦中、〈地の民〉共の間にも一時(いっとき)争いは止んでいた。だが、オニールの死後、連中は再びあちらこちらで戦を始めた。実にくだらぬ、些細な理由でな。今もそうだ。我ら〈天の民〉が再び攻め入ってきたというのに、彼奴らは一致団結して我らを迎え撃つどころか相変わらず〈地の民〉同士で小競り合いを繰り返している。〈獣使い(シーマー)〉共を自分たちの身代わりに戦わせてな。自分には関係ないとでも言わんばかりに。聖王ウィーアードに至っては、(まつりごと)そっちのけで寵姫に溺れ腑抜け同然。そのような王に誰が従う? 誰が命を賭ける? 彼奴らは怠惰で、欲深く、理性も知性も持たぬ。血に飢えた狂犬と同じだ。諍い、殺し合う事が彼奴らの習性なのだ。救いようのない連中だ』

『………〈地の民〉の現状について、よくご存知なのですね』

『〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉の外の世界を把握しておく事も、翼の王として当然の責務だ。あらゆる災いから我が民を護る為に。七十年前、父上が〈地の民〉との戦を始めたのもその為だった。途中でその事を忘れておしまいになられたがな。〈天の民〉にとっての災いは〈地の民〉だ。玉座に座っているだけの愚鈍な王が統治する、愚鈍な民。彼奴らが互いに殺し合い、共食いの果てに自滅するのは勝手だ。かつての〈海の民〉と同じように。だが、そのせいで穢れは絶え間なく溢れ続け、疫病のように世界を蝕んでいる。もはやこの〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉にすらその影響が出始めている』

『………え?』

『以前に比べ〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉を制御維持する事が困難になったと、そう守護者殿に聞いたぞ』

『テンペランス様に……ですか?』

 思わず聞き返したルカに、シファは頷いた。

『そうだ。他にも様々な影響が出始めている。看過しえぬ影響が。………お前は、守護者殿から何も聞いてはおらぬのか?』

『いえ………何も』

『そうか。では、〈庭園〉に戻ったら、守護者殿に尋ねてみるといい。〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉の現状を』

 いきなり、シファは腰の王剣を取ると、叩きつけるような激しい勢いでテーブルに置いた。

『そして考えろ! お前はハランであると同時に翼の王の弟なのだ。私に万一の事があった時は、お前が次の翼の王となり、このロムルスの王剣を継ぐのだぞ!』

『!』

 兄がテーブルに置いた輝く王剣を………柄と鍔に翼を広げた大鷲の姿を刻んだ白銀の王剣を、ルカは息を飲んで凝視した。

 次の翼の王となる。

 そんな可能性など、今まで真剣に考えた事はなかった。

 シファに子がいない以上、それが当然の事だというのに。

 ロイックの言った通りだ。

 自分はなんと甘えていたことか。

 ルカはテーブルの下でぎゅっと固く拳を握り締めた。

 しっかりしなければ。

 シファは、テーブルに置いた王剣を再び腰に戻した。

『守護者殿の言葉と、そして時を同じくして申し出たロイックの案でコンシャナフォアを本陣とする事が可能となり、私は此度の開戦を決意した。父上が投げ出した仕事を、私が成し遂げるのだ。これは、翼の王として私が果たさねばならぬ使命だ。だから覚えておくがよい、ルカ。〈地の民〉との停戦交渉などあり得ぬ。彼奴らには、我らと同じテーブルにつく資格などない。これは、どちらかの存続をかけた戦いなのだ。そして、勝利するのは我ら〈天の民〉だ。この戦で〈地の民〉は三世界から完全に消滅する』

『そんな事が可能なのですか? 〈地の民〉は我々〈天の民〉よりも数が多く、彼らが住まう大地は〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉よりはるかに広大だというのに。それを完全に滅ぼす事など、本当に出来るのですか?』

 シファは笑った。

『〈海の民〉は滅んだぞ、ルカ。彼らは〈地の民〉よりも数多く、進んだ文明を誇り、聡明で、〈海の九王国(カリオナスタ)〉は大地よりも広大であったのに。その〈海の民〉よりもはるかに数が少なく愚かしい〈地の民〉を根絶やしに出来ぬと、何故言える?』

『〈海の民〉は自ら相争って滅んだのです。他の民に滅ぼされたわけではありません』

 シファはグラスを自分の目の高さに掲げ、不敵な笑みを放った。

『では、長きにわたる三世界の歴史において、初の出来事となるわけだ』

 言い放つシファを見つめながら、ルカは胸の奥底が冷えるような薄ら寒いものを覚えずにはいられなかった。

 まるで〈地の民〉の命運は自分が握っているのだと言わんばかりの、シファの尊大さに。

 そしてこうも思った。

 今の自分では、この兄を説得する事など到底出来はしない、と。

最後までお読み下さいまして、ありがとうございました。

「兄と弟」というサブタイは、シファとルカ、ロイックとエルレイのふた組の兄弟を示しています。

疑問を抱いていらした読者の方もいらっしゃったかと思いますが、そもそも何でエルレイは〈黄金の鷺(アルゴーフォア)〉を追放されたのか、彼の罪が明らかとなりました。けっこうひどい事してますね。

もう故人ですが、エルレイは重要なキャラの一人です。彼がそのような事をするに至った経緯と理由が、本作の根幹につながっています。彼のアリアンテをカナンが受け継いだ事から全てが始まったのですから。

次章はカナンが登場します。

そしてエイデンがちょっとした不運に見舞われます(笑)

引き続き次回もお読み頂けますと嬉しいです。

ではまた。


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