第三章 光を孕む石
翌朝、工房へ向かう道を歩きながら、アルシアはそっと手のひらを開いた。そこには、入学式の日に受け取った未加工の石が転がっている。陽の光を浴びてもうっすらと鈍い輝きを放つだけで、周りの整った宝石たちとは比べ物にならない。
(……磨けば光るって、本当に?)
昨日、フィオレンに言われた言葉がまだ頭の中に残っている。曇った水面のようなその石に、彼女は指でそっと触れた。どこか冷たく、無機質な感触。けれど、それが手の中でたしかに存在しているのを感じると、妙に心が落ち着く。
工房に近づくにつれ、冷えた空気が肌を撫でた。普段なら、昼間の授業で生徒たちが出入りするこの場所も、今は人影がまばらだ。朝日が差し込む工房の扉を開けると、わずかに石粉の香りが漂ってきた。
(こんなところに、自分から来るなんて——)
戸惑いながらも、奥へ進む。そこにいたのは、すでに道具を揃え、研磨台の前で待っていたフィオレンだった。
「来たな」
「ええ……」
フィオレンは工房の窓を開けて、朝の光を取り込む。風が入り込み、彼の黒髪をわずかに揺らした。
「この光の角度なら、お前の石の本来の色がよく見えるはずだ」
彼はそう言うと、テーブルに広げた研磨用の道具を示した。
「俺の家系は原石を見極める側だから、磨くのは専門じゃない。でも基本は知ってる。まずは、工程を知ることから始めよう」
テーブルの上には、さまざまな研磨器具が並べられている。粗削り用の砥石、細かな研磨用の布、磨き粉……一つ一つに役割があるのだろう。
「研磨には、大きく分けて四つの段階がある。まず、荒削り。石の形を整えるために、粗い砥石で不要な部分を削る。けどな、削りすぎると価値を損なう」
「削りすぎると……?」
「そう。宝石の価値は、輝きと光の屈折によって決まる。削りすぎると、光の入り方が変わってしまって、元の良さが台無しになることもある」
アルシアはそっと石を握りしめた。彼女の手の中のそれは、どこか頼りない質感で、果たして本当に輝きを持つのかすら疑わしく思えた。
「それから、成形。形を整えながら、角度を計算して削る。ファセットカットにするか、それとも丸みを帯びたカボションカットにするか……石の個性によって最適な形がある」
「個性……」
「そう。石によって、磨かれるべき方向が違うんだ」
フィオレンは手元の小さなルーペを取り出し、アルシアの石を覗き込んだ。
「この石は、カボションカットが合いそうだな。無理に角を作るより、自然な形を活かしたほうが美しくなる」
アルシアは彼の指示に従い、慎重に砥石を手に取った。フィオレンが示した通り、石の流れに沿ってゆっくりと削っていく。力を入れすぎると砥石が滑る。逆に弱すぎると何も変わらない。
(削る、でも削りすぎない……)
難しい。手元の感覚を研ぎ澄ませる必要があった。
「次は、研磨。傷を取り除き、表面を滑らかにする段階だ」
フィオレンは研磨布を持ち上げ、アルシアの手元にそっと添えた。彼の指がわずかに触れる。弾かれるように顔を上げると、彼はまっすぐに石を見つめていた。
「ゆっくり、均等に力を入れてみろ」
アルシアは彼の言葉通りに、布を優しく石に当てた。滑らせるたびに、石の表面が少しずつ光を帯びていくのがわかる。
(……傷が消えていく)
まるで、石そのものが自分の力で輝きを取り戻そうとしているようだった。
「最後に、ポリッシング。微細な粒子を使って、仕上げをする。ここまでくると、石は本来の光を放つ」
フィオレンが見守る中、アルシアは最後の仕上げに取りかかった。指先に少し力を込めながら、優しく表面を磨いていく。削りすぎることなく、しかし確実に光を引き出していく。
(この石は、もともと光る力を持っていたんだ……)
削る手を止め、石をそっと持ち上げる。
光が差し込んだ瞬間——
鈍く曇っていたそれが、一筋の輝きを返した。
(ただ、輝きを引き出す機会がなかっただけなんだ)
「……お前が磨いたから光ったんじゃない」
フィオレンがぽつりと言った。
「この石は、もともと光る力を持ってたんだ。お前もな」
「え……?」
アルシアは驚いて顔を上げた。フィオレンは静かに微笑んでいた。
「お前も、ただ機会がなかっただけだろ」
アルシアは言葉を失った。長い間、自分は未熟で、何もできない存在だと思っていた。けれど——
(私も、磨けば光るの……?)
「よし。じゃあこの石はここまでにして、次は難易度の低い別の石でも試してみるか」
フィオレンが立ち上がる。
アルシアは自分の手の中の石をもう一度見つめ、そっと微笑んだ。
——価値があるのかもわからないものを、信じて磨く覚悟。
それが、彼女の最初の一歩だった。




