第六章 ディヴァリウス家の晩餐
馬車の車輪が砂利道を踏みしめる音が響く。長い並木道の先、木々の間から徐々に壮麗な屋敷が姿を現した。
アルシアは窓の外を眺めながら、そっと息をのんだ。
(大きい……それに、華美じゃないのに威厳がある)
広大な庭には、手入れの行き届いた樹々が並び、秋の風にそよぐ。紅葉し始めた葉が陽の光を浴び、黄金色に輝いている。貴族らしい荘厳な造りでありながら、どこか穏やかで温かな雰囲気を感じさせた。
アルシアの実家、ディヴァリウス侯爵家も格式のある家だ。しかし、そこにはこんな温もりはなかった。
(ここは……お家、なのね)
門をくぐると、すぐに屋敷の扉が開き、待ち構えていたかのように賑やかな声が飛び込んできた。
「フィオレン! そして、君がアルシア嬢だね!」
「ようこそ、ストラーヴェ侯爵家へ!」
次々に現れる家族たち。
若い男性が何人か、年の近い姉妹らしき少女たち、そして優しげな夫人が微笑んでいた。
(家族が……こんなにいるの?)
「お、お邪魔します……」
戸惑いながら挨拶すると、フィオレンの母親が優しく手を取った。
「遠慮しないで。フィオレンが『大切な友人』を連れてくるなんて、私たちも嬉しいのよ」
「母上、余計なことは言わなくていい」
「まぁまぁ、あなたったら照れてるの?」
フィオレンが咳払いして誤魔化すのを見て、アルシアは思わず小さく笑った。
(こんなやりとり……私の家では、ありえない)
〜 〜 〜 〜 〜
屋敷の中に案内されると、すでに食卓には見たこともない料理がずらりと並んでいた。
ダイニングホールの中央には長い木製のテーブルが置かれ、揺れる燭台の灯りが食器や料理を優しく照らしている。温かなスープの香りや、焼きたてのパンの匂いがふわりと鼻をくすぐり、アルシアは無意識に喉を鳴らした。
「これは山の恵みを使ったシチュー、こっちは特産のハーブを練り込んだパン、それから——」
「これは肉にナッツと果物を詰めて焼いたものよ。甘さと香ばしさが絶妙なの」
「こっちは漁村から仕入れた塩漬けの魚を使ったパイだぞ!」
次々と説明される料理に、アルシアは目を瞬かせるばかりだった。
(知らない料理ばかり……)
フィオレンが手際よく皿に料理を取り分けながら、何気なく言った。
「好きなものを食べればいい。ここでは、誰もお前を咎めたりしない」
その言葉に、アルシアはスプーンを握る手を少しだけ強くした。
(……私の家では、何を食べるかも細かく決められていた)
食事は必要最低限。嗜好は許されず、静かに食べるのが当たり前だった。会話のない食卓、黙々と口に運ぶだけの食事。
(楽しい……こんなに賑やかな食卓、初めて……)
料理を口に運ぶと、味覚が初めての感覚に包まれた。
「美味しい……」
ぽつりと漏れた言葉に、フィオレンの母親が微笑む。
「よかった。どんどん食べてね」
周りの家族たちも、当たり前のように「たくさん食べてね」と声をかけてくれる。
温かい。
賑やかで、活気に満ちていて、みんなが笑顔で——
気づけば、目元が熱くなっていた。
(……楽しいのに、なんで涙が出るの?)
ふと、視線を感じた。
フィオレンが、じっとアルシアを見つめていた。
「……泣くなら、せめて食べながらにしろよ」
「えっ……」
慌てて手で拭うと、彼は軽く笑った。
「泣きながら飯を食うのは、案外うまいぞ」
「そんなの……見たことない」
「俺はある。腹が減ってる時ってのは、何よりも食うことが大事だからな」
アルシアは、小さく息を吸い込んで——
「……ありがとう」
そう言って、スプーンを握り直した。
(こんな場所があるなんて、知らなかった)
(こんな家族がいるなんて、知らなかった)
〜 〜 〜 〜 〜
食後、少し休憩していると、フィオレンが庭に誘った。
庭は秋の夜風に包まれ、月明かりが穏やかに敷石を照らしている。
「この家、どうだった?」
「……とても、温かい場所ね」
フィオレンは少しだけ遠くを見た。
「俺は、こういう家に生まれたからな。家族に愛されて、支え合って生きてきた」
彼の横顔を見ながら、アルシアはふと口を開く。
「……羨ましいわ」
「そうか?」
「ええ。私は……家族に愛された記憶が、ほとんどないから」
静かな夜風が、二人の間を吹き抜けた。
「でも——」
アルシアはゆっくりと微笑んだ。
「今日は、すごく楽しかった」
「……そうか」
フィオレンはふっと笑い、アルシアの髪を軽くくしゃっと撫でた。
(……やっぱり、この人の家ではこういうのが普通なのかしら)
アルシアは一瞬そんなことを考えかけたが——次の瞬間、フィオレンの指がゆっくりと髪をすくうように撫でたのを感じ、動きを止めた。
(……あれ?)
くしゃっと乱暴に触れられたわけじゃない。
それはまるで、繊細な宝石を扱うような優しい動作だった。
「俺の家は、お前を歓迎する」
低く落ち着いた声だった。
「……」
「でも——それだけじゃない」
フィオレンの指先が、そっとアルシアの頬にかかった髪を払った。
「俺自身が、お前をここに連れてきたかった」
今までのフィオレンとは違う、真っ直ぐな言葉だった。
(……どういう、意味?)
アルシアは、胸の奥が静かに波打つのを感じながら、彼を見つめ返した。
夜空には、澄んだ秋の星が瞬いていた。




