53 前線基地
視界の光景が突然変わる。
まるで紙芝居をめくっただけのように、何の衝撃も予兆も振動も明滅もなく、ただ景色が変わる。
ブリジアは、祖国トボルソの仕掛けで体験したことがあった。
転移魔法が使われたのだ。
実際には、地下後宮から外に出る時は、転移魔法を使用しなければ出られない。
何度も経験しているはずだが、その時には常に安心して身を任せられる相手がいた。
魔王ジランであり、大参謀ダキラだ。
転移魔法により転移させられたと気づいたブリジアは、トボルソ王国を思い出していた。
だが、シン国の炊き出しをしていた神殿風の建物とは、全く別種の建物内であること以外、ブリジアには見覚えのない場所だった。
「ここは……どこ?」
目の前には誰もいない。雑然とした狭い部屋で、苔むした岩壁に囲まれている。
「心配いらない。君を傷つける者は誰もいないよ」
声は背後からした。
ブリジアは魔法を使用していない。ならば、無理やり連れてこられたのだ。ブリジアは振り向き、薄暗い中で背後の男を睨みつけた。
「あなたは、誰?」
「ああ。こう暗いとわからないよね。光よ」
最後の言葉だけ、ブリジアは古代魔法語であることを理解した。
男にしては甲高い声に応え、男の指先が光る。
「僕は名乗ったよね。ナギサ。勇者と呼ばれている」
「ひっ!」
悲鳴を上げそうになったブリジアの口が、勇者ナギサの手で塞がれる。
「静かに。外に聞かれると、僕が誘拐したみたいになる」
ブリジアは、口を覆う手を全力で振り払おうとした。
だが、ナギサの力は見た目に反して強く、ブリジアの力が弱いこともあるが、びくともしなかった。
「叫ばないかい?」
ナギサの問いかけは穏やかだった。ブリジアは、ゆっくりと首を縦に動かした。
ナギサの手が、ブリジアの口から離れる。
「誘拐したんじゃない! 誰か来て! 誘拐犯よ!」
全力で大声を上げたブリジアの口が、再び封じられる。
今度は、ブリジアは容赦しなかった。
自分の口を覆う手を、全力で噛んだ。
口の中に、鉄の味が広がる。
ナギサは手を放した。
ブリジアは逃げようとした。
戦うべき時は徹底する。王家の人間として、ブリジアに叩き込まれていたことだ。
ナギサに向けた背が、背後から抱きしめられた。
ブリジアは、さっきは全力で手を噛んだ。
まだ血が滴っている。
その手でブリジアを汚さないように気をつけながら、ナギサはブリジアを抱きしめていた。
「ブリジア、僕は君を助け出すために、異世界から来たんだよ。逃げなくてもいい。僕は、君の味方だ」
「私を、一体何から助け出すと言うの? 私は、魔王様のちょうちなのよ」
寵妃を言えずに舌を噛んだが、意味は通じた。
「たった8歳の女の子が、魔王の寵妃というだけで、どんな拷問よりも酷い仕打ちだよ。もう、魔王のところに戻っちゃいけない。これ以上、辛い目に会う必要はないんだよ」
「辛くなんか……」
ブリジアは言いながら、勇者ナギサが勘違いをしていることを確信した。
ブリジアは寵愛されていると地下後宮の誰もが思っているが、実際には寵愛されているのは選りすぐられた美女軍団である侍女たちである。
ブリジアが成長してもあれほどの美女にはなれないだろうという女性たちが、8人も揃えられているのだ。
「魔王様が、きっと迎えに来るわ」
「ここが解ればね」
「……『ここ』って、どこ? 私、どこにいるの?」
尋ねたブリジアを、ようやく勇者ナギサは解放した。
光っていないほうの手を伸ばした。
「おいで。みんなに紹介する」
ブリジアはナギサの手に自分の手を伸ばしかけ、直前で止めた。
「ブリジア、どうしたんだい? ここが何処か、知りたいんだろう?」
「クリスはどこ? あなたが拐ったんでしょう」
「トボルソ王国にちゃんと帰したよ。魔王のところに戻るかどうかは、本人次第じゃないかな」
「自分で戻れるほど、簡単な場所じゃないわ」
魔王の地下後宮に自力で行くには、地下後宮の入り口である魔王城に行き、転移の魔法陣を使用しなくてはならない。
魔王城は、地上20000メートルの、世界で最も高い山の上にあるのだ。
「そこまでは……僕は知らない」
「クリスがあなたに何をしたの? 知らなかったって言って、クリスみたいに私をどこかに置き去りにするの?」
ブリジアは、自分でも抑制ができないほど、声を荒げていた。
勇者ナギサは困惑した顔をするが、ブリジアの手を強引に掴んだ。
「僕の狙いは、初めからブリジアだったんだ。それを邪魔したのは、ブリジアだろう。どうして、そんなに拘るんだい?」
「ああしなければ、私は殺されていたわ」
「なら、そんなところに戻ることはない。大丈夫。僕に任せて欲しい」
ブリジアは、軽々しく言う勇者ナギサを好きにはなれなかった。
だが、暗い石の壁に囲まれた部屋に、残される不安もある。
勇者ナギサがブリジアの体を支えて、狭い部屋の壁にかけられた梯子を登る間、大人しく抱えられていた。
石壁に囲まれた部屋から外に出る。
なめらかな、石とは思えない金属で覆われた通路に出た。
「……ここは、なに?」
勇者ナギサに床に下ろされたブリジアは、戸惑って尋ねていた。
「ここは、ヤマトの国だよ。魔王領がある大陸とは、海を隔てている。だから、滅多なことでは見つからないし……魔王が来たところで撃退できる。なにしろここは、対魔王軍のための秘密基地なんだ」
勇者ナギサは、金属で覆われた奇妙な通路を、まるで自分の家のように勝ち誇って紹介した。
本当に魔王の地下後宮とは遥か彼方に転移してしまったなら、無闇に逆らっても意味はない。
魔王ジランなら、ブリジアを迎えに来てくれる。
仮に見つけられなくても、いずれ帰れる時もあるだろう。
その時まで、まずは生き延びることだ。
ブリジアが勇者ナギサに従って歩き出した時だ。
まるで待ち構えていたかのように、けたたましい警告音が通路に響いた。
ブリジアは耳を覆った。耳を塞いでも、音に紛れて誰かが話す声が聞こえてきた。
「武蔵野沿岸に、巨大生物発見。総員、戦闘配備。勇者ナギサは、転移魔法陣に急げ」
「ゆっくりしていられないみたいだね」
ナギサは、自分を呼ぶ声に肩をすくめた。
ブリジアに向かって手を伸ばす。その間にも、警告音は響いている。
「ナギサ、呼んでいるんじゃないの? 私に構わず、行ってよ」
「大丈夫、ブリジアを1人にはしないよ。武蔵野は、対魔王軍の基地の中でも最も設備が充実しているんだ。僕がいなくても、巨大生物ぐらい倒せるかもしれない。ちょうどいい。ブリジアに、魔王軍がどんなものか、見せてあげるよ。地下後宮では、魔王が軍隊でどんな悪さをしているか、見る機会もないだろう?」
「……うん」
魔王には聞いたことはない。だが、魔王の直属の配下、大参謀ダキラからは聞かされていた。
魔王は、この世界を破壊しかねない強力な魔物を退治するために、魔王軍を組織している。
人族に対して軍を使用するなら、よほどの事情があるのだろう。
だが、妙に自信ありそうに語るナギサに逆らえず、頷いた。
ナギサはブリジアの手を取り、胴を抱えて走り出した。
「ヤマトは島国だけど、大陸に負けないぐらい近代的な社会だよ。僕の知っている日本とそっくりだったんで、びっくりしたぐらいだ。この世界には、化石燃料の代わりに生物の持つ魔力や石に貯めた、電池もみたいな魔力を動力とした機械が多い。資源に乏しかった日本をしっている僕としては、羨ましいよ。ただ……他の国と交易できないのが残念だね」
「海も空も、魔物が強くて人族は渡れないわ」
ダキラにかつて教えられたことを口にする。王族として教育を受けたブリジアは、特に世界全体の情勢を左右する情報には敏感だった。
「ああ。その通りだ。魔力を使って月までいけるロケットを開発できても、空の魔物を退治する方法がない」
「ドラゴンは、自分で月まで行けるみたいよ」
「あれは、どうしようもないよ。魔王しか従えられない」
ナギサは間違っている。ドラゴンは、魔王配下の魔将軍であれば全員従えている。
ドラゴンを従えられなくては、魔将軍にはなれないからだ。
ブリジアはあえて指摘しなかった。魔王軍のことに詳しいと知られれば、情報を引き出すために拷問を受けるかもしれない。
「ここだ」
ナギサが足を止めた。
無機質な、飾りのない部屋だった。
多くの人族が魔法陣を囲んでいる。
「ナギサ、遅いぞ」
「ああ。ブリジアを迎えに行っていた。戻ってきただけで、役目を果たしたはずだ」
「では……ナギサがこの世界に来た目的だと言っていた、ブリジア姫というのは、その子か?」
尋ねたのは、白衣を着て黒髪を後頭部で束ねた、メガネをかけた青年だった。
目つきが鋭く、険しい印象を与える。
「ああ。ようやく、助け出せた」
「魔王はどうした?」
「情報通りだ。傍にはいなかった。ただ、僕以外の人は皆殺しになった。あの光景は、忘れられない」
ナギサの言葉に、青年は息を呑んだ。
「その話は後で聞く。今は、ムサシノの巨大生物に集中してくれ。ムサシノ基地の迎撃システムで殺せるかもしれないが、ナギサの出番がくるかもしれない」
「ああ。ブリジアに、いいところを見せるチャンスだな。映像はあるかい?」
「切り替える」
壁の一部が斜めになっており、長方形の岩のようなものが突き出ていた。
青年が手元で何か操作をすると、突き出た長方形の平らな石に、明らかに外と思われる景色が映し出された。
「……お外?」
「外かい?」
ブリジアの問いをナギサが繰り返す。青年は答えた。
「ああ。ただし、ここから二百キロは離れている。ムサシノの沿岸だ」
「どこにいる?」
「見えているだろう」
画面には、静かな水面が映し出されていた。
大きな船が浮かんでいる。
画面越しなので、実際のサイズはわからない。
ブリジアが見ている前で、船の前に立ち上がった巨大な塊があった。
二本足で立つ、ごつごつとした皮膚をしたトカゲを思わせる生き物だった。
「でかいな。30メートル級か?」
ナギサの問いに、青年は首を振る。
「もっとでかい。これは、5分前の映像だ」
ブリジアは、尋ねたいことが山ほどあったが、大人たちが真剣に話しているあいだは口をはさまない程度には、淑女としての作法を身につけていた。
画面の中で、立ち上がった生物が、石で作られたような船を二隻、軽々と沈めた。
生物そのものも見えなくなる。海に潜ったのだ。
「さっきの警報の理由がこれか。どこに行った? バード、把握しているのか?」
バードというのが、青年の名前なのだろう。
ブリジアには名前とは思えなかったが、青年に呼びかけるための言葉としては正解のようだ。
「近づいている。これが現在の映像だ。音声も入れる」
画面が変わった。
画面いっぱいに、巨大生物の姿があった。
『80ミリ砲、撃て!』
『ダメです。効きません!』
『そんなはずがあるか! 次弾装填!』
『戦闘部隊、行けます!』
『出せ! 勇者ナギサはどうした! 魔王領から戻らないのか?』
『わかりません。キンキ基地に呼びかけます』
無数の言葉が飛び交う。かろうじてブリジアが聞き取れた時、同時にバードと呼ばれた青年の持つ箱が鳴った。
バードが箱と話す。
「ああ。わかっている。直ぐに送る。余計なものも一緒かもしれないが、よろしく頼む」
バードは言うと、ナギサを振り返る。
「わかっているさ。ブリジアも、行こう」
「わかっていると思うが、楽な相手ではないぞ。魔力は?」
「魔王領の近くから、ここまで転移したばかりだ。ほぼ空だな」
「貸しだ」
バードは言うと、青黒い液体が入ったガラスの瓶をナギサに投げた。
「ああ。ありがたい」
ナギサはブリジアの手を引き、魔法陣に入る。
受け取った青黒い液体を飲み干した。
「さっさと片付けてこい。ブリジアちゃん、ちゃんと働くよう、見張っていてくれ」
バードがブリジアに笑みを見せる。ブリジアは、周囲にいた人族が、魔法陣に魔力を送るのを見ていた。
人族は、個体差はあるが魔族ほど魔力には恵まれていない。
使おうとしているのは、転移の魔法陣だ。そもそも、魔族しか設置ができないといわれている魔法陣がどうして人族の基地にあるのかはわからないが、使用は誰にでもできる。
だが、最低限の魔力が必要となると聞いていた。
人族が使用するのは、やはり簡単ではないのだろう。
魔力を供給するためだけに集められた人族の努力を受け、ブリジアは抵抗する余裕もなく、勇者ナギサと共に巨大生物の襲撃を受けるムサシノとよばれる場所に転移した。




