第七章 石に刻む誓い
学院の空気が変わった。
最終学年への進級とともに、これまでの穏やかで規則正しい学びの場は、突如として熱気を孕んだ戦場のようになった。
長い歴史を誇るエーデルシュタイン貴族学校では、卒業を迎える者に最後の試練が課される。それが、「卒業試験」 だった。試験内容は毎年変更される。
今年の試験内容が掲示された───
「原石の仕入れ・鑑定・加工・販売、そしてプレゼンテーションを行い、その一連の流れをもって合格とする」
ただの筆記や実技ではない。市場に通用するかどうか、実際に貴族たちの商業の中で戦えるかどうかが試される実践型の課題だ。
適切な原石を選び、それを最高の状態に仕上げ、しかるべき相手に売り、その価値を証明する。
それを達成して初めて、貴族学校の卒業資格を得ることができる。
すべてを自らの手でやり遂げよ。
その言葉に相応しい試験だった。
学院内は、活気に満ちていた。
廊下では生徒たちが仕入れ先の情報を交換し、工房では試験に備えて研磨技術を磨く者が増えた。図書館では貴族たちの好む宝石の流行の歴史を調べるために、分厚い記録をめくる音が絶えない。流行は繰り返すからだ。
(ついに、ここまで来たのね)
アルシアは教室の窓辺に立ち、いつもよりざわつく学院の様子を眺めていた。
初めてここへ来たとき、何の自信も持てず、ただ「居場所がない」と感じていたあの日。
そんな自分が今、目の前の試験に取り組もうとしている。
「お前、集中しろよ」
ぼそりと隣で呟かれ、振り向くとフィオレンが肘をついてこちらを見ていた。
「……ええ、もちろん」
「まあ、お前なら大丈夫だろ」
何気ない言葉だった。
だが、それだけで胸の奥が熱くなる。
ずっと信じてもらえなかった自分を、最初から「磨けば光る」と言ってくれた彼。
その存在が、どれだけ支えになったことか。
アルシアは小さく頷き、ルーペを手に取った。
今年の卒業試験は、誰よりも誇れる結果を残す。
それが、今の自分にできる最高の恩返しだと思った。
───しかし、その活気に満ちた学院の片隅で、密やかな不安が囁かれ始めていた。
「公王の体調がすぐれないらしい」
最初は単なる噂だった。だが、次第にそれは確信へと変わりつつあった。
王家関係の貴族たちは妙に忙しそうで、特に生徒自治会長であり、公爵家の長男でもある次期王太子は以前にも増して学院で姿を見せなくなった。
「王位継承の準備が進んでいるらしい」
そんな言葉が、貴族たちの間で広まる。
だが、それが公王の病によるものなのか、それとも別の理由なのか——その核心を知る者はまだいない。
何かが変わり始めている。
学院のざわめきの中、アルシアとフィオレンはただ目の前の試験に集中していた。
卒業試験のペアは、特別な事情があれば変更も可能だった。
だが、二人にとってはそんな選択肢は考えるまでもないことだった。
「当然のように、このまま組む」
一年生の時から共に学び、技を磨き合い、いつしか息を合わせることが自然になっていた。
互いの癖や考え方も把握していて、試験を共に乗り越える相手としては最適だった。
——そのはずだった。
それが単なる試験のペア以上の意味を持っていることに、二人はまだ気づいていなかった。
自分が選んだのではなく、「当然そうするものだと思っていた」。
だが、それこそが、すでに相手を「共に未来を創る相手」として無意識に認識している証拠だった。
そんなことには気づかないまま、学院の庭で並んで腰掛け、原石の仕入れについて相談していたとき、アルシアがふと思い出したように言った。
「そういえば……フィオレンの家の皆さん、お元気?」
何気ない一言だった。
これまで何度か彼の家に招かれ、温かな食卓を囲んできたからこそ、ふと口をついて出た。
フィオレンは少し考えてから、「ああ、まあ……」と曖昧に頷いた。
「親父がさ、変な石を拾ったらしくてな。あの人、昔から妙な鉱石を見つけては持ち帰る癖があるんだけど……今回は特に厄介みたいで、みんな振り回されてる」
「へえ……どんな石なの?」
「それが、よくわからん。親父は『特別な石だ』って言ってるけど、俺はまだ見てないし……まあ、また何か変なことに首を突っ込んでるんじゃないかって気がするな」
「フィオレンのお父さん、冒険心があるのね」
フィオレンの言葉に、アルシアはふと笑った。
何気ない家族の話。何気ないやりとり。
この時はまだ、何も疑うことなく聞き流していた。
けれど、フィオレンの父が拾ったその「変な石」は、
実は公爵家の中で大騒ぎを巻き起こしていた。
失われた伝説の宝玉に代わるものとして、
ある者はそれを「救い」だと囁き、
またある者は、それが何を意味するのか恐れていた。
けれど、そんなことを知る由もなく、
アルシアとフィオレンはただ、卒業試験のことだけを考えていた。
〜 〜 〜 〜 〜
その夜、アルシアはなぜか寝つけなかった。
月の光が窓辺に差し込み、机の上に置いた原石の影を長く伸ばしている。
フィオレンと一緒に練習をした時に見え始めた宝石部分がキラキラと月の光を反射している。
机に頬杖をつきながら、ぼんやりとそれを見つめた。
——自分にとっての、この試験の意味は何だろう?
単に学院を卒業するための課題?
貴族として必要な技術を証明するため?
それだけじゃない。
この試験は、自分がこれまで学んできたすべてのこと、
そしてフィオレンが教えてくれたことを、形にする機会だ。
だから、絶対にやり遂げる。
この石に、すべてを刻むように——
アルシアは静かにルーペを手に取り、原石を覗き込んだ。
それは、まだ磨かれる前の、不格好で、不完全な姿をしていた。
でも——
「この石、磨けば光るって信じてみろよ」
かつてフィオレンに言われた言葉が、耳の奥に蘇る。
その言葉を思い出しながら、アルシアはゆっくりと、原石に触れた。
指先に伝わる、冷たい感触。
(私も、この石と同じなのかもしれない)
磨かれることで、初めて輝きを得る。
ならば——
私は、どこまで輝けるのだろう?




