49 帰って来た日常
〜来奇殿〜
久しぶりに戻ってきたブリジア貴女から、しばらく侍女たちは離れようとしなかった。
ようやく解放されたブリジアは、ドロシーと刺繍の腕を競っていた。
場所は来奇殿でコマニャスに継ぐ高位の妃、伯妃のポリンの部屋で、ポリンの子どもポリャス公子が判定を決める。
ポリャス公子は魔王とホビット族の血を引く。
体のサイズはホビット族のように小ぶりだが、肌にごつごつと岩のような鱗を持っている。
一般に、魔族の子どもは両親の特徴を受け継がない。
そのために、逆に血のつながりを大切にするといわれる。
外見が全く異なるため、普段から親密にしておかないと、出会った時に血族かそうでないかが分からなくなってしまうためだ。
さらに魔族に寿命の概念はない。成長するが老化はしない種族であり、その結果、かつては親子での結婚や殺し合いを、当人たちが知らずにしていたことも多々あったという。
「さあ、私はできたわ」
ドロシーが、刺繍した手巾を見せた。
「私も……どう? テティ」
「お見事です。素晴らしいタンポポです」
いつも側近として付き添っている侍女のテティに見せると、テティは満足気に頷いた。
ブリジアは唇を尖らせる。
「向日葵よ。でもいいわ。私もできた」
「じゃあ勝負ね。私が勝ったら、ブリジアの髪を私の髭と同じ三つ編みにするわ」
「いいわよ。私が勝ったら、ドロシー姉さんの髭を、紫色に染めるから」
「髪にしてよ」
「ドロシー姉さんは髭のほうが大事だから、髭を染めるのよ」
「いいわよ。負けないから。ポリン様、ポリャスちゃんを放して」
ドロシーとブリジアが、それぞれに手にした手巾を見せる。
「いいの?」
2人の近くで刺繍を見ていたポリンが、まだ幼い娘を部屋の壁際に連れて行った。
ポリャスは赤ん坊で、立つこともできないし、言葉も発せない。
だが、体の大きさ以外は魔族の特徴がよく出ている。
魔王も期待していると言われている。
「どうぞ」
ブリジアが言った。ポリンが捕まえていた手を放す。
「ポリャスちゃん、美味しそうなアダマンタイトですよー」
「こっちの向日葵……もういいわ。タンポポの方が美味しいですよー」
ドロシーとブリジアが声を張り上げる。
ポリャスが素晴らしい速度で床を這い、瞬く間にドロシー名妃の前に到達した。
「えっ?」
ブリジアが驚く。ドロシーの刺繍は、さすがにドワーフ族と思われる見事なもので、世界有数の硬度を持つドワーフ族特有のアダマンタイト金属を表したものだった。
だが、どう見ても美味しそうには見えない。
ブリジアは、ボリンがポリャスを連れて庭を散歩中、ポリンがよそ見をしている間に、庭園の花をポリャスが食べているのを見たことがあった。
いずれにしても、ポリャスはよく食べる。
魔族は食欲が旺盛なほど、力をつけると言われる。
だから、ブリジアは刺繍の素材として花を選んだのだ。
ブリジアの考え方は間違っていなかった。
ドロシーの前に座ったポリャスは、ドロシーの手巾を嬉しそうに頬張ったのだ。
「ポリン様、ポリャスちゃんが手巾を食べているわ」
「平気よ。その子、悪食だから」
心配したブリジアに対して、ポリンがのんびりと返事をした。壁際から離れて近づいてくる。
「悪食ってっても、布なんて食べて平気なの?」
「その子、最近は鉄を食べるわ」
「えっ?」
ブリジアが聞き返す。ポリンは苦笑していた。
ドロシーも、驚いて手巾を放していた。
「ブリジア様、ドロシー様の刺繍には、本物のアダノンタイトが使われていたのではありませんか?」
見ていたテティが口を挟む。ブリジアが、首が痛くなるような勢いでドロシーを睨んだ。
「ドロシー姉さん、そうなの?」
「う、うん。ポリン様から、ポリャスはアダマンタイトが好きだって聞いたことがあって……でも、食べるなんて思わないわよ。ドワーフ族にとって、宝みたいな鉱石よ。この子、ドワーフ族の天敵だわ」
ドロシーが恐る一方、ポリャスはくちゃくちゃとアダマンタイト入りの手巾を完食していた。
「ドロシー姉さん、卑怯じゃないの。刺繍勝負って言ったのに、本物の鉱石を刺繍に入れるなんて。それじゃ、私が刺繍に向日葵の花を入れるようなものだわ」
「……ブリジア様、入れましたよね」
「しっ。テティは黙って」
「申し訳ありません」
背後で囁いたテティに口止めして、ブリジアはドロシーを追及した。
「今は、それどころじゃないわ。この子が成長したら、ドワーフ族が狙われるかもしれないのよ」
「じゃあ、勝負はなしでいいわね?」
「それは駄目よ」
ドロシーは言うと、恐ろしげにポリャスを抱き上げた。
小さなドロシーから見ても、またほんの赤ん坊なのだ。
「そんなに心配はいらないわ。アダマンタイトが好きだけど、胸焼けするみたいで、少ししか食べないの。最近は、御影石がお気に入りね」
「ああ……よかった。御影石は武器にするには弱すぎるわ。じゃあ、ブリジア、三つ編みにするわよ」
「えーっ……」
ブリジアは抗議しながらも、豊かな紫色の髪を整えた。
※
コマニャス公妃の帰還を告げる声が響いた。
ポリンがポリャスを抱え、ドロシーがブリジアの頭を満足げにぽんぽんと叩き、来奇殿の前庭で宮殿の主人を迎えた。
「コマニャス様、お帰りなさいませ」
3人の声が揃う。それぞれの侍女たちは、黙って跪いている。
「出迎えご苦労様。ブリジアはどうしたの? ドロシーの髭みたいな頭をして」
「すぐに解きます」
ドワーフ族の髭と比べられたブリジアは慌てて解こうとするが、ドロシーが止めた。
「約束よ。3日は続けないと」
「ドロシー姉さんの意地悪」
ブリジアが唇を突き出す様子に、コマニャスはお付きのエルフ族の侍女に囁いた。
「こうして3人に迎えられると、以前デジィ皇后が仰ったことを思い出すわ」
「なんですか?」
エルフ族の侍女リーディアが首を傾げる。
「来奇殿は、まるで保育園ねって」
「ああ。でも、お陰で助かっているではありませんか」
「厄介ごとも多いけどね」
「厄介ごとってなんですか?」
コマニャスの声が聞こえたブリジアが尋ねる。膝をついた侍女テティに立つよう促していたところだった。
「私に言わせたい? いえ、今はそれどころじゃないわね。全員、私の部屋に」
「はい。長殿会でなにかありましたか?」
ブリジアが尋ねると、コマニャスは薄い唇をやや引き伸ばしたように笑った。
「部屋で話すわ」
コマニャスが部屋に消える。
「ドロシー姉さん、3日も3つ編みをしていると、髪に変な癖がついちゃうわ」
「じゃあ、ずっとしていればいいじゃない。本物の姉妹みたいに見られるわよ」
「……光栄です」
ブリジアは複雑な思いだったが、格上の妃であるドロシーと姉妹として見られるのが嫌だとは言えなかった。
「部屋に戻ったら、ちゃんとブラッシングいたしますから」
「テティ、お願いね」
「はい」
ブリジアはテティに手をとられ、ドロシーやポリンと連れ立ってコマニャスの部屋に向かった。
※
宮殿の主人コマニャスを中央に、妃たちが左右に分かれて座る。
各妃に仕える侍女たちが、その横に控えた。
「今日の長殿会では、主に2つの議題が出たわ。一つは、新しく入内する妃について」
「人族の妃でしたね。コマニャス様が、陛下から来奇殿に住まわせるように確約いただいたと思いましたが」
コマニャスに継ぐ地位にあるポリンが、娘のポリャスをあやしながら言った。
ポリャスは、ポリンがホビットの里で産んでいたら、呪われた子として殺されていたはずだ。
ホビット族の感性でも、受け入れ難い見た目である。
だが、この魔王の後宮では、人族からかけ離れた容姿をもつほど、魔族として優れた資質を持つものとして期待される。
逆に、コマニャスの息子であるディオル公子は、魔族の特徴が少なくあまり期待されていない。
「ええ。それが困ったことに、耐火殿のエレモア王妃が引き取りたいと申し出たの。純粋な人族の妃では最高位のお方だし、人族が主人の宮殿であれば、人族にとっては暮らしやすいでしょう」
「じゃあ……慶事ですか?」
ドワーフ族のドロシーが尋ね、コマニャスが頷いた。
「なんですか? 『慶事』って」
それが通常の言葉ではなく、地下後宮では特別な意味を持っていることにブリジアは気づいた。ブリジアの問いに、コマニャスが答える。
「地下後宮では、気晴らしできるようなイベントごとが少ないから、おめでたいことがあると皆んなで集まってお祝いするのよ。それを、大きく『慶事』と呼ぶわ。どんなことをするかは『慶事』によって異なるけど、決まっているのはご馳走が出て、妃たち全員の参加が認められていることね。新しく妃が入る場合の『慶事』は、新しい妃を引き取りたいっていう宮殿どおしで勝負事をするわ。今回は、エレモア王妃の耐火殿と、この来奇殿……それと、ブリジアの知っている人族だってことが噂になっているらしくてね。リルト公妃の老練殿とランディ公妃の獣雷殿も参加することになったわ」
「4宮殿の競合ですか。どうやって決めるんですか?」
ポリンがポリャスを侍女に預けた。まだ赤ん坊のポリャスは寝てしまったようだ。
眠ったポリャスは重くて持てないとは、ポリンから聞いたことがあった。
ポリャスを受け取った侍女が下がる。やはりホビット族のため、長時間抱えてはいられないのだろう。
「わからないわ。デジィ様の命令で、王妃のお二人が準備することになったわ。流石に、エレモア様が勝負内容を決めるのでは公平ではないものね」
「私の時も、行われたのですか?」
話をきいていたブリジアが尋ねる。
コマニャスは視線を逸らした。
「えっ? どうしたんですか? 私の時は、そんなお祭り見たことなかったと思いますけど、新しい妃がくる前に済ませるのでしょうか?」
「ドロシー、説明してあげて」
コマニャスに言われ、ドワーフ族の妃は、美しく結い上げた髭を撫でながら言った。
「私がですか? 仕方ありませんね。いい、ブリジア。新しい妃が入るってことは、陛下の相手が増えることで、本来は『慶事』ではないわ。競争相手は少ないほうがいいのだから」
「……そうね。それはわかります」
「新しい妃が入内することが『慶事』なのは、引き取りたい宮殿が二つ以上ある時に限られるの。そうでなければ、むしろ忌み日で、『厄事』と呼ばれて、みんな外出を控えるの。ブリジアの時は……引き取りたい宮殿は二つもなかったのよ」
「来奇殿だけだったのですね。感謝します」
「コマニャス様が、クジで負けたからね」
「しっ、ポリン」
ポリンの呟きにコマニャスが叱りつける。
ブリジアは聞こえてしまった。
「コマニャス様、酷いです」
「でも、今回の入内が『慶事』になったのは、ブリジアの活躍があってこそよ。頑張ったわね、ブリジア」
「ありがとうございます」
「いらない子だったのにね」
「ドロシー姉さん、意地悪です」
「痛タタタッ……悪かったから、髭を引っ張らないで」
コマニャスが手を打ち鳴らし、ブリジアが控える。ドロシーは髭を撫でつけた。
「ブリジア、陛下がいらしたら、もう一度お願いしなさい。シャミンはきっと、ブリジアと仲良しになるわ」
「はい」
「もし陛下が口出しされなくても、勝ちに行くわよ。私が弱いのは、クジ運だけだって証明してみせるわ」
コマニャスが宣言したが、今度は誰も同意しなかった。
宮殿の主人を務める妃たちのことは、やはり怖いのだ。
コマニャスは、3人の妃たちの反応に気づかずに続けた。
「それからもう一つ……これも、ブリジアが関係しているといえなくもないけどね」
コマニャスはシン国の難民救済について語り、人族の妃たちだけで行うようデジィが命令したため、ブリジアにも声がかかるだろうことを告げた。




