お試し期間?.4
こちらにて一章は終了となります!
では、お楽しみ下さい。
山際の住宅街に立つ、私のアパート。アパートとは言っても、二階建ての家がくっついて何軒か建っているような感じで、よくあるアパートの一室とは違った。
「お邪魔します」
「はいはい、どうぞー」
玄関は人が二人で立つのがやっとといった広さ。身長のある夜重と並んでその空間に入ると、どうもこう…スレンダーのくせに圧迫感がある。顔が良いせいだ。
私は冗談ぐらいの感覚で、至近距離から夜重を睨み上げた。すると、いつもは小馬鹿にした眼差しを向けてくる夜重が、今日は大人しく、すっと目を逸らした。
あれ…?おかしいな。これじゃあ、私がいちゃもんふっかけただけじゃん。
「どうしたの、早く上がりなさい」
「いや、それは私の台詞…――っと」
夜重のことを気にしながら靴を脱いでいると、不覚にもふらついてしまった。とはいえ、壁もすぐそばにあるから、私は自然な流れで片手を壁につこうとしたのだが…。
「祈里」
短く、美しい音色で私の名前が紡がれる。同時に、夜重の白く冷たい指が私の体をぎゅっと支えた。
抱き抱えられるような形で、私は夜重と見つめ合った。
銀河を彷彿とさせる、夜重の黒目がちな瞳。闇を侍らす黒髪からは甘い香りがしていて、私は、それだけでごくりと息を飲んでしまった。
「あ、ありがと」
そう言うだけで精一杯だ。私が間抜けなんじゃない。夜重が綺麗すぎるのが悪い。
「も、う、大丈夫だよ」
「…ええ、気をつけなさい」
そっと解放される体。なんだか少しだけ残念な気持ちになるのは、きっと勘違いに決まっている。
私は背中に変な汗をかいた状態でリビングを通り、狭い階段を使って二階へ上がった。ベランダがあるのが私の部屋だ。反対側はお母さんの部屋になっているが、お母さんは夜中にならないと帰って来ない。
私はベランダに干されていた洗濯物を取り込み、ベッドへと放り投げた。梅雨前の暖かな陽光に照らされて、洗濯物は良い匂いに包まれている。
「…偉いわね、いつも」
「え?なにが?」
「家のこと。料理・洗濯・掃除…全部、祈里がいつもやっているでしょう」
「んー、よく言われるけど、私はそれが普通だしなぁ。偉いとか、分かんないや」
ヘラヘラと笑ってみせれば、夜重は眩しそうに目を細めた。
別にカッコつけて言った言葉ではない。
女手一人で私を育て上げてくれているお母さんのため、家事の大半は私が受け持つ。家事は大変だが嫌いではなかったし、本当に偉いのは、夜遅くまで働いているお母さんのほうだと思っている。
「祈里、その…」
夜重は私が洗濯物を畳み始めると、手伝おうかと逡巡している様子を見せた。そのため、私はそれをやんわりと制する。
「大丈夫、夜重はそこでのんびりしてて」
前に一度、夜重に洗濯物を畳むのを手伝ってもらったら、どれもぐちゃぐちゃになったことがあるし…まぁ、私の家のこと、夜重に手伝わせるのもなんか変な話だよね。
「私は家のことなんて、ほとんどしないわ。母がご飯を作ってくれていても、本を読んでいるか勉強しているかだもの」
「偉いじゃん、勉強。ってか、夜重のところがそれでいいなら、別に問題ないんじゃない?」
「そうかしら」
「そうだよ。みんな、生きてる場所が違うんだから、当然生き方も違うでしょ」
段々と色褪せ始めたキャラ物のタオルに哀愁を感じていると、夜重の視線を感じて私は顔を上げた。そこには、どこか感心したような雰囲気があったから、私は急にむず痒くなって話題を変えた。
「――で?莉音くん…じゃなかった、莉音と会うなって、どゆこと」
その瞬間、夜重の表情にいつもの…いや、それ以上の鋭さが宿った。
「どうもこうもないわ。お試しだなんだとかについて、会って返事をするまでもないということよ」
「いやいや、なんで夜重がそれを決めるの」
私は呆れた声でそう尋ねつつ、下着を畳もうとしたが…夜重に子どもっぽい下着だと思われたくなくて、そっと後回しにする。
そうして、長い沈黙が訪れた。さすがの夜重も正論だと思って引き下がったのだと思ったのだが、続く言葉に、そうではないのだと知る。
「…だったら、祈里は本気で、同性を恋愛対象として見られるのか知りたいのかしら」
「うっ…」
確かに、それは大事な点だ。
女の子同士…うぅん、どうなんだろう。
「さぁ…どうでしょう…」
あ、これはどうせ怒られる。
案の定、夜重は語気を強めて私に言った。
「呆れた、何も考えていないのね。貴方らしい醜態だわ」
「そ、そんなに言わなくても…」
さっきまで私を褒めていた夜重はどこに行ったんだろう。
夜重は部屋の中央に置かれた座布団の上に座っていたのだが、ややあって立ち上がり、洗濯物を畳み続けている私の前にやってきた。
美しい姿勢で正座した彼女は、とても凛としていて、そして、とても真剣な面持ちをしていた。
「祈里」
「は、はい」
「そういう半端な態度は、あの人にも失礼よ」
「ぐぅ」
ぐうの音も出ない正論だ。いや、出たけど。
「で、でも…」
「でも?」
私も夜重の言いたいことは分かる。きっと私が思っている以上に、同性愛者の人にとってこの問題はセンシティブなものだ。
だが、だからといって頭から『無理』って決め込んでもいいのかな?
莉音はきっと、それなりに勇気を出して言ってくれたはずなんだ。それなのに私が、『多分、無理っすね』と断るのは無神経というか、無礼というか、そんな気がする。
だから、私はその気持ちを夜重にそのまま伝えることにした。
「何も試さないうちから、女同士なんで無理っす、って言うのは…なんか、酷くないかなぁ?」
「…さっきも言ったけど、半端に期待させるほうが酷いわよ」
「…でもぉ…」
ファミレスで私に声をかけてくれた莉音を思い出す。
普通にカッコよかった。あれで男性ですって言われて、そのうえで、お試しに…なんて言われたら、私は迷いなく受け入れたのかな?
だけど、莉音は女性だった。女性でもSNSでのやり取りで感じた魅力は紛い物ではなかったし、レズビアンだとか聞いても気持ち悪いとか、思わなかった。同性愛をどう思うかっていう話にだって、忌避感は覚えていない。
「時代も時代だし、こういうのもありかもしんないじゃん…」
「祈里、貴方ね…」
そもそも、そもそもだ。
「っていうか、なんで夜重がそんなに怒るの」
「怒ってないわ」
「嘘、ちょっと怒ってるじゃん。あんまり同性愛に偏見があるってのも、今の御時世、よくないんじゃないかな」
「…偉そうに」と冷たい一言で一刀両断。でも、合理性に欠いた夜重の返答は、それだけ返す言葉がなかったことを意味する。
私はそれでなんとなく、自分の考えがあながち悪いことじゃないんだと思えた。だから、洗濯物を畳む手を一度止めて、よしっ、とガッツポーズを取った。
「決めた。やっぱり私、もう少し真剣に莉音の話を考えてみる」
「や、やめなさい、お試しだなんて、インモラルよ」
インモラル?
…分からん。
「もちろん、いきなり付き合うとかはしないよ!でも、自分の頭で考えることも大事だと思うんだよね」
「そんな、どうしてそこまでするの」
「どうして…?んー…どうしてなんだろ」
「はぁ?何をそんな適当な…」
「いやいや、言葉にできてないだけだし!んー…でもまぁ、やっぱり自分のことだからじゃん?私って、夜重なら分かると思うけど、とにかく考えるよりまず行動!ってタイプだし」
「祈里…」
信じられない、という目を向けてくる夜重。悪かったな、私みたいな人間は経験からしか学べないんだよ。夜重みたく、深く考えて答えを出すのは、どうにも向いてない。
鍋に入った水が熱いのか、冷たいのかどうかは、触れて確かめる。
そういう単純な人間なんだよね、私。
そんな自分が、私は嫌いじゃなかったりする。だって、夜重はこういうところだけは私より臆病で、二の足を踏むタイプだからね。数少ない勝ってるところなの。
夜重はしばらくの間、あぁでもない、こうでもないと私を説得しようとしていたが、こちらの意志が固まりつつあることを知ると、急に無言になり、じっと俯いてしまった。
(――なんか、今日の夜重、ちょっと変だ)
しつこいのはいつものことだが、私が決めたことに対して反対意見をねじ込もうとするのは珍しい。なんだかんだ、失敗するのを見守ってくれるのが夜重なのだ。
私は反応が鈍くなった夜重を放って、洗濯物を再び畳み始めた。
そのうち、ぽつりぽつりと雨粒が窓に当たり始めた。夕立が来るというのは本当だったらしい。天気予報ほど無責任なものはないと思っているから、当たると得した気持ちになれる。
雨脚は、遠慮がちな小雨から、ザーッ、という篠突くような雨に変わっていった。
私の家から夜重の家まではたいして距離はなく、徒歩五分ほどで着ける。傘でも貸せば問題なく帰れるだろう。
「夜重、そろそろ…」
帰りなよ、と言いかけたときだった。
「――分かったわ」
ぼそり、と夜重が弱々しく呟いた。
「え、なんて?」
「だから、分かったと言ったのよ」
外で降っている雨みたいに、じっとりとした眼差しだった。そこには怒りや呆れといった感情は見えず、ただ、何か重々しい色彩が宿っている。
「な、なにが」
意味も分からず声をうわずらせていると、じりっ、と夜重が私のほうに座ったままで寄ってきた。
「試しもせずに何かを否定したくない。祈里の言い分は分かったわ」
「そ、そう、ありが――」
「ただし、だからといって、ほとんど会ったこともない相手と『お試し』で…なんて、やっぱりそれはおかしな話だと思うの」
「お、おぉう、振り出し…」
ちょっと冗談めかして、今の夜重から逃げたかった。そうしないと、なんか、大事なものが変わってしまう気がしたから。
でも、夜重は逃がしてはくれなかった。
ぴくりとも笑わず、私の真正面に顔を寄せてくる。
整った顔立ち、長いまつ毛に漆黒の銀河。彼女の魅惑的な唇に垂れた一本の髪の毛は、禁断の果実を彷彿とさせる。
(夜重め、か、顔が、良すぎる…!)
私が真っ赤になった顔で夜重を見つめていると、彼女は緩やかに唇を動かして、決定的な一言を告げた。
「だから、試してみたいのなら、私で試しなさい」
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