雨溶け.3
次回の更新は火曜日になります!
雨はやがて、篠突く勢いに変わっていった。
私は半ば無理やり夜重を杉の足元から社の屋根の下に移動させると、ドスン、と夜重の隣に腰を下ろした。
スカートの裾に入れていたシャツを引きずり出す。絞って水を出そうかとも思ったが、キリがない気がしたのでやめる。
「なんであんなところに一人でいたの」
問いを投げるも、反応はない。夜重はずっと石畳の溝に生えた苔を凝視している。
「風邪でもひいたらどうすんのさ」
これも反応なし。
分かっている。今日の夜重は強敵だ。
押すも引くも、そう簡単にこじ開けることはできないだろう。しかしながら、今日を逃せば、きっと未来永劫そのときは来ない。そんな予感が私の中には存在していた。
じろり、と横目で夜重を観察する。髪の先から垂れる雫は、夜重の端正な横顔と組み合わさることでまるでガラス細工のように姿を変える。
雨のせいで透けた下着、浮かび上がるボディライン。煽情的な様子に喉が鳴るも、こんな姿で私のそばから離れて、誰かの目に触れるかもしれない状況を作っていたことを思うと、酷く腹が立った。
「色々と危ないよ。そんな恰好で一人でいるの。しかも、こんな人気のないところにさ」
またも、反応なし。
さすがにムッときて、私は唇を尖らせる。
「ちょっと、聞いてんの」
「…祈里には関係ないわ」
はっ。
ようやく返ってきた言葉に、私は乾いた吐息がこぼれる。
言うに事欠いて『関係ない』、って?
「よく言うよ。夜重だって莉音のことで、呼ばれてもないのに首突っ込んできたくせに」
関係ないなんて、腐っても夜重に言われたくない言葉第一位だ。
夜重は私の言葉の切り返しを受けて、じっと黙り込んでしまった。そのうえ、今の話がつまらないことだったみたいに瞳を閉じてみせるから、私はいつものように意固地になりかけていた。
(――いや、落ち着け、落ち着くんだ、花咲祈里…!)
今回の目的を思い出し、どうにか自身の感情の手綱を握りなおす。
私が伝えたいこと。
それは、日頃のちょっとした鬱憤だとか、下らない意地だとかじゃなくて…もっと、大事なことだ。
心の奥の熱い感情。上手く肉付けしてあげられるか分かんないけど、とにかく、言わなくちゃならない。
ふぅ、はぁ、すぅ、はぁ…。
何度か深呼吸して、心を整える。
今、私の隣にいるのは、喧嘩相手の蒼井夜重でも、幼馴染の蒼井夜重でもない。私が憧れと尊敬と愛情を抱く、大好きな蒼井夜重なんだ。
(よしっ)
心を決めた私は、体の向きを夜重のほうへと向けた。夜重だって、それが視界の隅で見えているだろうに、依然としてこちらに注意を向けるつもりはないらしい。
「夜重。ちょっとだけ聞いてほしいことがあるんだけど」
安定の無視。別にいいよ。私の告白を聞いて腰を抜かすといい、蒼井夜重。
「あのね、私、さっき莉音と話してみて改めて分かったことが――」
「嫌よ」
突如、夜重が私の言葉を遮った。
「え?」
「嫌よ。聞きたくないわ。あっちに行って」
夜重は目を閉じたまま眉間に深い皺を刻むと、こちらを向くどころか反対方向へと体の向きを変えてしまう。
「夜重、いいから私の話を――」
「黙りなさい。あっちに行って、早く」
「え、いや、だから」
「聞きたくないわ。嫌。聞かない。絶対に聞かないわ!」
そのまま両手で両耳を塞いでしまった夜重に、私は呆れを覚える一方、なんだか可愛いものを見つけてしまったような温かい気持ちも覚えていた。
縮こまってしまった夜重は、雨に濡れた黒猫みたいだった。控え目に言っても可愛い。膝に乗せて不安に震える頭を撫でてあげたい…。
じゃなくて!
天岩戸の奥に閉じ籠る、天照みたいな夜重。その心をこじ開けるんだ。今日、ここで!
「だったら、勝手に話すから!」
絶対に聞こえるよう、夜重の耳元で叫ぶように話す。夜重は一生懸命頭を左右に振って、イヤイヤしていたが、関係ない。このまま続ける。
「夜重、私ね!」
「いやっ!黙っていて!」
「いつからか分かんないけど!」
「聞かない、聞かない聞かない!」
「夜重のこと、幼馴染以上の存在として!」
「意地悪!黙りなさい!私は、あいつと貴方の話なんて――」
「好きになっちゃってたみたいなのっ!」
「聞きたくなんてないわっ!」
とうとう両耳から手を離した夜重は、鎖から解き放たれるようにして私を振り向き、怒鳴りつける。
対する私はというと、改めて当人を前に自分の感情を言語化することで、羞恥心とか、熱い思いとか、そういうものに胸を締め付けられながらも、ようやく言えたぞ、という達成感からハイになりかけていた。
そんな感じの私たちだったから、夜重の返事は――…と、構えてみたところで…。
「――…え?聞いてた?」
「だから、聞きたくないと言っているでしょう!?帰りなさい。今すぐ!」
こんなふうに、なんとも間抜けな結果になってしまったのだ。
あぁ、人生初の告白。失敗。
「ぐ、ぐぬぬ…」
しかし、何度も言うように今日はめげない。
通ずるまで私の言葉と気持ちを打ちこむ。こういうときばかりは、相手と向き合う強さを持たない蒼井夜重の心に。
「ああそう!でもね、今日は夜重がちゃんと私の話を聞くまで――」
バッ、と私が話している途中にも関わらず、夜重はまた両耳を塞ぐ。
ぶちん。
こっちが真面目に気持ちを伝えようとしているのに、夜重のやつ…!
こうなれば強硬手段だ、と私は飛び掛かるようにして夜重の両手を耳から引き剥がす。
「や、やだっ!」
「あぁもう、大人しくしろ!」
ん…?なんかこれ、遠目から見たら私が夜重を襲ってるみたいじゃない…?いやいや、気にしたら負けだ。
「私ね、夜重のこと」
「あー!」
今度は突然、夜重が叫び始める。いくら私の話を聞きたくないと言っても、いつもクールな蒼井夜重からは想像できない子どもじみた真似に、こっちも臨界点を超えた。
ぶちぶちっ。
「うるさいっ!」
とにかく、夜重を黙らせないと話にならない。永遠に振り出しに戻り続ける。
だから。
だから、私は夜重を無理やり黙らせた。
重なったのは、濡れた唇。
柔らかいな、という感想よりも先に、目と鼻の先で両目を丸々と見開いた夜重のあどけない顔に私は、可愛いなっていう、馬鹿みたいな、でも、なによりも純粋な気持ちを抱くのだった。
ぷはっ、と唇を離したときになってようやく、私は自分が息を止めていたんだってことに気がついた。
永劫に近いような、それでいて刹那の出来事のようで、夜重の唇を奪ったことが本当に現実のことなのか疑いたくなるような時間だった。
だけどそんな疑いも、呆けた顔でぼやいた夜重の声のおかげで一瞬のうちにほどける。
「キス…」
意味を確かめるみたいに問いかけた夜重は、ぼうっとしたまま数十秒間、私の顔を穴が空くほど見つめた。そうして私が何も言わないでいると、途端にスイッチを切り替えたみたいに夜重の顔は真っ赤になる。
「き、き、キス…!祈里、あ、あな、貴方、今…!」
自分よりも焦っている人間を見ることで、自然と自分は冷静になる現象が起きる――というわけもなく、私は自分が夜重にしでかしたことを自覚して頭の中はパニック寸前だった。
「な、な、なに?別に、ふ、普通でしょ?キスぐらい」
いや、普通じゃないよ。酷い言い訳。
当然、夜重は私の言い訳にもならない台詞に顔をしかめる。
「普通じゃないでしょう!」
おっしゃる通りで…と視線を逸らせば、夜重はマシンガンのように罵詈雑言を並べ始める。
「貴方は昔からそう、考え無しに行動を起こして、その後の結果のことなんて気に留めない、責任も取らない。そんな祈里に振り回され続けて、私がどれだけ大変な思いをしてきたか想像したことがあるの?あるわけがないわよね、あったら、こんなこと絶対にできないもの!」
「あ、いやぁ…私なりに色々と夜重のことを考えた結果でして…」
「どこをどう考えたら、私にキスしようって結論になるのよ!?」
雨音さえかき消す夜重の雷が、ぴしゃり、と私の頭に落ちる。なかなかの苛烈さだったが、私は夜重の両手を離そうとは思えなかった。
まずい。夜重ったら本気で怒ってるよ…。いや、まぁ、当たり前っちゃ、当たり前なんだけどね。
「こんなふうに、祈里がいつまで経っても滅茶苦茶だから、私は…!」
すると、さっきまで怒り心頭だった夜重の様子が急転直下、弱々しくなっていった。
私は、と何度も繰り返す夜重に、得も言われぬ感覚――もしかすると、庇護欲?的なものが胸の底から湧き起こる。
きっと、雨に濡れながらも夜重は色んなことを一人で考え込んでしまっていたんだろう。そしてそれは、なんとなくだけど私のことに違いないっていう確信もある。
雨に濡れることも厭わないくらいに、私のことで頭がいっぱいになってしまっていたのなら…。
(うん…やっぱり、すっごい嬉しい。お腹がいっぱいになったときと同じように、空っぽだったものが満たされる感じがする)
両腕を掴んだままの私は、俯く夜重にそっと顔を寄せた。
悲しいかな、あっちは俯いているのに、視線を真正面からぶつけることができる。夜重がでかくなりすぎたのであって、私がチビなのではない。
「夜重、聞いて」
つぅ、と夜重の髪先から雫が落ちるのを見ながら、私はゆっくりと続ける。
「好きだよ、夜重」
言った。
今度はちゃんと、夜重にも届いたはずだ。
私自身、気づいたばかりの気持ちだけど、温めてきた時間はきっとかなり長くて、ずっと大事なものなんだ。
動きが鈍くなっていた機械にオイルを注ぎ始めた、その直後みたいに、緩慢に、でも、着実に夜重の表情が変わっていく。
目を丸く見開いて、パチパチ、と瞬きする。体が冷えてきたのか、唇同様顔色も悪いけれど、ある種の熱がその頬と瞳には宿っている。
「…え?」
何度か開いて、閉じてとしていた口からこぼれたのは、そんな弱々しい呟き。聞き間違えか、それとも幻聴か、とでも言いたげな感じだったから、そうではないんだと私はもう一度、気持ちを夜重へと届ける。
「夜重、好き」
本当は、もっと気の利いた言葉を考えていた。多少、気障に聞こえたとしても、どんな言葉よりも私らしく、そして鮮明に、自分のこの気恥ずかしい感情を伝えたいと思っていたから。
だけど、そんなふうに格好よくはいかないらしい。
私って、夜重みたく頭良くないもんなぁ…。落ち着きもないし。
「でも、祈里、貴方はあの人のことが…」
「そんなこと、一言も言ってないでしょ?」
「だけど、そんな素振り、一つもなかったわ」
「いや、いやいや、あったよね?私、好きでもない人にあんなことしないし」
「…あんなこと?」
うっ。聞き返された。私自身、恥ずかしくて思い出したくないのに。
「だからぁ…カラオケ行ったときのこと」
「あ――」
夜重もそのときのことを思い出したのか、赤面しながら目を背けた。
変な沈黙が流れる。触れ合っている肌と肌から、私の熱と羞恥が流れ込まないかと心配になったが、気合いを入れて不安を振り払い、先を続ける。
「キスだって、好きでもない人とはしないよ。私、莉音と間接キスだってできなかったもん」
頬を朱に染めた夜重は、目を細めて地面を見つめていたのだが、ややあって、ちらりとこちらを一瞥すると、また目を背けつつ、「…あの人に、ああやって何度も会っていたの?」と質問してきた。
明らかな嫉妬が私にも伝わってきて、ぐっ、と胸の内側が燃え上がる。私を独り占めしたい夜重の、子どもみたいな確認行動…あぁ、たまんない。
「今日のだけ。一度だけだよ」と説明すれば、わずかに疑いの目を向けられたものの、「そう」と受け入れてはくれた。
再び流れるのは、雨の音だけが息をする静謐。神聖な寺と苔生した石畳に、これ以上ないくらい相応しい気がする。
夜重はその間もずっと、何か言いたげに私をちらちらと見ていたが、いつまで経ってもその感情を言葉にしようとはしなかった。
私は夜重の逡巡をたっぷり待ってから、こちらから問いを投げることにした。
「夜重は?私のこと、どう思ってるの?」
「…わ、私、は…」
正直、聞くまでもなかった。彼女の反応のすべてが、その結論を如実に語っている。けれども、実際に言葉にしてもらうことは、言葉以上の意味を持っていることに、私はもうなんとなく気づいていた。
「…も、もう、分かっているのでしょう…」
「『予測をしなさい』、は無しだかんね」
「うっ…」
夜重の悔しそうで、恥ずかしそうな顔。
ご馳走様です。これが、私にとって一番の栄養なんです。
それからも、たっぷりと私は待った。そして、五分くらいそうしていたかと思った頃、ようやく、夜重が小さく、吐息と諦めが混じった呟きを口にした。
「…好き」
言った――けど、もう一歩足りない。
「うん、誰を?」
「…意地悪、しないで」
「いつもの夜重ほどじゃないよ?」
水かさが増していくように、心の底からこみ上げてくる温かい気持ち。たぶん、それには『幸福』なんて名前がつくんだと思う。
ぴたり、と夜重と視線が重なった。雨のせいで気づかなったけれど、その瞳はうるんでいて、涙がたまっていた。
「…祈里が、好き。好きなの、ずっと前から…」
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