やかましわ!ーフリースクールでの偽りの自由ー何が自由やねんー
やかましわ。と思ったこと、皆さんにも、生きてく中で、何度か、あると思います。僕、村川葵も、その一人です。僕は、17歳の頃、レーシングドライバーを夢見て、地元のレーシングカートのチームでカートを走らせていました。昼間はバイト、夜は定時制の高校へ通う日々でした。しかし、思うようにタイムは伸びず、苦戦ばかりでした。そんな時に、先輩たちとカラオケへ、日頃のストレスをぶつけに行きました。そこには、先輩たちの友人で初めて会う、一人の僕の人生を大きく変えた、やかましい男が来ていました。僕が歌っているのを食い入るように、その男は見ていました。先輩たちや先輩たちの彼女たちと楽しく、朝まで過ごし、家に帰り、レースを辞めるか、続けるかを悩みだしました。親父に、まず、相談すると、僕の自由だから、ストレスになるのなら辞めればいい。お前が決めることだ。と。その日、昼間に寝て、夕刻、学校へ行くと校門で、良くしてもらった先生とすれ違い、「今日はしんどそうやの。今日は、家でゆっくり休めよ」と風邪気味の僕に言われました。「じゃあ、帰るわ」と。親父にその日、電話を入れて、学校まで迎えに来てもらいました。その親父を待つ中で、「もう、学校も辞めようかな」と思い始めました。親父の車中でそのことを相談すると、「お前は学校では伸びるタイプやない、学校、辞めるのも好きにせい。反対はせいへん」と。その日、決めました。高校中退を。仲が良かった同級生たちも学校を辞める奴が多く、つまらない学校は退屈、そのものでした。そして、次の日、学校に電話を入れ、中退が成立しました。すると、そのカラオケで出会ったやかましい男が大事な話があるから会いたいと電話を入れてきました。何のことか、わからないまま、その男とお茶をすると、「BOOWYのコピーバンドをしている。君は歌が上手い。うちのバンドでヴォーカルをやってくれないか」と。話は嬉しいことだけではなかったのですが、色々な条件がありました。まず、地元のフリースクールでの活動。僕自身もフリースクールに入学しなければならない。そのためにフリースクールの塾長が認めたら、そこの一員になれるので、塾長に逢ってくれ。と。一週間、僕を監視して、フリースクールに向いているか、それとも駄目か僕を監視する。と。その期間で、そのやかましい男から、散々に言われました。僕はレーシングチームの一員なので、チームの宣伝のため、チームのロゴが入った、ポロシャツを普段でも着なければならない。すると、そいつは、「ダサい」と散々、僕のポロシャツを馬鹿にしました。その男、ほんま、うっせいわ。な奴でした。他にそのフリースクールで出会った人間にも色んな人がいました。当時の喫煙仲間もできました。その頃はフリースクールでは未成年の喫煙を注意しないというルールだったので僕らにとってはありがたかったですのですが。様々な意見があるでしょう。そして、僕のフリースクールの入学が決まり、バンド活動を始めました。はっきりいって、へたくそなバンドでした。その男はギタリストでベースの担当、ドラムは、まだ中学生でした。いつも上手くいかないバンドの練習。ライブの予定もあり、一生懸命は一生懸命でした。大きなライブハウスで、ライブもやりましたが、全くウケない。そんな中、レースも辞めました。バンドの練習部屋で、そのギタリストに「村川がヘタクソやから、うちのバンドはあかんのや」と言えれ、僕は怒り、「ほな、辞めるわ」と言って練習を投げ出し、帰宅しました。ほんと、うっせいわ。俺の何が解かる。と怒りだらけで、部屋で横になっていると、その男が、僕の自宅まで来て、「俺が悪かった。一年だけはバンドに残ってくれ」と散々になるまで頭を俺に下げてきました。土下座もされました。誰が残るか、と一瞬は思ったのですが、やっぱり、バンドを続けることにしました。他にやることもなかったですし、バイトも辞めたばかりでした。そこから、少し、変わってきました。まず、ベースやギターを買い、アンプを購入。ベースを弾くことがストレス発散でした。BOOWYのビデオを見て、marionetteやimagedownなど、ベースの練習も始めました。その頃から、その男が時折、家に泊まりにくるようになり、ベースをギターを教えてもらうことになりました。初めは良かったのですが、その男が、酒に酔い、デカい声で僕との口喧嘩になると、親父が見かねて、「やかましわ」。と部屋に入ってきました。その男は親父に対して、僕の事を、「こいつね、ベースが下手なんですよ。ギターも」と言うと、親父は、「お前、誰の息子にこいつ呼ばわりしとんのじゃ、表へ出ろ」とキレ、その男の顔面に足蹴りを決めました。その男は、「すみません。すみません」と土下座ばかりでしたが、本当に反省していたのでしょうか。そりゃ、僕も今年で48になりましたが、もし自分に子供がいたとして、「こいつ」呼ばわりされたら、怒って当然です。親父は、普段はおとなしく優しい人です。その男は、その場から帰りました。バンド活動は、一年続き、全くウケないまま解散しました。sしかし、その男の行き過ぎた行為は続き、フリースクール内に、リビングと呼ばれる、生徒が集まる部屋があるのですが、そこで、酔っ払い、ギターを弾き、大声で歌い、「俺、ヒンシュク買うの大好き」と言いながら、後に自殺した、女友達に暴力を振るうのです。その女友達とは、みんなで、京都や名古屋へ車で旅行に行きましたが、「消えたい」が口癖で、淋しい背中をしていました。絶対、おかしい。その、いじめを塾長もフリースクルールの教師たちも注意しないのです。そして、彼女が自殺してから、塾長は泣きました。全く、意味がない。葬儀には行きました。可哀想で済ましていいのかわかりませんが、皆さん、どう思われますか。そらに、バーベキューを生徒、塾長、スタッフと、フリースクールの前で行ったのですが、その男は、パンダの着ぐるみを着て、地元の小学生に暴力を振るっているのです。それさえも、誰も注意しない。自由って何ですか。人一人、亡くなって、ようやく、塾長はその男を、退学にしました。もう、遅いっちゅうねん。そこで出会った、素晴らしい友も何人かいました。旅行へ行くためにバイトバイトとお金を稼ぎ、日本では全都道府県を旅して、ヨーロッパのほとんどの国へも旅しました。この友人の生き方は理想です。僕もその友達の運転する車で、静岡や東京、大阪、広島へも旅しました。浜松で食べた、うなぎ、美味しかったな。本当にいい思い出です。それと、もう一人。二十歳の頃、脳の病で亡くなったのですが、同い年で、仲の良かった、友人もいました。尾崎豊が好きで、尾崎が亡くなった場所、当時の尾崎ハウスと呼ばれる、ファンが集う場所へも一緒に行きました。この友達は、ギターを一生懸命、覚え、コードやアンプの使い方も上手でした。今でも、覚えています。僕が胃腸をやられ、入院して、三か月後、完治し、退院すると、神様のような笑顔で、「おお、久しぶり、元気そうやな。退院、良かったな」と僕に声をかけてくれました。その時の笑顔が忘れられない。塾長にはフリースクール卒業後も世話になりました。亡くなった教師も、一人、いました。「頑張ってるね。噂で聞いたよ。絵が表彰されたって。頑張ってね」と挨拶したのが、その教師との最期の会話となりました。塾長とは二十歳を過ぎてからも、お茶を共にしましたが、意見が分かれました。塾長は、僕に、「写真や詩を辞めて、絵だけに集中しろ」と繰り返し言ってきました。僕はそれが嫌で、当時、弟子入りしていた、画家の先生に相談すると、「写真も絵も詩も、やったほうがいい。村川君の芸術やし、絵画に繋がる。いろんなことを経験してるほうがいいよ」と前向きな言葉をいただきました。塾長は、優しい人と云えば優しいですが、その自殺の問題。注意一つしなかったこと。そのギタリストの男のストーカー行為。自由って何ですか。本当に、そう思います。僕はその頃から詩や写真、絵画で嬉しいことに賞をいただき、詩を投稿した雑誌にも掲載されました。これは僕の自由です。ですが、ですが。皆さん、どう思われますか。僕は人間が好きですが、その男は許せない。酒に酔うと、「村川が、何故、高校中退したのか、調べたる。覚悟しとけよ」と、言ってきたり。何でそんなこと言われなあかんの。僕は、そいつを殴りましたが、そいつは、フリースクール中退後も二年ほど経つと、早朝、二時半ぐらいに僕の家にやって来て、「釣りや。釣りへ行くぞ」と。もう、ええっちゅうねん。そして、車に僕を乗せて、釣具屋に行き、まだ、空いてない店の扉を叩き、「すみません、開けてください」と。釣具屋のおじさんは、店を開けてはくれましたが、嫌な顔で当然、怒っていました。じゃあ、もし、釣具屋さんが開けてくれなかったら、自由は消えるのか。この男は何でも人のせい。よく、わかりません。自由、自由というけれど、偽りの自由でしたよ。やかましい。自由って何なのでしょうね。