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いっそ寂しいくらいに平穏な授業を終え、帰宅した。今日はいっそう寒かった。耳が千切れるかと思った。はやく部屋に入って温かいココアでも飲みたい。
凍えて震えながら家の前までいくと黒の布饅頭がいた。こんな置き配なんか知らない。置き配があるとも聞いていない。何が何やら。
恐るおそる近づいて見ると、黒い布饅頭は動いていた。人だった。しかも笹川さんだった。寒さに震え、荒い息を吐きながら小さく丸まっていた。
彼女は体調を崩して早退したはずだった。
授業をサボったのだとは考えにくい。彼女は優等生だ。それに扉に寄りかかって苦しそうにしている。
本当に体調が悪くて早退したのだろう。
しかしここにいる理由がわからない。
彼女は家に帰って暖かい格好で寝ているべきなのだ。それなのに寒い中制服のままで私の家の前にいる。
「どうしてここに?」
「君を待ってたの」
「意味がわからない。風邪ならはやく帰って」
彼女はフラフラと立ち上がった。
そうだ。君は家に帰るべきなんだ。でなければ傷つけてしまう。俯いたままで、顔は見えないが、耳は寒さで赤く染まって痛そうだ。こんな状態でPlayをしたら死んでしまいそうだ。あまりのひどさに本能が暴れだすこともなかった。本当に酷い状態だった。見ていてあまりにも危なっかしいので手を貸そうとして近寄った。
するとぎゅっと袖を掴まれ引っ張られた。彼女の顔が急に近くなる。頬が少し赤いだけで顔色は悪くない。体調不良は嘘ではないかと思ってしまう。けれど目だけがいつもと違った。獲物を見つけた獣のような鋭い目付きをしていた。
「応急処置ならPlayしてくれるんだよね?」
見つめられた目が離せない。
立っているのも苦しいくせに、今にも倒れそうなくせに、私よりも弱いくせに、生意気な目。いつもの彼女からは考えられないほど愚かな目。
生徒会長で、優等生で、別世界の住人。そんな彼女が私なんかに目が眩んでおかしくなっている。
背中がゾクゾクする。この可哀想な少女を叩き起こしたくなってしまう。
殴って蹴って目を覚させてやりたい。頭を掴んで何を見ているか、何に触れているかをしっかりと目に焼き付けてやりたい。自分かどれほそ間抜けで危険なことをしているのか理解させてやりたい。
Domとしての衝動があふれだす。彼女を躾けて、いや痛めつけて自分の思うとおりに捻じ曲げてしまいたくなる。
いけないことだと理解していても、衝動は止まらない。
お腹が空いていて、目の前にパンがあるから食べたくなる。今の衝動はそれに似ている。目の前の獲物を食べ尽くしたくなる。たとえそれが毒入りのパンだったとしても食べたくなる。自分の意思では制御できない人間としての根源的な欲求が体の中で暴れ出す。
堪えるのが苦しい。手を出せば私も彼女も壊れてしまう。僅かに残っている冷静な部分が必死にNoサインを出す。頭の中は緊急事態。赤いランプがぐるぐる回ってサイレンがうるさく鳴り響いている。
「駄目。帰って。今はちょっと無理」
「そんなこと言わないでよ。貴女じゃないと駄目なの。貴女の命令が必要なの」
「今は無理。治すどころか傷つけてしまうから」
私の拒絶などものともせず彼女は私の命令を強請る。
彼女の白い指がクスリの切れた中毒患者のように震えている。私の頬に触れた指はひんやり冷たい。彼女は恍惚として私を見つめる。目にハートが浮かんでいると言われても納得がいく。
まったく持って今日の彼女は様子がおかしい。本当にどうかしている。
「私は命令されるまで動かないよ」
ああ、もう手詰まりではないか。
体格のそう変わらない彼女を無理やり動かすことはできない。家まで運ぶなんて無謀にも程がある。だからといって彼女を説得するのも難しい。元々彼女の方が口が立つ。それに彼女は理屈を捨てて本能で動いている。完璧な理論で武装したところで彼女には通じない。
もう打てる手はない。私が折れるしかない。
「わかった。命令してあげる。ただここでしたら風邪を引くから中に入って」
私なりの心遣いと最大限の譲歩だ。これでようやく部屋に入れると思った。先ほどから寒くて寒くて仕方がなかった。きっと彼女だって寒いはずだ。
「嫌だ」
だからこそ彼女に拒否された時は本当に驚いた。
これ以上どうしろというのだろうか。意味のわからない駄々を捏ねていないで素直に従ってほしい。
「今、此処で、私に命令して」
正直寒いので部屋に入ってから落ち着いてplayをしたい。しかし、我儘な彼女には従うしかない。あまりの傲慢さに腹が立つが我慢だ。
「わかったよ。此処で、命令してあげる」
全くどうしてこんなことをしているのだろうか。
手足が冷えて痛い。頭がぼんやりする。私の方が風邪を引いたのかもしれない。彼女のせいだ。本当に迷惑極まりない。本当だったら今頃、暖かい部屋の中で蜜柑を食べたりお昼寝したりしてのんびりしていたはずだった。それがこんな意味のわからないことになっている。本当に腹立たしい。
「跪け」
こんな意地悪な言い方で、地面にタオルも敷かずに命令したのだって、彼女のせいだ。彼女が私をおかしくしたせいだ。
本当なら大嫌いなDomの力を使うにしても、もっとSubに優しくする。相手を思いやり気遣い大切にする。私はこんな乱暴な人間ではない。乱暴でないはずだ。
だが彼女はこれだけ私を乱しても、まだ足りないらしい。
彼女は私にしなだれかかったまま一歩も動かない。私に体重を預けたまま自分の足で立とうとすらしない。私の言い方に難があったとはいえ命令してもらっている立場の人間の行動ではない。失礼なやつだ。
「座って」
もう一度、ゆっくり丁寧に言葉を発する。これで聞こえなかった、聞き取れなかったみたいな言い訳は無しだ。
だが彼女は少しも動かない。銅像のように固まって、そのまま動こうとしない。SubがDomの命令に逆らうのは非常に苦しく精神も体力も消耗すると聞く。それでも彼女はわざわざ私の命令に逆らっている。
せっかく私が命令をしてやったというのに、なんて態度だ。我儘にも程があるんじゃないだろうか。
「座って。ねえ座って、座ってよ!」
何度命じたって彼女は動かない。次第に私も苦しくなってきた。胃がぐるぐるする。頭がガンガンと痛む。全身がぶるぶる震える。本当に気分が悪い。吐きそうだ。
回らない頭でDomもSubが従わないと体調に影響が出ると聞いたことを思い出した。Subのそれとは比べ物にならないほど軽いとはいえ心身を苦しめるらしい。
Domの私でこれほどならば、Subの彼女はどれほど苦しんでいるのだろうか。体が跪こうとするのを、膝をプルプルさせながら留めて、吐きそうなのか手で口を覆い、顔を青白くして、命令に逆らっている。
いったい何がしたいのだろうか。あまりの我儘に腹が立った。寒いのに部屋に入れず苛立ってもいた……というのは言い訳に足るのだろうか。
パチン、と破裂音にも似た乾いた音が響いた。
掌がヒリヒリと傷んだ。
彼女が頬を押さえていた。
俯き気味で顔は見えなかった。
どうやら私は彼女を叩いてしまったらしい。小さな苛立ちが埃のように少しずつ積もって、それでパチンとショートした。
痛そうだ。申し訳ないことをしてしまった。謝らないと。
冷静な自分が常識的な行動を取ろうとする。その一方で自分の身体は未知の快楽に震えていた。
背中がゾクゾクした。お腹がキュンとした。もっともっと彼女を傷つけたいと思った。
誠に残念なことに、私は彼女を傷つけることで快楽を得るらしい。知りたくなかった。Domとしての本能だろうか。彼女を自分のものにしてしまえと体が叫ぶ。
こんなはずではなかった。私はDom性などには囚われず、人を傷つけずに生きるはずだった。私はこんな人間ではないはずなのだ。これは事故だ。何かの間違いだったんだ。
「あは。あははっ──!」
私の思考に重なるように笑い声が聞こえてきた。彼女が笑っている。彼女は殴られ赤くなった頬をおさえ、恍惚といった表情で体を震わせていた。壊してしまったのだろうか。
「ねえ、貴女に殴られたところから身体が疼いてたまらないの。もっと私を躾けてちょうだい?」
蜂蜜のように甘ったるい声は私にとって毒にしかならなかった。何かがプツンと切れた。どこからか湧いてきた力で彼女の胸ぐらを掴んで立たせ、空いた手で扉を開け、彼女を乱暴に放り入れた。すぐさま私も中に入り、鍵を閉める。僅かに残った冷静な部分はやめろと叫ぶ。けれど体は私のコントロール下を外れ衝動のままに動いている。
「わかった。もう一回だけ命令してあげる。それで言うことを聞けたら、Playを続けてあげる。立ち上がって」
彼女はよろけながら立ち上がった。
「そう。いいこ。」
頭を撫でて、抱きしめて、全身で彼女を甘やかす。冷たくなった肌を溶かすように抱きしめて、パッと離す。私に体重を預けきっていた彼女はふらっとよろめいて地面に倒れた。勢いよく倒れたので額を打ったらしい。痛そうでとってもかわいい。
彼女のお腹に足を置いて、顔を寄せて堂々と宣言する。
「もし貴女が私を受け止めてくれるなら、緊急時のplayだけじゃない、貴女の唯一になってあげる」
パートナーとして契約すれば、彼女は私の命令しか受け入れられなくなる。ほかのDomに無理に命令されることがなくなるが、私しか彼女を満たせなくもなる。つまり私に命の半分を預けるようなものだ。簡単に決められることではない。
これは賭けだ。もしこれで拒否されたら私は一人でこの激情を抱えていくことになる。こんなこと誰にも言えない。私をおかしくした彼女にしか教えられない。一人でこの傷つけたいという衝動を、一人でどうこうできるとは思えない。きっとどこかで壊れてしまう。だからこそ、今賭けに出て、勝つしか道はない。どうにか強くて怖いDomになって彼女をなんとかして従わせなければならない。
さて、どう来るか。
「面白いことを言うね。私の唯一はずっと前から貴女だよ。貴女が言いたいのは、私を唯一に選びたいってことでしょ? 嬉しいな」
なんとも生意気な態度だ。今の状況を第三者に見られた時、失うものが大きいのは彼女の方だというのに余裕そうだ。少し癪に障るが、これくらいの方が命令しやすくていいのかもしれない。躾がいもありそうだ。今ある彼女の形に無理矢理力を加えて捻じ曲げて自分好みの形にする。きっとうまくはいかない。彼女はそういう人だ。全然変わらないと思ったら突然変なふうに折れ曲がる。けれどその過程こそがきっと楽しい。
「|生意気なお口は閉じてな《Shut Up》。さあ、部屋へ行くよ」