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石の剣の王3 集結  作者: 水崎芳
第八章 〈勝利王〉が遺したもの
10/15

第八章 〈勝利王〉が遺したもの(1)

2週間ぶりの投稿となってしまいました。

改めてお詫び申し上げます。すみません。

それでは、第八章 〈勝利王〉が遺したもの(1)をお届けします。

最後までお読み下さいますと嬉しいです。

  第八章 〈勝利王〉が(のこ)したもの


「…………また話がしたいとは言っていたが、まさか本気だったとはな」

 溜め息混じりに発せられたエイデンの独語に、彼よりもはるかに困惑しきった声音と表情でカナンが言った。

「僕まで一緒に呼ばれた事の方がびっくりなんだけど。『また話がしたい』のはエイデンだけだと思ってた。何で僕まで………」

 ナイヴァルとシャリマーがガラハイド国領主邸を訪れたあの日、カナンとエイデン宛に届いたあの手紙の送り主は、レクサ王女だった。カナンとエイデンの二人を水晶王宮へ招待したいというのだ。

 最初、カナンは何かの間違いだと思った。世継ぎの王女が自分のような一介の平民風情を王宮に招待するなど、にわかに信じられなかったからだ。

 ところが、手紙に記された日時の通り、扉に聖王家の紋章を刻印した迎えの馬車が本当に来てしまった。

 それで今、王都のほとんどの人々が寝静まっているような夜遅い時刻にカナンはエイデンと共に馬車に揺られているのである。

 王族の馬車というだけあって、今までカナンが体験した事もないくらい馬車の乗り心地は最高だった。車内も広々としていて、走行時の振動が乗客の体に響かぬようありとあらゆる工夫がされている。内装も立派だ。アザミの花が刺繍されたクッションはふわふわで手触りも良く、まるで雲の上に座っているかのよう。二頭の馬車馬の規則正しい蹄音と車輪の音が耳に心地好い。

 馬車の窓には全てカーテンが引かれており、外の様子は全く伺えなかった。同様に、外からも馬車に乗っているのが誰なのか、何人なのかもわからないだろう。

 こんな真夜中に呼び出して、あの琥珀色の瞳の王女は一体何の話をするつもりなのか。

 レクサの意図が全くわからず、カナンは緊張していた。

「…………すまなかった」

 ふいに、向かいの席に座っていたエイデンが言った。

 黒衣の男の唐突な謝罪に、カナンは戸惑って何度かまばたきした。

「え? 何が?」

「剣の指南を断った件だ。あれは誤りだった。君を失望させた。それに、ディアドラ系譜図書館のラーキンの家でも。傷の手当てをしてくれようとした君に、私はひどい態度を取った」

 エイデンは月のない夜の色の瞳を伏せ、頭を下げた。

「時々、私は愚かな事をしてしまう。すまなかった」

 カナンは目をみひらいた。何故、彼が今ここで何の脈絡もなく突然謝ってきたのか、その理由が全然わからなかった。

 わからなかったが。

 カナンはゆるりと溶ける氷塊のように淡く微笑んだ。

「そんな事………謝らなくてもいいよ」

「許してもらえるだろうか?」

 カナンは頷いた。

「もちろん」

 エイデンは安堵したようにちらと微笑んだ。

「そうか。………ありがとう、カナン」

 馬車は軽快に真夜中の王都を進んだ。途中で一度だけ止まり、外で何事か言葉を交わす人の声が聞こえた後、再び動き出す。蹄音と車輪の音が変化したので、王都の石畳の通りからどこか別の敷地に入ったのだとわかった。

 水晶王宮に到着したのかとカナンは思ったのだが、しかしそれからがまた長かった。

 かなり走った後、ようやく馬車は止まった。

 馬車の車体が揺れ、御者が御者台から降りたのだとわかる。ほどなく馬車の扉が開かれた。

 まるで高貴な身分の者に対するように、裾がツバメの尻尾のような形をした紺色の制服姿の御者は一歩下がると、堅苦しい仕草で丁寧に頭を下げた。

「到着でございます」

「あ………はい。ありがとうございます」

 思わず頭を下げ返しながら、カナンは恐る恐る馬車から降りた。

 エイデンも続いて降りる。但し、彼は無言のまま。

 馬車の外はしっとりとした夜の闇に包まれていた。今夜の月は細く、頼りなげだ。薄い月明りと馬車のランタンの灯火に照らされ、何もかもが息を潜めているかのよう。木々が重なり茂る森に囲まれた、側に柳の木がある大きな建物の前だという事以外、周囲の様子は全くわからない。色硝子を嵌めた瀟洒な玄関扉から中の明かりが漏れているだけ。

 その明かりを背に、一人の女性が水晶騎士団の騎士と共にカナンたちを待ち受けていた。首元まで黒いレースで覆われたシックな青紫色のドレスに身を包み、結い上げた髪に尖晶石(スピネル)をあしらった櫛を挿している。落ち着いた、品格ある装いの貴婦人だ。

 カナンは彼女に見覚えがあった。無残に焼き払われ灰と塵に覆われたエルレイの薔薇の園で、琥珀色の瞳の王女の後ろに控えていた女官の一人だ。王女に対し敬語を使わないエイデンにひどく立腹していた。

 名前は確か………クラベッタ、だったか。

 あの時、レクサがそう呼んでいた。

「ようこそお越し下さいました」

 教養ある貴族女性の見本のような完璧な所作で、クラベッタは丁寧に腰を屈めた。

「レクサ様がお待ちです。こちらへ」

 体の向きを変え、色硝子を嵌めた玄関扉を示す。

 彼女の言葉を合図にしたかのように、騎士が扉を開けてくれた。

 クラベッタに先導され、カナンとエイデンは建物の中に足を踏み入れた。大理石の床に太陽を描いた玄関ホールを抜け、緩く弧を描く階段を上って上の階へ向かう。

 三人の足音だけが響く。

 邸内は重苦しいほど静かだった。人の気配もない。まるで誰も住んでいないかのように。壁には鹿の角を模した燭台が等間隔に並んでいたが半数にしか火は灯されておらず、明かりは最低限に抑えられている。

「あのぅ………」

 カナンは前を行くクラベッタに恐る恐る尋ねた。

「ここは水晶王宮なんですか? 聖王陛下やレクサ王女様が住んでおられる?」

「違います」

 クラベッタは前方に視線を向けたまま、事務的な口調で答えた。

「ここはエンプリア離宮、水晶王宮の敷地内に数多くある離宮のひとつです。通称〈王妃の庭〉と呼ばれています。昔、当時の王妃の(めい)で建てられたもので、彼女はよくここでごく親しいご友人を招いてお茶会や詩の朗読会や舟遊びを催されていたのでいつしかそう呼ばれるようになりました」

「舟遊び?」

 森の中の離宮で?

 思わず聞き返したカナンを、クラベッタはちらと一瞥した。

「森の中に湖があるのです。エンプリア離宮が建てられた際、併せて造られた人工の湖ですが。この離宮を建てさせた王妃の、王宮の敷地から出る事なく舟遊びをなさりたいとのご要望で」

「それで湖まで造っちゃったんですか?」

 カナンは感嘆を通り越して呆れてしまった。敷地内に森があるのも驚きだが、王妃が望んだからと湖まで造ってしまうなんて。

 文字通り世界が違う。

 自分はなんて場違いなところに来てしまったのだろう。

「王族の方々が普段お過ごしになられ、宰相閣下を始めとする王宮の廷臣たちが政務を行う水晶王宮の本宮(ほんきゅう)とはかなり離れている事もあり長い間使われずにいましたが、先の大戦後に〈勝利王〉オニール陛下が改修させました。本宮から遠く、静かなので考え事をするのに丁度良いと、晩年のオニール陛下はよくここで過ごしておられたそうです。レクサ様もお気に召しておられる離宮です」

「…………オニールが………?」

 エイデンが低く呟くのが聞こえた。

 カナンは彼を見やった。

「オニール陛下がどうかしたの?」

 エイデンは曖昧に頭を横に振った。

「いや………何でもない」

 カナンは視線を前に………クラベッタの背中に戻した。

 こちらを見ていた彼女と一瞬だけ視線が合う。

 少し睨んでいるように見えた。

 クラベッタにも先ほどのエイデンの呟きが聞こえたのだろうか? 聖王であるオニールに対して「陛下」と尊称を付けないエイデンを、不快に思ったのかもしれない。

 エルレイの薔薇の園で、レクサに対して敬語を使わないエイデンに怒った時のように。

「………着きました。あちらです」

 気のせいか先ほどよりも一層事務的な冷たい口調で、クラベッタが告げた。

 彼女が示した先の薄暗い廊下で、とある扉の前に整然と居並ぶ純白の制服姿の騎士たちの姿が見えた。先ほど玄関にいたのと同じ水晶騎士団の騎士だ。レクサの護衛の騎士たちだろう。確かではないが、顔に覚えがある者がいる。多分。

 クラベッタが軽く頷くと、扉に一番近い位置にいた騎士が形式ばった堅苦しい動作で軽くノックした後、扉を開けた。

 クラベッタは室内に向かって恭しく腰を屈め、深く頭を垂れた。

「レクサ様、お連れ致しました」

 脇に退き、カナンとエイデンを部屋の中へ通す。

 室内は廊下とは対照的に昼間のように明るかった。

 廊下の薄暗さに目が慣れていたカナンは、眩しさに思わず目を細めた。

 広い部屋だった。過度な装飾は一切なく、全体的に落ち着いた柔和な色彩で統一されている。房飾りの付いた小さなクッションを置いた長椅子と、黒檀の低いテーブル。くすんだ薄緑色に塗られた窓枠と柱。乳白色の漆喰の壁には、羊の群れを引き連れた老いた羊飼いや雪化粧をまとった枝に留まるコマドリを描いた牧歌的な絵画が掛けられている。奥の壁には暗い色調の細長い三連のタペストリー。花台の上の陶器製の花瓶には花すら活けられていない。天井から吊るされたシャンデリアが一番豪華に感じられるほどだ。窓の鎧戸は全て閉じられており、窓の外は全く見えなかった。

 レクサは蝋燭を灯した燭台を置いた丸テーブルの傍らに立っていた。

 そして、やや離れた位置には純白の制服姿のトロイも。

 他の側仕えの女官たちの姿はない。

「よく来てくれました」

 待ちかねていた、というふうに、レクサは笑顔でカナンとエイデンを出迎えた。

 今夜のレクサは薄雲をまとう夜明け前の空のような柔らかい色合いのドレスに身を包んでいた。ほんのり朱を含んだ灰紫色のベールを片方の肩から背に流している。柘榴石(ガーネット)と真珠を雨の雫のように綴った髪飾りで緩く髪を留め、クチナシの花を模したチョーカーと耳飾りを付けていた。

 マリエルのような息を飲むほどの美貌ではないけれど、高貴な血筋の者らしい厳かで麗しい気品に満ちた佇まいだ。

「このような遅い時刻に呼び出してしまい、申し訳なく思っています」

 木漏れ日のような柔らかい微笑みを浮かべ、レクサはそう言った。

 エイデンは素っ気なく答えた。

「構わない。我々と会うのに、あまり人目につきたくなかったのだろう?」

 ………やっぱり敬語を使わないし。

 カナンは内心で頭を抱えた。

 トロイが驚いた顔をしている。

 エルレイの薔薇の園でのクラベッタのように彼が怒り出すのではないかとカナンはハラハラしたが、意外にもトロイは何も言わなかった。

 クラベッタも唇を引き結んではいるが黙ったままだ。

 もしかしたら、エイデンの物言いを咎めないようレクサに前もって釘を刺されたのかもしれない。

 それにしたって………王族に対して敬語も尊称も使わないなど、度胸があるというか怖いもの知らずというか。

 まあ、実際エイデンには怖いものなど何もないのかもしれないが。

 実にエイデンらしいと言えばらしいが、カナンにはとても真似出来ない所業だ。今までトラブルになった事はないのだろうか?

 ……………絶対にありそうだ。

 レクサは口調をやや固いものに変えて続けた。

「トロイから、ガラハイド国の予言者マリエル=サンデバルトが倒れたと聞きました。そなたたちはずっと彼女と共に旅をしてきたのでしょう? 容体はどうなのですか?」

 エイデンは短い溜め息と共に答えた。

「変わらない。ずっと眠ったままだ」

 レクサは琥珀色の瞳を曇らせた。

「そうですか………(ウィメス)()()を誰一人予言出来なかった三年前のあの件以来、父もわたくしも予言者にはあまり重きを置いてはいないのですが、それでも彼女には一度会ってみたいと思っていましたのに。心配ですわね」

 両親の墓を参った日に倒れて以来、マリエルの意識はずっと戻らないままだった。

 幾人も医師が呼ばれたが何の手立ても効果もなく、彼女はただ昏々と眠り続けていた。真っ白な紙のように血の気の失せた顔でベッドに横たわる彼女の姿は、呼吸で胸が微かに上下していなければ死んでいるようにしか見えなかった。

 すぐ側にいたにも関わらず何も出来なかったと自分を責めるスヴェアに、カナンは心を痛めた。例えスヴェアのせいではないと慰めても、きっと彼の心には響かなかったろう。

 実際そうだった。

 あの日以来、スヴェアは変わらずカナンに剣術を教えてくれてはいたが、何となく微妙に集中出来ていない時があった。マリエルの容態が気になって仕方がないのだろうと、カナンは思った。無理もない事だ。

 マリエルが倒れたという知らせは直ちにガラハイド国のクレメンツの下へ送られたが、王都中にその事が知れ渡るのもまた早かった。領主邸には名だたる貴族の見舞い客や使者が押し寄せ、見舞いの品や花で溢れ返り、領主邸の責任者である筆頭騎士のヨーント卿を始めとするガラハイド国の騎士たちは対応に追われた。

 トロイも何度か見舞いに訪れた。彼もマリエルが倒れた時その場にいたので、心配もひとしおなのだろう。

 実はマリエルが何者なのかとっくの昔に気付いていたと聞いた時は、カナンは文字通りポカンとしてしまったが。

 心の内を見透かされない事に関しては、トロイはエイデンといい勝負かもしれない。

 などと考えながらトロイを見つめていると、カナンの視線に気付いたトロイが口髭に親しみのある笑みを浮かべてカナンに軽く頷いた。

 カナンも頷き返す。

 それから、カナンは再びレクサに視線を戻した。

 先ほど、ほとんどの〈地の民〉が妄信し頼りにしている予言者を、その民を総べる王族であるレクサは重きを置いていないと言った。それがカナンには意外だった。

 そう言えば、ウィメス王子の死後、聖王ウィーアードは息子の死を予言出来なかった当時の王宮のお抱え予言者を追放してしまったといつだったかラーキンが言っていた。ただ追放するだけではなく、鞭打ちの刑にまで処したらしい。

 鞭打ちは刑の執行中にショック死する者が出るほど残酷な刑罰のひとつだ。ウィーアードの怒りのほどを察する事が出来る。

 武術大会で死傷者が出ても、その原因となった対戦相手を処罰する事は聖王法典で固く禁じられている。それゆえ、ウィーアードは怒りの矛先を役立たずの予言者に向けたのだろう。

 レクサも父王と同じ心境だったとしても、無理はない。

 ウィメス王子の名を口にした時の彼女の悲しげな表情を見る限りは。

 ちなみに……これもラーキンが教えてくれたのだが……事故時のウィメス王子の対戦相手だったワゼルダイン国の准貴族(ピノチェ)は、帰国後間もなく盗みの罪で逮捕され、獄中で死んだ。痛んだものを食べたせいだと言われているが、真相はわからない。ワゼルダイン国領主ストロクトがウィーアードに()()()()()()のではないかと噂されている。

 しかし、その甲斐もなくとばっちりを食らってウィーアードに冷遇される羽目になってしまったストロクトは、何とかウィーアードの機嫌を取ろうと数々の贈り物と共に息子オルティス公子を王宮へ送り込んだが、その当の本人は〈黒蘭の君〉に骨抜きにされてしまい全く父親と故国の役に立っていない。

 レクサは翳の滲む表情で告げた。

「彼女が一日も早く回復するよう願っています」

「気遣いに感謝する。………ところで、そろそろ本題に入りたいのだが」

 いつものごとく全く無駄のない冷やかな口調で、エイデンが言った。

「私たちをここへ呼んだ理由が聞きたい」

「ええ。そうですね」

 レクサは頷くと、三連のタペストリーに近づいた。

 真ん中のタペストリーに描かれた、クレマチスの蔓に留まるオナガドリを押す。

 すると、掛け金が外れるような微かな金属音と共に、タペストリーが掛けられた壁の一部がスーッと開いた。

「!」

 カナンは目をみはった。

 壁だと思っていたのは、巧妙に隠された扉だった。三連のタペストリーはそこに扉がある事を秘する為に掛けられていたのだ。

 トロイも驚いた顔をしている。彼もこの扉の存在は知らなかったのだろう。

 反対に、クラベッタは全く表情を変えていないので、彼女は知っていたようだ。

「隠し部屋か」

 エイデンが独り言のように言った。

「いかにも王族らしい」

 カナンはタペストリーの合間から開いた扉の奥に目を凝らしたが、中は暗く闇に沈み何も見えなかった。

 レクサが言った。

「そなたたちを呼んだ理由は、この奥にあります。わたくしについて来て下さい」

「レクサ様、明かりを………」

 進み出たクラベッタが、丸テーブルに置いてあった燭台を恭しくレクサに渡した。

 レクサはトロイに視線を向けた。

「そなたはクラベッタと共にここで待っているように」

「御意」

 トロイは片腕を胸に当てた。

「何かございましたらすぐにお呼び下さいますよう。ここに控えておりますので」

 レクサを先頭に、カナンとエイデンはクラベッタが通れるように持ち上げてくれた三連のタペストリーの間から隠し扉をくぐった。

 そこは、人一人がやっと通れるほどの狭い階段になっていた。窓もなく、灯火もなく、緩い弧を描いて上に伸びている。

 レクサが持つ燭台の明かりだけを頼りに、三人は進んだ。

 やがて、彼らは楕円形をした変わった形の部屋に辿り着いた。

 居室というには中途半端な広さで、かと言って広間と呼ぶには狭い。入り口の横の壁に、太い真紅の組紐が大きな真鍮のフックに結わえられている。窓はひとつもなく、天井は幾重もの布で覆われ、どんな長身な者でもとても届かぬような壁の高い位置に何故か何枚もの大きな鏡が貼られていた。室内は燭台を持つレクサの周囲だけが仄かに照らされ、その他は闇に沈んでいる。楕円を描く壁に数枚の縦長い大きな絵が掛けられているのが辛うじて見えたが、何の絵なのかはわからない。

 埃っぽい匂いが鼻をつく。

 明かりを抑えた廊下から昼間のように明るい部屋へ、そしてまた暗い部屋へと、明るさが大きく異なる場所へ目まぐるしく移動したせいか、カナンは目の奥がズキズキした。

 レクサは部屋の中央へと進んだ。

 彼女が持つ燭台の灯火が、部屋の中央に据えられた長椅子とテーブルをぼんやりと浮かび上がらせた。獅子の足を模した脚のテーブルには、もう長い間使われていないと思しきうっすらと埃を被ったインク壺と羽ペン、そして表紙にタイトルも何もない一冊の古く分厚い本が置かれている。

「この部屋は、先の大戦後に〈勝利王〉が新たに造らせた部屋です」

 テーブルに燭台を置き、レクサが言った。

 彼女はテーブルの上の古い本の縁をそっと指でなぞった。

「そして、これは〈勝利王〉が遺した記録の書です。よく知られている先の大戦を記した歴史書ではなく、彼の個人的な記録です。日記のようなものですね。〈地の民〉を統べ、守護する聖王として、〈勝利王〉が何を考え、悩み、決断を下したのか、ここに全て記されています。彼の心の内を記した書です」

 レクサは本の表紙を開いたが、すぐにまたパタリと閉じた。

 開いた表紙の裏側に数行の文章が書かれているのが垣間見えたが、すぐに閉じられてしまった為、何と書かれているのかカナンには読み取れなかった。

「晩年の〈勝利王〉は、よくこの部屋で一人で過ごしていたそうです。退位後は特に。きっと、彼はこの記録の書を書き綴りながら、過ぎ去った遠い日々に思いを巡らせていたのでしょう」

 一体、レクサは何を語ろうとしているのか。

 彼女の真意が全く読めず、カナンは困惑した。

 エイデンにはわかっているのだろうかと、そっと傍らの黒衣の男を見やる。

 すると、何故かエイデンはカナンが思わず怯んでしまうほど険しい表情をしていた。

 ………いや、「険しい」とは少し違う。何と表現したらよいのだろう? まるで身構えているような………剣を抜く寸前のような緊迫感。革手袋を嵌めた指をわずかに曲げて。これから何が起こるのかを、全て悟ったかのような表情。

「貴女はどうやってこの部屋の存在を知ったのだ?」

 レクサに向かって問うた声も、どこか鉱物めいて固かった。

「貴女が生まれるずっと前に、オニールは亡くなっていたはずだ」

「偶然です」

「偶然?」

 エイデンが鸚鵡返しに聞き返す。まるでレクサの言葉を全く信じていないような口ぶりだった。もしクラベッタがこの場にいたら、また「無礼な!」と憤った事だろう。

 しかし、レクサは今回も全く気にする様子もなく頷いた。

「そうです」

「このエンプリア離宮は水晶王宮の広大な敷地の中でも最も奥まった場所にある。半ば打ち捨てられ、忘れ去られた離宮だ。そのような場所を、世継ぎの王女たる貴女がなにゆえ()()訪れるのだ?」

 レクサの頬が寂寥に陰った。

「一人で静かに考えを整理する場所が欲しかったのです。欲しかったというか………わたくしには必要だったのです。三年前、兄ウィメスの身に降りかかったあの不幸な出来事の後、いろいろな事が一気に起こりました。あの出来事で全てが変わってしまった………父上もわたくしも、王宮そのものも。全てが」

 レクサは琥珀色の瞳を伏せた。こみ上げる感情をこらえるかのように長い睫毛が微かに震えた。

「そんな折、晩年の〈勝利王〉がよく一人で過ごしていた離宮があると、王宮に長く勤める古参の侍従から聞いたのです。そして、この部屋を見つけました。本当に偶然に。もしかしたら、〈勝利王〉が………曾祖父オニールがわたくしをここへ導いてくれたのかもしれません」

「…………そうか」

 とだけ、エイデンは呟いた。

 何故か、彼が少しがっかりしているようにカナンには思えた。

 同じ事を感じたらしく、レクサはわずかに頭を傾けた。

「何か、別の答えを期待していましたか?」

「いや。そんな事はない。偶然の出来事というのは確かにある。そして、偶然と必然の境界は定かではない」

「そうですわね。偶然か必然か、両者は常に曖昧です」

 レクサはテーブルから離れ、入ってきた扉の横にあるフックに結わえられた太い組紐に歩み寄った。

 エイデンを、それからカナンを見やる。

「エルレイ=ズヌイの薔薇の園でそなたたちに会った時、わたくしは驚いた顔をしていましたでしょう?」

 カナンとエイデンは一瞬互いの顔を見合わせ、それから頷いた。

「え? はい………」

「そうだな」

 「驚いた」などという表現ではとても足りない。あの時のレクサはまるでこの世に存在するはずのない、あり得ないものでも見たような………亡霊でも見たかのような表情をしていた。初対面のはずなのにどうして彼女はあんな反応をしたのだろうと、カナンは不可解に思ったものだ。

 レクサは細い指で組紐を握った。

「その理由を見せましょう」

 固くしっかりと結わえられていたように見えたにも関わらず、レクサが引くと組紐はスルッと呆気なくほどけた。

 すると、大きな布ずれの音と共に、突然室内に月光が満ちた。

「!?」

 カナンは思わず天井を仰ぎ見た。

 夜空が見えた。

 部屋の天井全体が、硝子を嵌めた大きな天窓になっていたのだ。

 ディアドラ系譜図書館の〈紋章の間〉のように。

 但し、あそことは異なり、天窓に嵌まっている硝子は色硝子ではなく地の水晶のように透明な硝子だった。まるで夜空を楕円形に切り取ったかのようだ。組紐をほどくと天井を覆っていた布が開き、壁の上部に貼られた鏡が天窓から射し込む月光を反射し増幅させる仕組みになっているのだ。

 そのおかげで、今夜のように薄い月明りでも燭台の明かりでは届かなかった周囲の壁がはっきりと見えた。

 カナンは目をみはった。

 入り口とは反対側の緩くカーブを描く壁に、ほぼ等身大に描かれた七枚の肖像画が等間隔に掛けられていた。

 六枚は男性、一枚は女性の肖像画だった。

 まるで今にも動き出しそうなほど、語りかけてきそうなほどに精密に描かれた見事な姿絵だ。絵と絵の間隔はかなり離れてはいるが、部屋の中心に据えられた長椅子に座ったままぐるりと頭を巡らせば、七枚の肖像画を見渡せるように配置されている。

 だが逆に、絵の中の七人が長椅子に座る者を取り囲み、じーっと凝視しているようにも見える。

 …………あれ?

 カナンは眉をひそめた。

 彼の目は、ちょうど視線の先にあった唯一の女性の肖像画に釘付けになっていた。

「…………この人………?」

 初めて見る絵のはずなのに、カナンはその肖像画の女性を知っている気がしたのだ。

 描かれている女性は喪服姿だった。手首に小さな弔いの鈴を付け、黒いレースのベールを肩に垂らしている。子鹿の毛皮のように明るい栗色の髪と瞳。美人ではなく、どちらかと言えば目立たぬ地味な顔立ちだが、ふっくらとした薄桃色の頬と小さな唇が愛らしい。一面に広がるピンク色のタイムの花の絨毯の中に佇み、うっすらと微笑むその顔には静かな悲しみがたゆたっている。

 ああ、そうだ………!

 突然、カナンは悟った。

 雷に打たれたかのようだった。

 これは()()だ。

 ラーキンの家に泊まった日の夜、カナンの夢の中に出て来た、喪服姿の女性。

 ピンク色のタイムの花の絨毯が、カナンの頭の中で深紅の薔薇の花園に変わった。

「彼の墓があるの。………ここに」

 エルレイの墓が。

 そうカナンに教えてくれた。

 ウィーアードによって無残に焼き払われ、カナンは見る事が叶わなかった美しい真紅の薔薇の園の姿を、夢の中で見せてくれた。

 結局、あの夢の中では彼女の顔は見えなかったけれど、それでもカナンははっきりと確信する事が出来た。

 この肖像画の女性は、あの時の喪服姿の女性だと。

「その女性は、聖女ロザリンド=アンダーレイです」

 ドレスの衣擦れの音と共に、レクサが近づいてきた。

「先の大戦で〈地の民〉を勝利に導いた偉大なる予言者。〈勝利王〉の傍らで民を鼓舞し続けた、並ぶ者なき高潔なる予言者。このような華奢でおとなしそうな人がと、わたくしも意外でした。………ですが、あの戦は彼女の心にも深い傷を残してしまったのでしょう。ある時期を境に彼女はほとんど笑わなくなり、この絵のように常に喪服を身にまとうようになったそうです」

 きっとドン=エスが亡くなった後からだ。

 直感的にカナンはそう思った。

 レクサは肖像画の下に貼られた小さな銘板を指差した。

「ほら、ここに名が記されています」

 その銘板にはこう刻まれていた。


  ロザリンド=アンダーレイ

  〈地の民〉を勝利に導いた当代一の予言者にして

  民に崇拝されし慈愛の聖女


 この人が………ラーキンのお祖母さん。

 カナンは感慨深げにロザリンドの肖像画を見上げた。

 ラーキンの家で見た夢の中でも、その後偶然見つけた肖像画でも、彼女の顔は見えなかった。

 やっと顔を見る事が出来た。

 物言わぬ絵の中のロザリンドに向かって、カナンはそっと囁いた。

「……………ありがとうございます」

 貴女のおかげで、エルレイの薔薇の園の本来の美しい姿を見る事が出来ました。

「? 今なんと?」

 カナンの独語を聞き咎め、レクサが不思議そうに問う。

 カナンは曖昧に頭を横に振った。

「いえ………何でもありません」

 レクサは怪訝そうな表情をしたがそれ以上は問わず、ロザリンドの肖像画の左隣に掛けられた別の肖像画の方へとカナンを(いざな)った。

「こちらへ。そなたに見て欲しい肖像画があります」

 レクサが示したのは、七枚の肖像画のうちの左から二番目に掛けられた肖像画だった。まだ年若い、細い体躯の小柄な少年が描かれている。

「…………え?」

 カナンは目をみひらいた。吸い込んだ息がヒュッと喉で鳴る。


 そこに描かれていたのは、紛れもなくカナンの姿だった。


最後までお読み頂きましてありがとうございました。

本 第三巻 集結 は起承転結の「転」の巻らしく、この第八章以降いろんな事が明らかになって参ります。

体調も良くなりましたので、今後は再び毎週日曜日午後に投稿していく予定です。14時までに投稿できるよう頑張ります。

よろしければ、今後も見捨てずお付き合い頂けますと幸いです。

ではまた。


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