1992年12月1日 事務所にて
頬を切り裂くこの冬の風は、夏の日差しの様に眠気を醒ました。
けれども見上げた空は日差しを覆い隠し、俺の意識を再び沈めていく。
足元には昨日の夕刊が、一日の終わりを告げるようにその役目を果たしていた。
1992年11月31日。
冬風はとうとう12月を連れてきたらしい。
今では色褪せてしまった亜麻色の右コートに手を入れ、既に半分も無くなったラッキーストライクを取り出す。こんな寒い季節にソフトの煙草は非常に合う。
右手に握りしめたソフトパッケージの煙草の上部を左手の人差し指と中指で叩きつける。
手を握る、手を開けるという行為が省略されるのはボックスタイプにはない利点である。
ポケットに入れているとはいえ、手のひらをこんな寒さに晒したくはない。
飛び出してきた煙草を口にくわえ、左ポケットから取り出したジッポライターで火を付けた。
煙草を口に咥えたまま、左手を再びポケットに突っ込み、先ほど買った缶のカフェオレで温めることにした。
一仕事を終えた後の煙草というものは旨い。
事務所まではもう五分も掛からないはずだがカフェオレを飲むことにした。
こんな寒さの中、いつもより歩幅を小さく、そして、左手を缶で、右手を煙草で塞いでいると疲れという物もいささか紛れてしまう。
歩いてる歩道の右手には、疲れ切ったサラリーマンの嘆きを代弁するかのようないびきを響かせながら、車が走り去っていく。
誰もかれも疲れているのだろう。いびきは一台のみから聞こえたわけではない。
俺も疲れていた。こんな時間まで仕事があったのは久しぶりだ。
煙草を半分吸ったところで俺の事務所に戻ってきた。
久崎探偵事務所は目の前の草臥れたビルの3階にある。
寂しいポストを確認しビルの階段を上っていく。
普段と何も変わらない仕事、そしてポストとこのビル。
一つだけいつもと違うことがあるとするならば、事務所の前で、一人の少女が壁にもたれかかった様に眠っていたことだけだろう。
この時間の訪問者というのは大概やっかいな人種である。
ヤクザか警察、酒飲みか浮浪者。
しかしこの少女はこれらのいずれにも当てはまらないだろう。
兎も角である、こんな時間に訪ねてくる人間に関わって碌な目に合うはずもない。
という訳で、俺はその少女を無視してゆっくり玄関ドアを開けた。
かすかにドアの軋む音が、真夜中の雑踏の中にも響いた。
「何で無視するんですか…?」
もしかしたらずっと起きていたのかもしれない、それとも今、目を覚ましたのかもしれない。
どちらにせよ、少女は座ったまま、こちらを見上げていた。
「風俗嬢をここに呼んだ記憶は無いのだが」
「いかがわしいお店ではありませんよぉ…」
「じゃあ尚の事帰った帰った。営業時間は過ぎているんでね。ホテルを探しているなら他を当たってくれ」
「いやぁ、そうじゃないんですよぉ…」
肩までかかるその黒髪を指先で転がしながら、困った様に返事をされた。
改めて彼女を観察してみた。
階段に灯る、かすかな光に映し出された少女は制服姿だった。
一般的なセーラー服ではあるが、胸に刺繍されている校章を見る限り、このあたりの学校という訳では無さそうだ。
相変わらず困った表情を浮かべるその顔には、どこか幼さを残している。
しかし、そのくっきりとした目からは、同時に少女からの脱却への意思を感じざるを得なかった。整った顔立ちの女性は多く知っているが、こう言った種類の女性は初めてだ。
そんなどうしようもないが彼女への最初の印象であった。
だが、こんな時間にやって来る顔の良い女など美人局か、怪しいサービス以外に無い。
大日本帝国憲法にも書いてあった気がするな…。
関わるのはよしておこう。
「まぁ、なんだ。寒いだろ。風邪ひかないように一晩寝るんだぞ。床もコンクリートだし体には気を付けろよ。一流のホームレスかどうかは、その睡眠の質で決まるらしいぞ」
「あ、ありがとうございま…、ってこんな時間に乙女を外に放置する気なんですか!?」
当たり前だろう。怪しいもん。翌日の小学校で不審者注意という警告が出されるくらいには。
「この事務所、狭いもんでね。おそらく外の方が快適だよ」
話している最中に灰と化した煙草を地面に押し付ける。
腰を落とし彼女の視線の高さに顔を持っていく。
「大丈夫。これくらいだったら死なねぇよ。…多分」
「普通だったら、部屋に上げて、コーヒーの一杯くらい出してくれますよねぇ!?」
「生憎、そこまでのホスピタリティは持ち合わせてないんだよ」
「いいじゃないですかぁ、ちょっとくらい入れてくれても。ちょっと、ほんの先っちょだけで人助けと思って」
この娘は何という言い方をするんだ。というか一々声がでけぇ…。下の階のタバコ屋のばあさんに聞かれたら勘違いされそうな言い方だ。
「声がでけぇよ…。今何時だと思ってんだ?12時半だぞ?」
「尚の事、乙女を外にほっぽりだす男がどこにいるんですか」
はい、ここにいます。
「いや、俺も疲れてるんだよ…。さぁ、帰った帰った。嫌だったらビルの外で寝てろ。ここは邪魔だ」
「私だって凄く寒かったんですよ。お願いします!ちょっとでいいので!何時間も待っていたんですよ!」
こんなやり取りを10分はしていただろうか。
先に折れたのは俺の方だった。
特に理由は無い。
まぁ元々、本気で野宿させるつもりも無かった。
意味のないやり取りに飽きただけというだけのことだ。
同情したわけでも、ここで待っていた理由を聞きたかった訳でもない。
それに、ただ眠かった。
溜息を付きつつ、先ほど指から落とした吸殻を拾いながら腰を上げた。
「俺の睡眠を邪魔するなよ。人様に迷惑を掛けても怒らねぇが、俺の睡眠を邪魔することだけは絶対に許さない」
「りょーかいです!」
俺は彼女を事務所に入れた。壁に付いている電気のスイッチを押した。
光がこの部屋を灯した。
地面に座っていたときには見えにくかったが、事務所内の光に照らされた、彼女の表情は、俺の眠気を幾分か吹き飛ばした。
「何か飲むか?」
入口ドア、すぐ手前にある来客用のソファーに少女を座らせ、俺は奥の部屋に進んだ。
事務所とキッチンを備え付けてある奥の空間を、暖簾一枚で隔てていることもあり、俺の声はよく響いた。
「あ、お構いなくです。しいて言うならホットのレモンティーでお願いします。一応ミルクも付けて欲しいな~とか思ってます」
このクソガキィ…。何がお構いなくだよ。日本語知らねぇなら国に帰らすぞ。
「レモンなんてねぇよ。ここには安いコーヒー豆か、俺が趣味で買った茶葉しか無い。まぁでも、今日はサービスして差し上げよう」
「おぉ!これまでの態度と反して太っ腹ですね!どこの茶葉ですか?インドですか、スリランカ?」
「近所の公園で、浮浪者のおっさんが吐いたゲロを養分に育った雑草だな」
「優しいところもあるんだと感心した私が馬鹿でした」
結構落ち込んでるのを見て笑ってしまう。
紅茶を沸騰直前で沸かし、ポットに入れた。
ピッチャーにフレッシュを注ぎ、彼女の座っているソファーの前の応接机に置き、俺も向かい合うソファーに座る。
「ありがとうございます!いやぁ、なんだかんだ優しいところもあるじゃないですか。何ですか、ツンデレっていうやつですか?」
「まじでしばくぞ」
「すいません…」
彼女はちょっとしょんぼりした雰囲気を示す。
俺はこの少女に聞かなければならないことがあった。
「まず名前を教えてくれ。そして何の用でここに来たのか。家出の手伝いだとかほざいたら摘まみだすからな」
「いやぁ、そんなんじゃ無いですけどねぇ」
それを聞いて安心した。未成年者誘拐なぞしょうもないことでブタ箱入りは勘弁だ。とは言え、今こうして夜中に少女を事務所に連れ込んでるのもかなりグレーゾーンなのだろうが…。
「自己紹介が遅れましたね。私は山郷千里。膳山高校の2年生です」
ふむ、通りで見たことの無い制服なわけだ。隣県の偏差値の高いところだったように記憶している。
「なるほど。いい学校に通っているようだ。それでそんな秀才ちゃんが何の用かな?受験相談は専門外なのだが」
「いえ、受験の事は関係ないんです」
「なら、なおさらこんな場所は、君の来るべき場所ではない気がするんだがどうだろう」
少し間があった。一瞬、彼女は顔を落とした。
そして上げたその顔には、先ほどまでの幼い笑い顔は無かった。
「先日、父が亡くなりました」
言葉に詰まったようだが、言葉を一つ一つ選ぶように再び語りだした。
「母も数年前に亡くなっています。それに、私を育ててくれた両親は実の親ではありません。頼るべき身内も、もうどこにも居ないです。天涯孤独と言う奴ですかね」
寂しそうに笑ったその表情に、俺は何も言えなかった。
俺にはその気持ちが分かる。
「なるほどな。それはなんというか、ご愁傷様としか言えないな」
「いえ、突然こんなことを言われても困りますよね。こちらこそすいませんです」
「まぁ、事情は分かった。それで俺に何を調べてほしいんだ?親父さんの死におかしなところでもあったのか?」
「いえ、父は末期の癌でした。両親が私を引き取ってくれたのも高齢になっての事でしたから、納得しないといけないとも思ってます。依頼というのは、その…」
間があった。
俺は静かに彼女の言葉を待っていた。
「父が最後に書いていた手紙の差出人が誰だったのかを知りたいのです」
改めて考える。
これが全ての始まりだったんだろうか。
いや、そんな訳はない。それは俺が一番理解している。
全てはもっと前から始まっていた。
今年の12月の寒さは、あの日とは比べものにならないほど厳しい。
いや、きっと何も変わりはしないのだろう。
きっと誰もがこうつぶやいている。
「今年の冬も寒い」
今では煙草の一本も自由に吸えない身だ。
満足に寝る事すら出来ない。
つくづく、事務所のおんぼろのソファーが恋しくなる。
しかし、今の俺にできることは一つしかない。
固く、冷えた、死体のような床の上で、今日も俺は寝そべるだけだ。