生姜と牛丼
いや、重ぇよ!
ちょっと感傷的になっていたのに、文字通りまじで重いんですけど…。
これは精神的な重さではなく、物理的な重さである。
…となれば導き出された結論は一つ。
肩でドアを開けることでやっと、冬の風に当たることが出来た。
予想外の事は、女子高生がスフィンクスのの姿勢で転んでいた事である。
クマさんパンツ!クマさんパンツ!クマさんパンツ!
色気のかけらもねぇな…。
「何するんですかぁ!?」
「それはこっちのセリフだよまじで。なんか重いと思ったからまさかと思ったが」
「仕方ないじゃないですか!疲れててもたれかかってたんですよぉ!」
「分かったから、兎に角、そのクマさんパンツでも隠したらどうだ」
階段の電灯の光があるとはいえ、千里の顔は紅潮していくのが見て取れた。
すぐに体を回転させ、上目遣いにこちらを見てくる。成程、仁王立ちでちんこを女の前に差し出す男の気持ちが分かった気がする。
くっくっく、と表情に現れないような笑みを浮かべる。
千里の顔色は相変わらず赤く染まっていた。
しかしこれは…。
「久崎さん、人に下着を見せるのは恥ずかしいことですよね」
「あたりまえだろう。立派な大人というのはその辺のエチケットには気を付けるんだよ。分かったかちーちゃん?」
ジャブとして煽ってみた。こういう所で、紳士淑女としての在り方を教育しておくことも年長者の役割であろう。
相変わらず頬を赤く染めているこの少女であるが、この表情は自恥じらいではなく…嘲笑?
「パンツを自ら晒す人ってガキですよね」
「ああ、その通り」
「チャック開いていますよ」
…これも余裕のある紳士の嗜みですよ!
点滅する、寿命が見え透けている電灯の下を上っていく。
かっかっか、という音が階段に響く。
本来、この場面においては靴の音なのだろう。
しかし、ここに爆笑しているクソガキが一人。
「あっはっはっは!!!ぃひっひっひ!!!あんな澄ました格好つけのくせにチャ、チャックを開いて、お、大人を語ってるとか…もう恥ずかしすぎて涙出ますよ」
「うっせえな…こう言うミスすら華麗に受け流すのも大人の余裕って言うやつなんだよ…」
「さっき、滅茶苦茶慌てながら股を確認していた人の言うセリフですか!?」
千里は腹に手を当てつつ、人を馬鹿にするための笑いを上げる。
こいつ…この二時間程で、俺への態度が崩れすぎじゃねぇか…?
とか言っている間に目的の場所に着いた。
喫茶店、わんコーヒーを内包するビルの三階。
ドアの前に立ちチャイムを鳴らす。
ドア越しに聞こえる、聞きなれた声が何故だか嬉しい。
ガチャリという音を立ててドアが開く。
「お疲れ様。ご飯できてるから早く入って」
この子と話す時は少し見下ろす形になってしまう。別に俺の身長も高い訳では無いが、同級生の中でも小柄であろうこの少女を相手にすると仕方がない。
ショートというには少し長く、ロングというには短すぎる、短めのセミロング。
「遅くなってすまないな」
「ううん、いいよ別に。私も勉強してたし…と、後ろの方は?」
おっちゃんと合わせた時の様に、俺の後ろで緊張している千里は、先ほどよりも確かな一歩で前に出た。
さっきまでの笑いは緊張した面持ちになり、腕を伸ばしていた。
「初めまして、山郷千里と言います。実は、今日、泊まる所が無くってここを紹介させて頂きました」
よろしくお願いします、と言う様に頭をぺこりと下げる。
「了解です!取り敢えず入ってくださいよ。温かいご飯もありますから」
俺とおっちゃんの想定通りの反応だ。
「な、言った通りだろ?だから緊張なんかすんな」
「…してませんよ、緊張なんて」
ふふん、とさっきまでの勝気な口調で返してきた。
お前、ほんとコロコロ表情変わるよな。
1LDKの室内に入ると、生姜と醤油の香りが四次元と化した腹を刺激する。
俺と千里はリビングのテーブルに掛けることにした。
有希はキッチンの冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップとともに俺たちの元へ持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「千里ちゃん、そんな緊張しなくてもいいって」
苦笑いしながら麦茶を千里の前へ差し出す。やはり千里はまだ、少し緊張しているようだった。とは言え、大分解けている良いではあったが。
「はい、怜」
俺にも麦茶を汲んでくれた。
「ありがとな」
どんな寒い日であっても、麦茶というのは旨い。
制服の上からエプロンを掛けた有希はキッチンへ戻り、鍋に火を掛ける。おっちゃんの言葉も考慮すれば今日は牛丼の日だろう。大原家の晩飯は、週二回、三回のペースで牛丼ということになっている。
うん、いつも通り最高だ。
いつになっても、この香りは四次元と化した胃袋には刺激が強すぎる。
今なら幾らでも食べられそうだ。
「有希、今日は牛丼?」
「そう、ちょっと勉強が忙しくてねぇ~。おかず作れなかった」
「男なんて米と肉があれば満足する生き物なんだよ」
「それじゃあ、健康に良くないよ。それに、今日は可愛い女の子もいるんだし」
有希が千里の方を向く。鍋はぐつぐつと音を立てていた。
「女の子に野菜は必須だよね、千里ちゃん!」
「勿論です、でも偶にはお肉だけを頬張りたい日もありますねぇ」
「そうそう分かる。駄目だ…と思いつつもポテチとか、カップ麺とか、味の濃いものを食べたい日ってあるよねぇ…」
「美味しいものは乙女の敵です…」
女子二人がうんうんと頷きあっていた。
…俺が入る隙が無い。
「店で働いているんですか?」
大分リラックスしたのだろうか、千里が有希に尋ねた。
「平日は夜の忙しい時間に三時間程入っているよ。土日も昼と夜のお客さんが多い時間帯も入ってるよ」
有希は火を止め、炊飯器を開ける。湯気がここからでも確認出来る。
「同じ高校生なのに凄いです!」
「いやぁ、大したことないよ別に。自分が好きでやっている事だし。後、同じ高校生なんだから敬語は禁止!」
「はい!」
「はい!、じゃなくて、うん!、だよ!」
「うん!」
良かったな、もう友達になったじゃんか。
「有希、手伝うよ」
俺はキッチンに向かいどんぶり用の容器を取り出した。少し高い位置に置いてあるから俺がやった方がいいだろう。
「ありがと!ご飯入れるから鍋のお肉入れてくれる?」
「オッケー」
リラックスし始めた千里もこちらへ手伝いに来た。
「私も何かやらせて」
「お客さんにそんな事させられないよ。千里ちゃんはテーブルに掛けといて!」
「じゃあ、せめて箸だけでも…」
「まぁ、働かざる者食うべからずとか言うしな。こいつなりの感謝なんだろ」
「それじゃあ、お願いしようかな。そっちの引き出しに入っているよ」
ぴしっと敬礼をし、千里も遅めの夕食の準備に取り掛かる。
「俺はスプーンでお願い。後、紅生姜と七味も」
「怜…。相変わらずふてぶてしいわね…」
「いつもこんな感じなの?」
「そうなんだよねぇ。自分で取りなさい!」
女子二人は共通の敵を見つけたようですよ!女の子って怖いヨォ…。
各自各々の仕事をこなし、三人でテーブルに掛ける。
三人で頂きますと言い、この牛丼が最高なのだ。大原家の牛丼はつゆが多めになっている。ご飯がひたひたになる位にたれを掛け、それをスプーンで頬張る。
「有希ちゃん、これ美味しい!」
興奮した様子で感想を語る。箸が止まらないとはこのことだろう。いや、まじで旨いんだよこれ…。
「ほんと!?やったー!うちの牛丼って生姜を強くしているから舌に合うか不安だったんだよね~」
「今度一緒に作ろ!」
「勿論だよ!」
…女子高生が仲睦まじくしている様子というのは最高のオカズですね!
頬張って牛丼を腹へかきこんでいると、有希が試すような声で聞いてきた。
「怜はどう?」
「まぁ、いつも通りだ」
「もっと他に無いの!?」
「…いつも通り最高だ」
二人が顔を合わせ笑う。
「久崎さん、何ですかそれ!?素直じゃないなぁ」
「いっつもこんな感じなんだよ。後、お父さんも」
むかついたが、今日は許すこととしよう。
可愛い子たちの笑顔っつうのはプライスレスだからな。
一日の延長戦ももうじき終わる。
その後も意気投合した二人は共に風呂へ向かった。トイレに行くふりをして少し耳を立てていたが、俺のチャックの話が聞こえたので、ついつい洗面所のドアを開けてしまった。そこには下着姿の女子高生が…なんてことは無く、シャツとスカートになっている二人が居た。
出てけー!という声と共に俺はベランダへ追い出された。
ポケットに入れておいた煙草を取り出す。火を付け、一息目をふかす。
旨い飯の後は旨い煙草。
ベランダの柵にもたれかかり、夜空を見上げる。今の今まで気付かなかったが今日は快晴らしい。
いつもより疲れた。でもそれは案外心地よい疲れだった。
このビルの正面の道路には、車のヘッドライトが微かに道を照らしている。
彼女の父の手紙とその差出人、俺が見つけてやるよ。
そんなことを考えながら半分まで燃え尽きた煙草を口へと運んだ。