紫の匂いと黒の酸味
裏口のドアを開くと暖かい空気を感じられた。
従業員の更衣室兼、物置になっているおよそ三畳のこのバックヤードで外套を脱いだ。
「ハンガー、これ使え」
「あ、どもです。しかし、煙草の香りが凄いですね…」
苦笑いを浮かべている。
「多分そうだろうな…」
俺にはその感覚がよく分からない。
普段から煙草を吸っているからだろう。
今更服に付いた煙草の匂いなどを嗅ぎ取ることすら出来ないのだ。これだからヤニカス君は…。
彼女を手招きしつつ、バックヤードを出るとそこは厨房になっている。畳を一枚と半分を敷き詰めた広さしかないこの厨房は、すぐ先にカウンターへと繋がっている。他の店についてはよく分からないが、そこまで珍しくもない形状だろう。
そしてカウンターを進んでいった先に、この店のマスターは座っていた。
彼は右手に煙草を抱えながら、銭勘定をしていた。
「よお、玲二。遅かったな。何だ、こっちをほったらかしてナンパでもしていたのか?」
からかうような笑顔が鬱陶しい。
マイルドセブンの苦みと甘ったるい香りが舞い散る店内には三人のみである。
銀縁の眼鏡を少し低い位置に掛けた、初老に差し掛かった紳士がこの店のオーナーである。
「ちげえよ、依頼人だ」
俺の後ろに張り付いていたこの娘は半歩前に出た。
「あの、初めまして。山郷千里と言います」
この店の店主は煙草を灰皿に置き、こちらへ歩み寄ってきた。
「私はこの店のオーナーをしている大原だ。こんな可愛いお嬢さんを連れてくるなんて、お前もやっと女に目覚めたのか」
うぜぇ…。
お前もどきまぎすんなよこのガキも…。
「可愛いってマジですか!?久崎さん!?」
「俺は言ってねぇよ…」
「それで、お嬢さんが何故ここに?」
話を進めてくれえて助かる。
「ちょっと、おっちゃんに相談があるんだ」
そうして俺はこの少女をおっちゃんの前に出す。
彼女は頭を下げて言った。
「あ、あの、今晩家に泊めてください」
どうやら、想定外の要件だったらしい。
「えっと、玲二。状況を説明してくれ」
俺たちは店の四人掛けの席に座って話していた。
奥に山郷さんを座らせ、その横に俺、そして反対側におっちゃんが座る。
おっちゃんと山郷さんはブラックのブレンドコーヒー、俺はアイスコーヒーと牛乳を4対6で割り、そこに致死量のシロップをぶち込んだコーヒー牛乳を飲んでいた。
「お嬢ちゃん、勝手にコーヒーにしたが飲めるかい?」
「とても好きです。というかさっきも思いましたけれど、久崎さんってコーヒー飲めないんですか?紅茶に激甘コーヒー牛乳って…」
「うるせえよ、苦いものが苦手なんだよ。ほら、苦手の苦ってそういうことだろ?つまり苦しみなんだよ。あんなものを平気で飲める方がおかしいね」
いいのだ、俺はこの甘々コーヒー牛乳で。
「雰囲気だけは一丁前なんだが、実際はこんなポンコツなんだよこいつは」
「へぇ…。なんだかちょっと可愛いですね。ツンツンしてるのに中身はまだまだおこちゃまなんて」
…俺の悪口で二人が盛り上がってますね。
ツンツンしているのは君たちの言葉ですよ!
どうせ俺はこの年で、お子様セットのデザートのゼリーに舌なめずりしてますよ!
「さて、改めてどういう状況か、教えてくれるかな」
俺は事務所で起きたことを話した。
まぁ、起きたというよりただの会話だった訳だが…。
起きたことは俺のシャツがJKの唾液まみれになった事だけですね!
「おう、じゃあ有希と同じ部屋を使ってくれい!」
何だよその語尾、大工の源さんでしか聞いたこと無いぞ。
とは言え、案の定というか、予想通りの返事とその速さだな。
この場において戸惑っているのはこの少女だけだった。
「あ、え、いいんですか?そんな簡単に…?」
「ああいいよいいよ。通帳を盗むとかトイレットペーパーを使い切るとかの嫌がらせをしなければな!」
このおっさんにとって、通帳を盗まれることと、トイレットペーパーを使い切られることは同じ程度の事らしい。お前は中学生男子かよ。
思い出すなぁ…。中坊時代、シコってたらティッシュが無くなってリビングにあった花瓶に注いだのを…。時代が違えば、牛乳を注ぐ女の代わりのモデルになったであろう。
因みに、その花瓶に入れていた植物は規格外のサイズに成長した。
そんな何の生産性も無い事を考えている一方でお二人は話を進めていた。
「有希さんという方への許可は大丈夫なんですか?」
「有希は俺の娘だよ。あいつなら俺以上の速さでオッケー出すだろうよ」
有希、というのはこのオーナーの娘である。
あの娘の事なら確かに納得である。
「有希は君とタメで17歳」
「本当ですか!?」
「仲良く出来るよ、きっと」
まぁ、知らんけど!
とは言え実際、あの娘なら仲良く出来るだろうとも思える。
えへへと笑うこの少女を見ると安心する。
「仲良くできると、嬉しいです」
おっちゃんの口角から紫煙がこぼれた。
きっと俺も同じだったと思う。
「このお店ってコーヒーとか紅茶だけじゃなく、普通の料理もあるんですねぇ」
男どもがコーヒー(二名)とコーヒー牛乳(ガキ一名)を汲みに行っている間、この娘はメニュー表をまじまじと見つめていた。
「お嬢さん、見る目あるねぇ。この店の名物は牛丼なんだよ」
「へぇ…。美味しそうですねぇ…」
相変わらずメニューを見つめている。
この店は牛丼以外にも様々な…と言えば大げさになるか。
牛丼屋かと思うようなスナックがこの店には並んでいる。
いや、最早スナックとも言えないか。
牛丼、カレー、かつ丼…等々。
喫茶店といえども侮るなかれ。これがかなり旨い。
特に土日のこれらは飛びぬけている。
理由は明確、有希が作っているからだ。
流石です我らがママ。
「今度食べに来てもいいですか?」
それは丁度いいな。
「なぁ、腹減っているか?」
「乙女にそういうことを聞かないで下さいよ!」
「お嬢さん、有希が多分飯を作って置いてくれてるから食べな」
有希が作って置いた飯が我々の胃袋を支えている。
満面の笑み、それだけで会話は充分である。
「やったー!」
煙草を吸いきってコーヒー(牛乳)も飲み終えた。
俺も腹が減っていた。正直、一刻も早くおっちゃんの家に行きたかったが一名、ちびちびとコーヒー(純正)を飲んでいる女が居た。
さっきまでの前言を撤回しよう。
「おい、はよ飲め。こっちは腹が減ってるんだよ」
「仕方ないじゃないですか!どこかの誰かさんのせいで舌を火傷しているんですよ!」
「あ?あれ、俺のせいなの?まぁ、何でもいいけど請求書にシャツ代載せておくわ」
「ごめんなさいいいい」
俺は過去の恨みを忘れない男なんだ。覚えておいてくれよな!
とっとと出ていこうと考えていた、俺はおっちゃんに呼び止められた。
「先行っておいてくれ。すぐ行く」
「了解です!」
びしっと敬礼。良い返事である。
しかし、彼女の言葉は続いた。
「あ、後、今日はありがとうございました。こんな風に笑って過ごしたのは久しぶりです、楽しかったです!今後もよろしくっていう感じなので、千里って呼んでくださいね。久崎さんもね」
俺はついでかよ…。別にいいけどさ。
「またすぐ行くよ。千里ちゃん。有希と仲良くやってくれよ」
はいっ!、と返事をしてバックヤードに消えていった。
金属製のドアが軋む音が聞こえ、この店は二人きりになった。
夜の沈黙に飲まれた。
「なんと言うか、行動力が凄い子だったな」
「確かにな」
千里を待たせているのを理解しつつ、煙草に火を付けた。
そうしなければならない気がした。
「なんせお前の所なんかに来るくらいだからな」
皮肉っぽい笑顔を向けられるが、不思議と腹が立たない。
「残念ながら同意だよ。何でこんな弱小探偵なんかにな」
紫煙を吐き出しながら答える。
少しの間。
今この一瞬だけは、この間が重く感じられた。
「…総ちゃんの事故、まだ調べているのか?」
俺は何も答えない。
カウンターに入り、バックヤードを目指す。
俺がこの仕事をしている理由、親父の後を継いだ理由。
「ああ、それしかないんだよ、俺には」
何故か飲めさえしないコーヒーが恋しくなった。
煙草の香りがこの瞬間だけは鼻腔を刺激した。コーヒーの苦みと酸味の香りを後にバックヤードのドアを開けた。
ドアは入った時よりも重く感じられた。