レシピ
ベランダで煙草を吸い終わった時、微かに玄関ドアの開く音がした。
おっちゃんが帰ってきたのだろう。
煙草の火を消し、ベランダを出る。
「玲二、あの二人はどうだった?」
特に心配そうな様子で訪ねてきた。
「あの有希だぞ。仲良くやってたよ」
「今風呂か?」
「ああ、二人で入っている。流行りの歌手の話で意気投合してたぞ」
「なんと言うか若さってすごいな…。お前は仲間外れか?」
真顔でそんなことを聞いてくれるな。
「ああ、自制したよ。女子高生を二人病院送りにするかもしれないしな」
「敢えて科は聞かないでおくよ」
おっちゃんは呆れながら答えた、テーブルに座り、先ほど冷蔵庫から引っ張り出してきたビールを開けた。
「飯、入れようか?」
「すまねぇな。頼む」
俺たちが食った時から、そこまで時間は経過していなかったが、疲れた後の飯というのは熱々の方がいいだろう、俺はコンロの火を付けて鍋を加熱した。
その間に皿でも洗っておこう。
背後のテーブルからは気持ちよさそうにビールを飲む声がする。
「あぁ!やっぱりうめぇなぁ…!玲二も飲めよほら」
「俺の酒癖の悪さは知っているだろ…。介護してくれるなら飲むけどな」
「安心しろ。手足縛って、裏の川に投げ捨てておく」
この時期なら腐敗も遅そうで助かります!
なんて冗談を言い合っているうちに、鍋はぐつぐつと音を立てて、生姜の香りを発してきた。何度嗅いでもこれは飽きない。
「なあ、おっちゃん。この店のレシピっておっちゃんの知り合いから譲り受けたんだっけ?」
振り向きつつ尋ねると、口の周りに泡を付けた中年のおっさんがいた。こう書くと中肉中背の、大事な部分が年々薄くなっている年相応の疲れ切った男を想像してしまう。しかし、この男は残酷な時の流れに抗うように、若いころと同じ体系を維持し、その髪も荒野を知らない森林の様に奇麗に生い茂っていた。
俺の知っている中年の男というのは二パターンしかいない。
一つはおっちゃんや、親父、のような初老に差し掛かった紳士。
もう一つは…。
「まぁ、半分くらいは俺が考えたな。半分は人に教えてもらったよ。ほら、オムライス、牛丼とかハヤシライスとかは教えてもらったな。この店の人気メニューは軒並み教えてもらったよ」
自虐する様子もなく口元の泡と共におっちゃんは口角を上げた。
「ああ、違いねぇな」
そんなことを話している内に、煮詰まったようだ。
引き出しから取り出した丼に、米を引き詰め、その上に肉を掛ける。たれはだくだくで。俺もおっちゃんもつゆだく以外はNGなのだ。そして親父もそうだった。
丼をおっちゃんの元に運ぶと、ありがと、という声と同時に箸で飯を掻き込んでいった。
一旦休憩というように、おっちゃんは水を啜りつつ言った。
「家の牛丼は生姜が効いていてこれまた旨いよな」
「店と少し味が違うもんな。俺はこっちの方が好きだぜ」
「有希が少しずつレシピをアレンジしているんだよ。元のレシピが店の味だ」
…それは初耳だ。店の味は、有希が家で作るものより少し醤油が強い。
確かに言われてみれば少しづつ生姜と砂糖の甘味が強くなっていったような気がする。
「おっちゃんはどっちの方が好きなんだ?」
俺は少し意地悪な質問をしてみた。
予想通り少し苦々しそうな顔を見せてくれた。
「まぁ…父親としてはこっちの方が好きだよ。でも、総合的にはレシピの方かな」
苦笑しながら答えたおっちゃんは続けた。
「レシピの方は色々思い入れがあるんだよ。それも込みだ」
味単体ならどっちも同じくらい好きだぞ、と加えた。
そんな話をしていると、所で、とおっちゃんは言った。
「千里ちゃんはどうしてお前の事務所なんかに来たんだ?」
ビールのせいか、顔は少し赤く染まっていた。しかしおっちゃんにしては珍しく真面目腐った表情だった。
「いや、聞いてねぇな。明日か明後日か、なるべく早いうちに詳しい話をするつもりだ」
「そうか…」
「どうしたんだよ。俺の所みたいな弱小探偵を頼る依頼人を悪く言っても、俺の事は悪く言うなよ?」
「安心しろ、悪く言うとしたらお前の事だけだよ」
赤らめた頬を少し弛緩させる。しかしその頬は、すぐにさっきまでの固さに戻ったような気がした。
「あのお嬢さんの依頼、叶えてやれよ」
「まぁ、出来る範囲、でな」
「そう言いながらお前は今までの依頼を全てこなしてきたな」
「違いねぇな」
俺たちは何故か笑ってしまった。
おっちゃんが煙草を吸いにベランダへ出ていった。
俺も帰るとしよう。皿洗いをして、最後にこの家の最高齢の動物に挨拶をしてから。
洗面所には丼が四つと、箸とスプーンが転がっている。
きっとまな板と包丁は、有希が調理しながら洗ってしまったのだろう。
丼を洗って流し場においてから隣室へ向かった。
そこには犬が居る。
「そりゃ、寝てるよな」
この家に住んでいる犬、名前はカズ。
今年で19歳を迎えた。確か人の年齢に換算すると100歳近いと有希から聞いた。
人の高齢者よろしく、この老犬も寝ていた。
カズの住処はテーブルを置くリビングと、障子四枚の仕切りで隔てられた隣室の隅に位置している。
きっと千里が見たら驚くことであろう。
外套を羽織り、帰宅する準備をしていると有希が風呂場から出てきた。
「あ、お父さんにご飯出してくれたの?」
「ああ、腹空かしてそうだったからな」
「ありがと。お皿も、ね」
無邪気な表情でこういうことを言われるのは未だに慣れていない。
「タダ飯の対価だよ。おっちゃんは下で寝るって」
「そりゃそうだよ。今日は男子禁制ですから」
「じゃあ、おやすみ」
「うん、気を付けてね」
玄関まで行って、靴を履いたタイミングで二人目の少女が出てきたようだ。
「あの、久崎さん、ありが…」
「お礼は俺じゃ無いだろ?ちゃんと有希に言っておけよ」
「それは勿論ですよ。でも、久崎さんも」
俺は振り向からなかった。手を振り返して家を出た。
ビルを出て、寒い道を歩む。
飯を食ったせいだろうか、足取りは少し重たかった。
時刻はもう三時である。
明日は水曜日であるのにあの娘たちは大丈夫なのだろうか…。
まぁ、有希は学校ではずっと寝ているだろう。
千里はどうするのだろうか。
まぁ、いいだろう。明日朝一番で大原家に行こう。
事務所兼俺の家は煙草の香りが染みついていた。接客業としてどうなのか?なんて言われてしまったら何も言い返せない。今度禁煙禁止という張り紙でも張っておこうか。
風呂に入って、応客間の奥にある俺の小さな寝室へ転がり込む。
ベッドは無い。カビの匂いがしてもおかしくないソファーが申し訳なさそうに一部屋の片隅に置いてある。そこで寝転がらず、煙草に火を付ける。
外では光も音も全てを失う時間。
そこにあるのは煙草の微かな光と、焦がすような音、そして匂いだけである
何故だか俺はこの時間が一番、息をしやすい。