第五章 兄と弟(1)
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第五章 兄と弟
永遠に咲き誇る〈庭園〉の深紅の薔薇の園に、清涼な鐘の音が鳴り響いた。
ルカ=カンタベリスは足を止めると、天空高くそびえ立つ塔〈聖なる杖〉を振り返った。
ハランならば誰もがその意味を知っている、特徴ある美しい鐘の音は、水面を渡る波紋のように〈庭園〉全体に広がっていく。
『…………この鐘の音を聴くのは久し振りだな』
浅い吐息と共に呟き、再び歩き出そうと前を向いたルカは、いつの間にか目の前に立っていたロイック=ミュイスに驚いた。
『ロイック……! ここで何を?』
『天の花(薔薇の別名)を眺めていたのですよ。時間がある時は、よくこうして眺めています。〈庭園〉を象徴するこの花を』
腰の高さにある深紅の花弁にそっと触れながら、ロイックはそう答えた。血色の薄い青白い横顔はいつも通り影を含み陰鬱だったが、花弁に触れる指はまるで愛しい恋人に触れているかのように優しかった。
ロイックは頭をわずかに動かして背後を示した。
『先ほどユキア=カトラを見かけました。ずいぶんと痩せて、顔色も悪かった』
『可愛がっていた甥を亡くしたばかりだ。無理もない。今は、唱和の務めも休んでいるそうだ』
『「休んでいる」ではなく、「外された」の間違いでは?』
『……!』
ルカはぐっと詰まった。ロイックの指摘通りだったからだ。
大事な甥ベルギットをガラハイド国攻防戦で亡くし、悲しみに暮れるユキアは、テンペランスの判断によって唱和の務めから外されていた。強い負の感情は、大事な務めである天の水晶を操る唱和に悪影響を及ぼすからだ。
ハランには物静かな者が多い。〈庭園〉に入ったその日から、ハランは常に心を平静に保つよう日々修業を積む。
しかし、ハランは喜怒哀楽を一切表わしてはいけないというわけではない。彼らもよく笑うし、年長のハランが少々羽目を外しすぎた後輩を叱る事もある。美しい音楽を楽しみ、気の合う仲間とお喋りしたり、食事や酒を共にする事もある。恋をする者もいる。ハラン同士で結婚し、子供を授かる者も。〈庭園〉という限られた世界の中で暮らしているというだけだ。
しかし、ロイックには、単に物静かというだけではない仄暗い翳のようなものがあった。
心の奥底に凝った冷たい何かが。
毛嫌いするほどではないにしろ、ロイックを避けているハランが多い事を、ルカは知っていた。
ルカ自身も、ロイックの事はあまり好きではなかった。ロイックがテンペランスの意向に公然と背き、〈地の民〉との戦の最前線に仲間のハランを送り込んでからは特に。
守護者の意向に背くなど、本来ならば〈庭園〉どころか〈黄金の鷺〉から追放されてもおかしくない行為だ。それなのに、何故かテンペランスはロイックに何の罰も与えず、自由にさせている。
ルカには全くもって理解出来なかった。
もしかしたら、いつかロイックが心を改めてくれると、テンペランスはそう信じているのだろうか?
そんな日が来るとは、思えないが。
ルカたちがいる薔薇の園は、〈庭園〉の中央に位置する〈聖なる杖〉を取り囲むように広がっていた。園には古風な石畳の小径が張り巡らされており、座って美しい花と香りを楽しめるよう、ところどころに青銅のベンチが据えられている。園を流れる小川のせせらぎが耳に心地好い。小川にかかる優美なシルエットの橋から川面を覗けば、キラキラと鱗を光らせ泳ぐ小さな魚の姿が無数に見える。一羽の白鷺がふわりと浅瀬に舞い降り、じっと川面を見つめている。上空を舞う雲雀のさえずりが晴れ晴れしく爽やかだ。白い鳩の群れが、風と戯れる綿雲のように真っ青な空を自由自在に飛んでいる。
日々務めと修行に明け暮れるハランにとって、この美しい薔薇の園は心癒される憩いの場所だった。
目線を手元の深紅の花弁に落としたまま、ロイックは独り言のように言った。
『先ほどの鐘の音………新たなハランが現われたようですね』
あの鐘は、ハランの才を持つ子供が現われた時にのみ鳴る特別な鐘だった。鳴らしたのは〈庭園〉の守護者テンペランスだ。〈黄金の鷺〉のどこであろうと、新たにハランの才を持つ者が現われれば、テンペランスにはわかるという。守護者だけが持つ特別な能力だ。
きっと今頃、鐘の音を聴いたハランがテンペランスのいる守護者の間を訪れ、新たなハランの居所を知らされている事だろう。
そして、自分たちの後輩となるハランの卵を迎えに行くのだ。
歓迎されるか否かは、別として。
だが、例え〈庭園〉からの迎えの使者を歓迎してもしなくても、〈天の民〉である以上、ハランの才を持つ者は〈庭園〉に入らなければならない。〈黄金の鷺〉を維持するという崇高な責務の為に。
例え王族でもそれは免れない。
王の子であろうとも。
幼いルカを迎えに〈庭園〉からの使者が王宮を訪れた時、当時はまだ存命だったルカの母ナヤ王妃は涙にくれ、兄シファ王子は唇を噛み締めじっと耐えていた。
父グロフト王だけが、我が子にハランの才があると知って喜んだ。
先の大戦の後であったから、余計に。
母の涙と固い表情の兄の顔、そして嬉しげな父の姿を、ルカは今でもはっきりと覚えている。
自分はいろんな人々の思いを背負ってここにいるのだ。
それなのに、再び〈地の民〉との戦が始まった現在、自分は何も出来ず〈庭園〉でただ日々を過ごしている。テンペランスの力になる事も、ロイックを止める事も出来ない。
翼の王のただ一人の弟だというのに。
ルカは、自分の無力さと不甲斐なさが腹立たしくて仕方がなかった。
『…………今までの例から鑑みて、迎えに行った者たちは歓迎されぬでしょうな』
乾いた笑みを含んだロイックの呟きに、ルカは物思いから引き戻された。
ロイックは自嘲めいた口調で続けた。
『前回、私がテンペランス様の指示を受け、ガナイと共にとある家へハランの卵を迎えに行った時もそうでした。父親は渋々扉を開けた。拒む事は許されぬからです。ですが、母親はハランの才が現われた我が子をすぐに我々に託した。彼女は、行きたくないと泣きじゃくる幼い我が子にこう言いました。「ハランの才があるとわかった以上、お前はここにいるより〈庭園〉にいる方が安全だ」……と』
ロイックは、まとわりつく何かを振り払うように何度も頭を振った。
『安全………! ハランが〈黄金の鷺〉で……自分の家で身の安全を心配せねばならぬとは! それもこれも全てあの汚らわしい罪人エルレイのせいだ。七十年経っても奴の呪いは消えない。我々ハランを苦しめ続ける』
『………だから、お前はハランを戦場へやるのか? コンシャナフォアを本陣とするよう、シファ王に進言したのか?』
ロイックは険しい表情で尋ねたルカの顔を真っすぐ見据えると、力強く頷いた。
『そうです』
『しかし、それはハランの本来の務めではない!』
ルカは厳しい口調で言った。
『我らは軍人ではない。ましてや我らの歌は武器ではない。歌によって天の水晶を操り、〈天の民〉に唯一残されたこの〈黄金の鷺〉を維持する事がハランの使命のはず。………何がおかしい?』
ロイックの失笑を見咎めたルカは、鋭く尋ねた。
侮蔑の表情を隠そうともせず、ロイックは言った。
『貴方の今の台詞は、過日テンペランス様がシファ陛下に仰った台詞と全く変わらない。貴方はただテンペランス様の言葉をなぞっているだけではないか』
ロイックはぐいと顎を上げた。
『私は違う。私は自らの信念をもって行動している。貶められたハランの名誉を回復する為に。先の大戦以来、我々ハランがどれほどの辛酸を舐めてきたか、貴方にわかるはずがない』
『私もハランだ。他の者と同じように、今の事態を憂いている』
『だが王族だ。翼の王の弟だ。貴方は特別扱いされている』
ルカは思わず声を荒げた。
『そんな事はない!』
『ではお聞きするが、年長のハランを差し置いて、当然のように常にテンペランス様の鳥車に同乗しているのは誰です? ユキアやエマイアス、ガナイやイシュアのように家族から絶縁されましたか?』
『……っ!』
ぐっと言葉に詰まるルカを、ロイックは憎たらしげに睨みつけた。
『甘えるのもいい加減にして頂きたい。貴方はハランである前に翼の王の弟だ。その恩恵を自覚すべきなのだ。そんな簡単な事もわからぬ貴方に、私を非難する資格はない。私は姓まで変えねばならなかった。この屈辱が貴方にわかるものか!』
『姓を変えた?』
訝しげに眉をひそめたルカに、ロイックははっと我に返った。
『…………失礼。少々喋りすぎました。私もまだまだ修行が足りぬようだ』
『今のはどういう………』
『今日はシファ陛下とお食事を共にされる日では?』
ルカの言葉を遮って、ロイックは投げつけるように言った。
『そろそろお約束の時刻ではありませんか? 急がねば遅れますよ。陛下は貴方とのご会食を楽しみにしておられました。おそらく貴方よりもはるかにね』
『!』
心の内を見透かされ、黙り込んだルカに、ロイックは先ほどまでの激しい言葉が嘘のように冷やかに言った。
『シファ陛下もまた私と同じように、翼の王としての信念をもって〈地の民〉との戦を決断されました。ハランを戦場へ送る事に反対だと仰るのなら、ちょうど良い機会です、陛下を説得なさってみてはいかがですか? 貴方がなにがしかの信念をお持ちであるならば、ですが』
反論する言葉も見つけられず、ルカは切り捨てるように背を向け立ち去るロイックをただ見送るしかなかった。
ただ、これだけはわかった。
ルカがロイックを嫌っているように、ロイックもまたルカを嫌っているのだという事を。
*
久し振りに訪れた王宮は、相変わらず美しく、広大で、威厳に満ち、燦然と輝いていた。
優しく包み込むような神秘の光をまとう〈庭園〉の〈聖なる杖〉とは全く異なる、力強く神々しい荘厳華麗なその姿は、まさに栄光ある〈天の民〉を統べる王の宮殿に相応しい。例え太陽が力尽きたとしても、この輝ける王宮は変わらず〈黄金の鷺〉を眩い光で照らし続ける事だろう。
レース編みのように繊細な細い銀の飾り鎖を幾重も肩から胸に垂らした壮麗な衣装の宮廷官に案内されながら、ルカは人の背丈よりも大きな乳白色の陶器の壺が一定間隔で並ぶ長い廊下を進んだ。
廊下の天井は群青色に塗られ、様々な種類の鳥と共に満天の星々が描かれていた。〈天の民〉に伝わる神話では、天空の星々は天の水晶が千々に砕け飛び散ったものとされている為、星は全て金色だ。夜空を描いているはずなのに、天井画には燦然と輝く太陽も一緒に描かれている。〈黄金の鷺〉ではよく見られる装飾様式だ。昼も夜も、永遠の栄光と繁栄に満ちた〈天の民〉の世界を表わしている。
〈黄金の鷺〉の王都〈女神の御手の上〉と同様、王宮もまた天の水晶で造られていた。繊細な彫刻を施した壁も、飛び立つ鷺の姿を模した優美な柱も、淡い黄金色の光を内包し、仄かに光っている。
どこもかしこも天の水晶に抱かれ、護られているのだ。
〈黄金の鷺〉そのものがそうであるように。
窓は全て開け放たれており、長く垂らした更紗模様のカーテンがゆらゆらと幻想的に揺れていた。どこからか澄んだ美しいカナリヤの鳴き声が聞こえてくる。王宮の庭に棲みついているのだろう。窓の外に視線をやると、淡雪色と薄桃色の敷石のあちらこちらから覗く水仙とシダの瑞々しい葉色が鮮やかだ。微かな羽音をさせながら、ぷっくりとした可愛らしいシルエットの蜂が白や水色の小さな花々の間を飛び回っている。窓から差し込む陽射しは柔らかく、吹き込む風は心地好い。
案内役の宮廷官と言葉を交わす事もなく、ルカは無言で進んだ。
コツコツと硬質な足音だけが響く。
幼い頃何度も通った廊下のはずなのに、まるで初めて来た場所のようだった。父グロフト王の葬儀の折も、先日テンペランスの供で王宮を訪れた時も、何もかもが慌ただしく、ゆっくり見て回る時間などなかったのだ。
しかし、それにしても………こうまで記憶に残っていないとは。
思っていた以上に何も覚えていない自分に、ルカは愕然とせざるを得なかった。
自分は、父が亡くなる前は、一体いつ王宮を訪れたのだったろう?
それすらも思い出せない。
すれ違った者たちが驚きの表情で、
『あれはルカ様ではないか?』
『お珍しい。王宮にお越しになられるとは』
などと、まるで珍しい鳥でも見たかのようにひそひそと囁き合っている。
長い廊下を通りルカが案内されたのは、日頃翼の王が家臣らと共に政務を行う執政宮よりもさらに奥まった所にある、王族しか住まう事が出来ない奥宮だった。一日の政務を終えた翼の王が、家族と共に過ごす憩いの宮だ。
しかし、現在王妃も子もいないシファは、この広い奥宮にたった一人で暮らしている。
『陛下はまもなくお見えになられますので、しばしお待ち下さい』
そう言い残し、宮廷官は深々と頭を下げて出て行った。
部屋にたった一人残されたルカは、手持ち無沙汰に広い室内を見回した。
四方の壁をぐるりと飾る見事なレリーフが目に留まる。
それだけ天の水晶ではなく、まろやかな乳白色の大理石で造られたレリーフは、壁面の縦幅の半分あまりを占めていた。北側の壁面から順番に、長大な〈天の民〉の歴史が刻まれている。
ルカはレリーフに歩み寄った。そっと指で触れる。
このレリーフには見覚えがあった。
しかし、まだこの王宮に住んでいた幼い頃の記憶ではない。〈聖なる杖〉の唱和の間で見たのだ。
ここにも同じ物があったとは。
そう言えば、以前、唱和の間と守護者の間、そして翼の王の居室には、〈天の民〉の歴史を表わした同じレリーフがあると聞いたような気がする。
『そのレリーフがどうかしたのか?』
ふいに背後から声をかけられ、ルカは驚いて振り返った。
いつの間にかシファが立っていた。簡単に後ろでひとつにくくった髪がわずかに濡れている。〈天の民〉を統治する並ぶ者なき至高の王だというのに、まとう衣装はシンプルで飾り気がない。装飾品も、細い金の首飾りと羽根の意匠の腕輪のみ。ルカをここまで案内してきた宮廷官の衣装の方がよほど煌びやかだ。
先日、テンペランスの供で王宮を訪れた時に会ったシファは、もっときっちりとした様式美溢れる優雅な出で立ちだった。あれは公務中だったからなのだろう。
鼻筋の通った凛々しい顔立ちのシファは、父グロフト王の面差しを強く受け継いでいた。皮膚の下の鍛えた筋肉を透かすかのように、袖から覗く腕はまるで鋼のよう。しかし、決して筋骨隆々というわけではなく、むしろ細身でしなやかな鞭のごとき体躯だ。美しく、力強く、気品がある。
ルカはレリーフから指を離した。
『いえ、ただ………見覚えがあったので』
『そうか。覚えていたか』
ルカの答えに、シファは嬉しそうに破顔した。ルカが王宮で暮らしていた頃の事を覚えていると思ったのだろう。
本当はそうではないのだが。
だが、否定するのも気が引けて、ルカは黙っていた。
罪悪感にも似た感情が胸をよぎる。
シファはルカの上腕に手を触れると、軽く力を込めた。
『よく来た、ルカ。待たせてすまなかったな。剣の鍛錬をしていたのだ』
そのまま奥宮に戻ろうとしたのだが、剣の鍛錬の相手をしていた将校に、
『そんな汗まみれのお姿のまま、弟君にお会いになられるおつもりなのですか?』
と咎められ、簡単に汗を流し着替えてきたのだ。
『剣の鍛錬………間もなくコンシャナフォアへご出陣されるからですか?』
『そうではない。剣の鍛錬は私の日課だ。翼の王は第一の剣であらねばならぬからな』
そう言いながら、シファはレリーフの一場面に深青色の瞳を向けた。両翼を広げる大鷲の下、剣を頭上高く掲げて立つ偉大なる初代翼の王ロムルス=カンタベリスに。
〈天の民〉に伝わる歴史書・始祖記には、こう記されている。
ある時、白銀色に輝く大鷲がロムルスの前に現われた。
大鷲は自身の翼から一本の羽根を抜き、ロムルスに与えた。
すると、その羽根は美しい白銀の剣に姿を変えた。
大鷲はロムルスに告げた。
『この王たる者の剣を使い、〈天の民〉を統べる翼の王となれ』……と。
そして、ロムルスは、大鷲から授けられた王たる者の剣……王剣であらゆる敵を退け、〈天の民〉を統べる最初の王となった。
レリーフに描かれているロムルスの王剣は今、シファの腰に下がっている。この剣は言わば王冠と同じ、翼の王の証だ。
七十年前、先代グロフト王と共に先の大戦を経験した剣でもある。
『立派なお心がけです、兄上』
『民を治める者として当然の事だ。………さあ、食事にしよう。私も腹が減った』
腕に触れた兄の手は力強く、ルカはろくに鍛えた事のない自身の細い体躯を恥ずかしく思った。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
今回は少なめになってしまいました。すみません。
〈天の民〉の髪の長さと髪型についてですが、〈天の民〉は結婚したら男は髪を短く切り、女は髪を結い上げます。男女とも結婚するまでは髪は長く伸ばしたままです。
ですので、まだ王妃のいないシファは髪が長く、アンヤの夫であったキシュベル=グェヒン将軍は髪を短く刈っていたというわけ。
次回は、第五章 兄と弟(2)、本章の後半となります。
引き続きお読み頂けますと幸いです。
ではまた。




