雨溶け.2
祈里の保護者だから。
その言葉を耳にした私は、怒るより先に深く暗い海底に放り込まれたような気持ちになって言葉を失ってしまった。
夜重も私とおんなじ気持ちなんだって信じていたものが、瞬く間にして揺らいだ。やっぱり、夜重にとって私は単なる手間のかかる幼馴染にすぎなかったのかな?
期待を引き剥がされたことで、俯きがちになっていた私を、莉音は当初の予定通りファミレスへと連れて行ってくれた。ちょっと前の私がしたかったことがようやく叶った。皮肉なことだ。
「祈里、何か食べるかい?」
飲み物を注いできてくれた莉音が私を気遣ってそう言ってくれるけど、紅茶なんて、私は飲まない。夜重だったら、ちゃんと私好みの飲み物を――あぁ、ダメだ。莉音の優しさを分かっているのにこんなこと…。
私は顔を上げることもできず、ただ首を左右に振るだけしかできなかった。
「そうか。じゃあ、私が適当に頼むよ」
莉音はウェイトレスに声をかけると、バーでお酒でも頼むみたいなスマートさでチョコケーキとショートケーキを頼んだ。まあ、バーなんて当然ながら行ったことないんだけどね。
数分後、二人の席にケーキが運ばれてきた。ウェイトレスはどちらのケーキがどちらのものなのかと逡巡している様子だったんだけど、莉音が両方とも受け取ってみせたことで頭を下げて戻っていく。
「さあ、祈里はどっち派かな?チョコ?それともショート?」
「…どっちでもいいよ」
「それはダメだ。僕は選ばないというスタンスが一番好きじゃなくてね」
そう言って笑った莉音の目は、どことなく鋭い光を放っているような気がした。だから、私もそれ以上は粘らず、「じゃあ、チョコがいい」と選択する。
「うん」
莉音は満足げに微笑むと、片手に持っていたチョコケーキを私のほうへと差し出し、カラン、と音を鳴らしてフォークを皿の上で滑らせる。
「人間、生きている限り選び続けなければいけないよ。もちろん、選ばないというのも選択の一つではあるけれど、そうして与えられた道では、何か都合が悪いことが起こったときにそれを言い訳にして他人のせいにしてしまうものだ。ちゃんと選べることは人として正しいことだよ」
饒舌に語る莉音の言うことは、なんとなくしか分からなかった。ただ、なんか褒められているような気がしたので、一先ず頷いておく。
チョコケーキはとても甘く、知らず知らずのうちに強張っていた私の肩をほぐしてくれた。甘いもの、最強。
黙々と食べ続けている間も、莉音はなにか高尚な感じのことを語っていたけれど、私の頭ではチンプンカンプン。きっと、夜重がここにいたらちゃんと相手をしてあげられるんだろうなと、また彼女を羨ましく思った。
「ごちそうさまです」
ふぅ、と口元を紙で拭きながら完食。糖分を摂取できたおかげで、だいぶ気力が回復してきた。
「美味しかったかい?」
「うん。もちろん!」
「それは良かった。それじゃあ、本題に入ろう」
莉音はどこからか手帳とボールペンを取り出すと、素早く両手に構えて身を乗り出す。
「え」
「え、じゃないよ。祈里と夜重ちゃんの関係、きちんと言語化してほしいかな」
「そんなの…さっき見たと思うけど…」
莉音に連れ出される前の、夜重と離れる瞬間のことを思い出す。夜重は、とても不安そうに私たちを見送り、最後に少しだけ手をこちらへと伸ばしていた。
「言葉にこそ、目に見える以上のものが宿っていると、私は信じている。――だから、言葉にしてくれ。君と夜重ちゃんは、今、どうなっているんだい?」
「私と夜重は…」
長い沈黙が横たわる間に、私はない頭を使ってじっくりと考えた。
ただの友だち――は、無理がある。友だち同士で、『ドキドキする?』とかしないでしょ、普通。
じゃあ、恋人?んー…いやぁ、それも変だよねぇ。だって、『好き』だとか、『付き合おう』とか、何も言ってないもん。
友だち以上、恋人未満――なんていう、手垢のついた言葉が頭に浮かんだ。そしてそれは、いっそ笑えてしまうほど、今の私たちにとってぴったりな関係だと思った。
それをありのまま莉音に伝えたところ、莉音はやたらと嬉しそうに何度も頷き、それから、おもむろにフォークでケーキの上のイチゴを刺した。
何をするのだろう、と赤い果実と莉音を見比べていると、彼女は、くいっとフォークの先端をこちらへと向けて、「あーん」なんて言った。
「え、え…?」
「ほら、あげるよ。間接キスだ。あーん、してくれ。ドキドキするか試してみよう」
「えー…うぅ」
間接キス。そりゃあそうだ。んー…ちょっとだけ困ってる。
「り、莉音。私、申し訳ないけど…今はもう、お試しでも莉音とそういうことしようとは思えないっていうか…」
言わずもがな、私なんぞがそんな贅沢なことを…と思えるくらいに莉音は美人だ。彼女に好きだと言われて、悪い気がする人間はそうそういないだろう。
だけど、やっぱりもうそんな気分にはなれない。それが本音なんだ。
「うん。そうだろうね。祈里は素直で良い子だ」
くるり、と向きを変えたフォークの尖端を莉音がぱくりと咥える。イチゴはあっという間に消えていた。
「だけど、これが夜重ちゃんからの申し出だったらどうしたかな?」
「夜重からの…」
“あーん”
照れ臭そうに頬を染めて、頬杖をつきながら私を横目にする夜重を妄想する。自分でもびっくりするくらいスムーズに、その幻想は現れた。
うん。かわいい。腹が立つくらいにかわいい。
「恥ずかしいけど、ビビったら負けなので…飛びついてやるかな」
「ふふっ」
笑われた…。でも、引かれたりはしないんだ。
私は調子に乗ってそのまま続ける。
「そんでその後、べろってフォークを舐めてあげて、思わぬ反撃に怯む夜重を鑑賞したい」
「え…――あ、うん。いいんじゃない?趣味嗜好は人それぞれだし」
呆気に取られた表情の後、手帳の上を遅れて走り出すボールペン。言わなきゃよかった。今、絶対に引かれてたよ…。
「まあ、ともかく。私とできないことが夜重ちゃんとはできる。これの意味、なんとなくでも理解してるよね?」
「…うん。それは、してる」
「『それ』、言葉にできる?」
「えぇー…?恥ずかしいんですけど」
「頼むよ。女子高生の生の声で、『それ』が聞きたい」
薄々分かってたけど、莉音って、ちょっと変態だ。ボールペンに手帳を構えて私に『それ』を言わせようとしている感じなんて、特に。
私は抵抗しても無駄であることを悟ると、小さな溜息を吐いてから息を吸った。
「…私、いつからか分かんないけど、夜重のこと好きなんだと思う」
言葉にしてみると、想像以上にしっくりときた。その感覚は私の中の躊躇や疑念を容易く払いのけると同時に、私、なにやってんだろ、っていう気持ちにもさせた。
「あー…」
「どうしたの?思ってたより恥ずかしくなった?」
「違う。違うよ、莉音。十七年間付き合い続けてきた自分の馬鹿さ具合に、いい加減、うんざりしてただけ」
ガタン、と立ち上がり、ケーキがいくらだったか莉音に尋ねる。しかし、彼女はそれに答えず、じっと私を見つめていた。
「ごめん、莉音。私は行かなくちゃ」
「行って、どうするの?」
「伝えるよ。私の気持ち」
「だけどもし、夜重ちゃんの気持ちが祈里の抱く気持ちと違ったら…どうするの?」
間髪入れずに続く問い。なんだかこういうところは夜重っぽいなぁ、なんて勝手に思う。って、なんでも夜重を重ねて見ている私も、相当重症なんだろうな。
私はちょっとだけ困った表情を浮かべて、首を横に倒す。
「別に、どうもしないよ。落ち込むだけ。恋って、みんなそういうもんなんでしょ?」
同性愛って、私が思っているよりも難しいものなのかもしれない。だけど、私と夜重のことを決められるのは、どう転んだって私と夜重だけだ。そうじゃないと、なんか変だと私は思うから。
それに、たとえ夜重が私の気持ちに応えられなかったとしても…夜重が私を嫌ったり、突き放したりすることはきっとない。それぐらいには、私は夜重のことを信じている。
莉音は私の返答を聞いて、ふっ、と嬉しそうに微笑んだ。それから、コーヒーのグラスを手に持ち、その透過しようのない液体越しに窓の外を見やると、「気をつけて行くといいよ。雨が降りそうだから」なんて呟いた。
「ありがとう。その…話、まとめてもらって助かったよ」
私も馬鹿じゃない。莉音がただ単に私の話を聞くためだけに、私を呼び出したわけじゃないことぐらい理解している。
「どういたしまして」
「えっと、それで…ケーキは――」
「いや、お金はいい」
すっと、莉音は手帳に目を落とすと、それを大事そうに眺めながら続ける。
「取材料とでも思ってくれ」
時刻はすでに夕方の五時ごろ。雲の隙間から差し込む光も朱色を帯び始めた頃合いに達していたが、訪れた夜重の家に彼女の姿はなかった。
『夜重なら、まだ帰ってきてないわよ』と夜重のお母さんが怪訝な顔でそう言ったから、私はすぐに家を出て、夜重がどこに行ったのかを考えた。
(夜重、学校を出てからそのままどっかに行ったんだ。私の家――なわけない。夜重はこういうとき、絶対に一人になろうとする。本当は独りになんてなりたくないくせに、誰もいない場所を探す)
夜重の行く先。その答えは、夜重との小学校時代の思い出が教えてくれた。
私は町のほうでもなく、学校のほうでもない、青々とした山が連なるほうへと早足で歩き出していた。
目指すは山の麓にある、小さなお寺。大きな杉の木と苔生した階段、人気のない社、いくつか連続で並び立つ鳥居がある、思い出の場所へと向かう。
小学生の頃に夜重と喧嘩したときは、だいたい帰り道にここを探した。そうすれば、先に学校から黙って出て行った夜重と会うことができたのだ。
杉の根の間に蹲っているか、社の賽銭箱の前に座っている幼い夜重の残像が脳裏に浮かぶ。幼馴染の特権だ。きっと今この世に、夜重を見つけ出せる人間は私しかいない。
住宅街を抜けて、農道に出る。田んぼ道の両脇に生えた背の高い草は、風に揺れて美しい音色を響かせている。
暗雲が辺りの空を覆っていた。莉音が言っていたとおり、雨が降るのだろう。耳を澄ませば遠雷の音が聞こえたし、どこからかアスファルトが濡れる匂いもする気がした。
なんだか、嫌な予兆みたいな曇り空だったけど、だからどうした、と私は不安を払いのける。深く考えずに邁進できるのは、私の強みなんだ。
山の麓に到着したときには、ぽつぽつと雨が降り始めていた。段々と暗くなっていく周囲の様子に臆病の虫が顔を覗かせたが、やはり、気力でぶっ飛ばして山際を進む。
雨脚はあっという間に強くなっていく。私が寺の一番下の鳥居をくぐった頃には、すでに夏の制服が体にじっとりと張り付くほど濡れてしまっていた。
(夜重、折り畳み傘持ってたかな…濡れてない、かな)
風邪でも引いたら大変だ、と階段を上り終えるも、社の境内には誰の姿もない。もしかしたら、あてが外れただろうかと不安になったが、得も言われぬ直感に導かれて大きな杉の木をぐるりと半周すると、木の根の間にずぶ濡れの夜重が蹲っていた。
「夜重…」
私のか細い声は、寺の土を打ち付ける雨音にかき消されているのだろう。夜重は一切の反応を見せなかった。
艶が天使の輪となって現れる夜重の長い黒髪も、雨水の重さに輝きを失いつつあるような感じがしたし、宝石と比べても見劣りしない瞳も伏せられているせいで、何の光も反射していない。
なんだか、ボロボロだ。
見た目だけじゃなくて、その、心の感じも。
蒼井夜重。綺麗で、孤高を地で行く女の子。そんな存在をこんなふうに追い詰めて、みすぼらしく貶めたやつは罰せられるべきだ…なんて、それ、私なんだけどね。
「夜重」
今度は彼女に届くよう、もっと大きな声を出す。すると、今まで眠っていたみたいにゆっくりと顔を上げた夜重は、私の顔を見て、亡霊でも目の当たりにしたかのように眉をひそめた。
「祈里…?」
黒曜の瞳は、たしかに私を映した。
ドクン、と鼓動が一つ強く鳴り、息が苦しくなる。
雨で濡れた髪も、雫をつたわせる白い頬も、少しだけ血色が悪くなった唇も…。
立てた膝の間に見える官能的な太ももも、透けて見える水色の下着も、熱を帯びる吐息も。
何もかもが私の琴線に触れ、心と体を熱くさせた。
蒼井夜重――私の好きな女の子。
みすぼらしくなった、なんて馬鹿なことをほざいたのは誰だ。
雨と失望に濡れたって、私の幼馴染は誰にも負けないくらい綺麗でかわいいんだから。
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