7割の収入
太陽の傾きが、水平線と少しの角度を成している前に事務所に帰ってくることが出来た。
事務所を含む既に寿命は疾うに過ぎてしまったであろう、コンクリート造りのビルの階段を上りながら吸い始めた煙草は、かなり折れ曲がっていた。玄関ドアを開くと、外で感じていた以上の冷気が全身を吹き抜ける。入口右手にある電気と暖房用のスイッチを軽く押し、外套とジャケットをコートツリーに掛ける。
俺の後ろを着いてきた少女も、その腰下まであるコートを脱いだ。
「ほら、貸せ」
「どもです」
まだ十分に温かさの残るコートからは甘い香りがした。ここで鼻腔をくすぐる、なんて表現してみようものなら即刻刑務所行きであるから、脚色せずに事実のみを伝えることにしよう。兎に角、若い女性特有の甘い香りである。成程、健全だ。
現代的な倫理観を無視すれば、本来、17歳というのは、妊娠出産に最も適した年齢ということを聞いたことがある。因みにこれが事実かどうか、俺は一切関知しない。
ということは、だ。この少女にもある程度、女性としての扱いをしなければならないということである。
千里をソファーに座らせ、俺は給水場兼キッチンへ向かう。
「紅茶を入れようか。ストレート、ミルク、レモン、どれがいい?」
「あ、私コーヒーで。久崎さんが飲めないようなブラックでお願いします」
にっひっひ、と笑うクソガキ一匹。
前言撤回。少なくともこいつは生意気なガキである。
ムカつくからフンコロガシの糞でも入れてやろう。
「へぇ…。久崎さんってコーヒーを入れるのも上手なんですね。ちょっと見直しました」
「まぁな…」
これ以上ないほどまでに濃く、そして苦く作ったつもりのブレンドコーヒーであったが、どうやらこの少女の舌には上手い事合ったようだ。
マジかよ…。現状この場において、一番みじめなのは俺であるという事実に涙が止まりません…。
俺はティーカップにフレッシュを入れ、スプーンでかき混ぜる。
「飲み物も淹れたし、そろそろ詳しい話を聞かせてくれるかな?」
うんうん、と頷きながらコーヒーカップを手にしていた千里は、それを一旦ソーサーに戻して答えた。
「やっとですね!どんな尋問をされるのか楽しみです~」
「誰のせいでこんな時間になったと思っているんだよ…」
「誰かさんが寝坊しなければ朝のうちに終わったんですけどねぇ~」
どうやら俺のせいらしい。まぁ、誰に起こされようが起きないのが俺である。
将来の嫁には、「怜ちゃん、おはよ~」と言いながらベッドに俺を起こしに来るものの、俺の気持ちよさそうに寝る様子を見て、添い寝してくれる女を選ぼうと思う。
因みに、これを人に言うと、「童貞気持ち悪…」とかマジトーンで言われるから注意だゾ!
「悪かったよ、俺も起きれる事ならば朝のうちに済ませたかった」
「いや、本当に怒ってなんかいないですよ」
彼女は苦笑した。
「それならいいんだ。では話を進めさせてもらう。君の父親について、入院のいきさつも含めて教えて欲しい」
「はい、父は山郷敏郎という名前です。職業は医者で、今年63歳になったところです。9月の終わりに体調を崩して検査を受けた所、ステージ4のすい臓がんだと判明し、そのまま入院しました。初め入院した病院は、定年まで父が働いていた病院でしたが、本人の希望もあり、10月の終わりからはこちらの大学病院にお世話になることにしたという感じです」
すい臓がんか…。一度テレビで、すい臓は沈黙の臓器と聞いたことがある。予後も非常に悪いということらしい。
メモを取りつつ、一息入れるため、ティーカップを手に取った。
「父は元々、こちらの大学病院で教授をやっていたそうなんですが、何か色々あったらしく、その職を辞めて勤務医になったと聞いています」
「そうか、だから、まぁ少し言い方は悪いかもしれないが、手の施しようもない末期患者を病院も受け入れたのか」
「いえ、別に何とも思いませんよ。義理とは言え、娘の立場からもよく受け入れてくれたな?と思いましたが、毎日来る後輩や教え子の先生たちを見ていたら理解も出来ました」
暖房が少しづつではあるが効いてきた。千里はさっきまで着ていたカーディガンを脱ぎ、話を続ける。
「慕われていたんだな」
「そうですね。先生たちが私たち家族にも挨拶しに来てくれましたが、皆さんから感謝の言葉を頂きました」
千里は自慢げな様子で語った。
ふむ、昨日は仲があまり良くなかったと語った千里だったが、この少女自体は父親に対してある程度の尊敬の念を抱いていたのだろう。仲が良くなかった、という卑屈さが入り混じる言葉の中に寂しさを読み取れる。
「君は今、私たち家族と言ったが、君の他にも山郷先生には家族が居たのか?君の母親、つまり山郷先生の奥さんは亡くなっているという話だったよな?」
「私には兄が居ます。とは言っても義理ということになりますが。今は大阪の医大に通っています」
どうやら歳が離れているらしく、千里の義理の兄、つまり山郷先生の一人息子は現在24歳ということだ。
その後も様々な話を聞いた。
父との仲は良いとは言えない状況だったらしい。とは言え、仲が悪いということは無く、一方で夜勤帰りで遅くなる父親と話す時間も無かったようだ。そして何よりも、血の繋がっていないという事実が、他の親子以上に関わり合いの遠慮へとなっていたと彼女は考えていた。
逆に兄、そして母親との仲は良かったようだ。男家系で育った母にとって、娘というのはかけがえのない存在だったらしく、親と娘というよりは、歳の離れた姉妹のような仲だったらしい。
兄に関しても、唯一の兄妹として色々遊んでくれたようだ。
話を聞く限り、千里の性格(とは言え、まだ出会って一日なので暫定的な評価にならざるを得ないが…)はこの母と兄からの影響を感じた。
「それで、手紙は君のお兄さんへは届いていなかったのか?」
「勿論確認しましたが、届いていないそうです。実の息子への手紙を郵送してもらうという可能性も低いでしょうね」
少し冷めたコーヒーを全て飲んでしまったようだ。
シャツの上ポケットからラッキーストライクを取り出し、ジッポライターで火を付ける。
一息を飲み込み言葉と共に俺はそれを吐き出した。
「そりゃそうだな。手紙の詳細も分からないのか?」
「すいません、本当にまだ分かっていなくって…。一応働いていた病院や私自身も顔見知りな父の友人にも確認しましたが…。とは言え、私の知っている父の友人というのが二人にしか居ないですが…」
千里は肩を落としつつ、公開の入り混じった溜息をこぼす。
「いいや、別に謝る必要はないさ。だからこそ、探偵なんかに依頼をしたんだろ?」
「はい。これでも期待しているんですよ!」
けれども、その表情には少しの不安が入り混じっていた。
「君は昨日、天涯孤独とか言っていたじゃないか?実の両親の親せきという可能性は無いのか?」
実は昨日話を聞いた時に、俺の中で一番可能性がある人間がこの類のものだった。
千里は少し考えるふりをしたが、その返事は断定的だった。
「無いと思います。父が私を引き取ったのも、私に身を寄せれる親戚が居なかった事が理由の一つだと教えてもらいました。生前、父に私の親戚について尋ねましたが、連絡先も何も分からないという事でした」
「そうか…。取り敢えず、君のお父さんを担当していた看護婦さんに一度改めて話を聞くしか無さそうだな」
「やはりそうなりますよねぇ。よろしくお願いします」
彼女にしてはややしおらしい言い方だった。
「別に問題無いよ。足を使って話を聞いていく。これが探偵という仕事だからな」
この日、他に出来ることも無かったので千里には喫茶店に返した。
俺は、大学病院に電話を掛け、千里から聞いた担当看護婦に、明日、少し時間を取ってもらった。
今日の仕事はこんなものか。
いつも、仕事が終わった後に時間が出来れば、決まっていく場所がある。俺の収入の五割以上を占める、探偵業以上の’仕事’だ。
この市の繁華街梅津町は、俺たちの住んでいる辺りを南に下りて行った所にある。歩いて40分程度、自転車では10分程度で到着する。
居酒屋は、梅雨の雨の様に、その需要に対して乱立している。しかし、梅雨が農家にとっては必要不可欠であるように、これらの居酒屋も誰かにとっては一件たりとも欠かせないのであろう。飲み屋がひしめくおよそ500メートルの通りから、路地裏を伝って奥へ進むと無数の風俗店がある。もう少し夜が深くなれば、そのネオンの誘いに多くの男が攫われている。
酒、女が溺れるこの街の中で、俺が求めているものはパチンコ屋であった。基本的に俺は様々な店を使って金を稼いでいる。一つの店に月2,3回行けば多い方だ。しかし、今から向かう場所は唯一、毎週通っている。それは勝てるからという理由ではなく…。
店に入ると、金属球が擦れ合い、慢性的な軟調を患ってしまいそうな音が響き渡っていた。今日打つ台は既に決めていたが、新台ということもあり2台ほどしか開いていなかった。仕事終わりのサラリーマン風な男性と、既にボケが始まっていそうな老人の横に座った。スーツから煙草を取り出し、一本を口に咥えてソフトボックスを排出口に入れておく。この台にした理由は、横のサラリーマンが煙草嫌いなことを知っていたからだ。この男を観察していると、横の客が煙草を吸うたびに台を移動する傾向にある。案の定、打ち始めてから5分程経過したところでこの男は席を離れていった。こちらへ侮蔑の入り混じった視線を向けつつ。
30分ほど経過したところで初めての当たりが取れた。今日は早くて助かる。
この台は、大当たり終了時に、内部で球を詰まらせてしまえばエラーを起こしてしまえば天国モードへ移行するというバグがある(天国モードは大当たり確率が大幅に上昇する)。そして爆音のエラー音が鳴る瞬間に、詰めてあった煙草を除いてしまえば、店員を呼ぶこと無く、エラーを解除出来る。
これを繰り返すことで、常に天国モードで遊技することが可能になる。
人生ちょろすぎ!
計40000発を獲得して今日の稼働は終了にした。隣の老人は一度も大当たりを引けていなかった。2.5円交換なので約10万の回収である。これをちびちび繰り返しホールと上手い事やっていくのが一番美味しい立ち回りなのだ。とは言え、今日は少し出しすぎてしまった…。
この攻略法を発見したのは、新台導入の翌日だった。そして今日で6日目である。来週、パチンコ攻略雑誌が掲載される事を考えれば、今のうちに抜いておくのも悪くはないだろう。
店を出て、換金所に行こうとしたところ、顔なじみの定員に呼び止められた。
「久崎さん、やりすぎですよ今日は」
この男は長谷部という店員である。俺よりの5歳年上である。パンチパーマと鋭い目つきで一部の客から怖がられているが、喧嘩も弱い、ただのはりぼてだ。
「どうせ来週にはこの攻略法は使えなくなるよ。長谷部も早いうちに」
「それはありがたいんですけどね。やっぱり久崎さんと言えど、店長も少し腹を立ててました」
「気を付けるよ。暫く来ない方がいいかな」
「一応そうしてください。まぁ、久崎さんですから店長も何も言えないでしょうが…」
長谷部は苦い顔をしながら答えた。
「あんまり会の威厳をかざすのは好きじゃないけどね。これくらいは許してくれ」
俺は苦笑で返した。
今日は一人で飯は済ませることにした。公衆電話から喫茶店に電話を掛け、飯を食い、俺は事務所へ帰った。
時刻はまだ9時にもなっていなかった。少し仮眠を取って閉店後、喫茶店に行こう。