5 塊殿会の後で
ブリジアは簡素な服を借りて着替え、泣きながら皇后の住まいである永命殿を後にした。
来奇殿の主人であるコマニャスを先頭に、ブリジアは最後尾を歩いていた。
「ブリジアのせいで台無しだわ。せっかく故郷のリンゴを売り込む好機だったのに」
塊殿会による定期的な謁見日は順番に回ってくる。だが、宮殿の数は多く、毎日開催されるものでもない。コマニャスには、この機会に売り込みたいものがあったらしい。
「仕方ありませんよ。ブリジアの話題になることは、わかっていたことではありませんか」
コマニャスの手をとり、支えるように歩いていた侍女のリーディアが応えた。
皇后との謁見日に侍女を連れていけるのは、宮殿の主人だけである。
「今年はリンゴが育ちすぎて、50000個の在庫を早く出荷しないと、腐ってしまうというのに」
コマニャスはエルフ族である。地下後宮にいる以上、それなりの高い身分の生まれであるはずだ。
一族が生産しているリンゴを売り込みたいらしい。
そのコマニャスが足を止めた。ブリジアは泣いていたので気づかなかった。
ドロシーの後頭部にぶつかって止まる。
ドロシーはブリジアと同じくらいの身長だが、ずっとがっしりしている。ドワーフ族のため、髭が美しい。
「エレモア様にご挨拶を」
ブリジアが頭をあげると、立ち止まったコマニャスが皇后デジィに対するのと同等の挨拶をしていた。
挨拶をされる側のエレモアは、明らかに人族だった。
赤い髪を肩に下ろした綺麗な女性だった。
何より、背後に大勢の女たちが従っていた。
コマニャスが行った礼は、立場が上の者にしか行わないものだ。
皇后を除いても、コマニャスより上位の妃は3人しかいないはずだ。
「立ちなさい」
「感謝申し上げます」
膝をついていたコマニャスが立ち上がる。
ドロシーとポリンも膝をついていた。ブリジアだけ立ったままだったが、見逃された。
身長が低いため、気がつかれなかったのだ。
「今日は、来奇殿の塊殿会のはずでしょう。随分早いお帰りね。皇后様はご機嫌斜めなのかしら?」
「どうでしょう。それほどではないかと」
デジィの機嫌は悪い。ブリジアが泣き出し、失禁したほどである。
それによって、さらに悪くなっている可能性が高い。
だが、コマニャスはそう言わなかった。
言うべきではないのだ。ブリジアは、俯いたままのドロシーの表情からそう理解した。
「そういえば、コマニャスさんの生家は収穫の時期が近いのではない? 去年は地下後宮に無料で配られたけど、それでは一族が飢えてしまうでしょう」
「いえ。皇后様はじめ、妃の皆様に喜んでいただければ、収益など物の数ではございません」
コマニャスの表情は見えない。だが、エレモアが微笑んだのはわかった。
「では、今年も期待してよろしいのかしら?」
「もちろんです」
「エレモア様、コマニャス様のご実家は、精霊の力を回復させるために資金が必要で……」
「リーディア、お黙りなさい」
「失礼いたしました」
「では、ご機嫌よう」
微笑んで通り過ぎるエレモアが、なぜかブリジアにはとても恐ろしく感じられた。
※
〜来奇殿〜
自室に戻り、ブリジアはひとしきり泣いた。
「一体何があったのですか?」
ブリジアの侍女テティが、着替えを運びながら尋ねた。
「こ、怖かったの。皇后様はお優しい方なんじゃないかって、勝手に期待して……で、でも、食べられるんじゃないかって思ったぐらい……」
「魔族ですからねぇ。そういうこともあると思います。いえ、食べられるって意味じゃなくて、恐ろしく感じることもあるでしょう。でも、魔王陛下はいまのところ、ただのスケベオヤジですけどね。さあ、ブリジア様、そのような粗末な服は……着ていった服はどうされたのです?」
テティが、ブリジアの服を脱がそうとした。
ブリジアは自分で脱いだ。かつては、着替えは自分でするものではなかった。
従う侍女の数はむしろ増えたが、以前とは自分の立場が違うのではないかと感じているからこその行動である。
「よ、汚しちゃったの。だから、謁見がおしまいになって……コマニャス様はお怒りよ。ご実家のリンゴを売る機会を逃してしまったの」
「『汚しちゃった』ですか。わかりました。よほど恐ろしかったのですね。それでは仕方ありません」
テティは、服を脱がした後ですぐに着替えを着せずに、手ぬぐいでブリジアの体を拭いた。
「わ、私、た、食べられちゃうかもしれない」
「ご冗談を。いくら皇后様が魔族でも、後宮の妃を食べはいたしませんよ。それより、陛下は今日も来るのでしょうか?」
「知らないわ。陛下には会わなかったもの。それより、コマニャス様のリンゴをなんとかして売らないと。コマニャス様に嫌われたら、住む場所がなくなるわ」
ブリジアの顔を、テティが手ぬぐいで乱暴に拭う。
「コマニャス様に頼まれたのですか?」
「いいえ。でも、コマニャス様の売り込みの機会を奪ってしまったのは、私の責任だわ」
「わかりました。なんとか考えて見ましょう。ですから、泣き止んでください」
「……うん」
テティはブリジアの衣服の乱れをただすと、手ぬぐいを渡して部屋を出た。
入れ違いに、同じ来奇殿に住むドロシーが顔を出した。
「侍女と話すのが聞こえたわよ。今度はコマニャス様にごまをするの?」
ドロシーは、綺麗に整ったあごひげを撫でながら言った。
「ち、違います。私のせいで、コマニャス様のご実家が困ったことになってしまうもの」
「大丈夫よ。コマニャス様の一族が育てたリンゴは、硬くて食べられたものじゃないもの。皇后様に取り入ったところで、売れやしないわ」
「でも、エルモア様は楽しみにしているって仰っていたわ」
「嫌味よ。去年、試食として各宮殿に分けたリンゴは、ほとんどがオークの餌になったって噂よ」
オークは、豚の頭部に人族の体を持った魔物である。
食欲が旺盛で、頭部から想像できるようになんでも食べる。
「信じられなければ、コマニャス様からもらってくるといいわ。今年の青果の早採り分が届いているはずよ。エルフ族は高慢だから……コマニャス様の悪口ではないわよ。私が言ったなんて、誰にも言わないでよ。他の種族の好みなんて考えないのよ」
「……うん。ドロシー」
「なに?」
「優しいのね」
ブリジアは、ドロシーと頬のつかみ合いをした思い出しかなかった。
ブリジアが笑うと、ドロシーは舌を出した。
「これ以上、来奇殿で変な噂を立てられたら、私が迷惑するの」
「ドロシーはドワーフ族でしょ。特産のアダマンタイト鉱石とか売らないの?」
「ドワーフ族しか加工できないものを、売るはずないでしょう」
ドロシーに毒づかれながら、ブリジアはコマニャスにリンゴをもらうために駆け出した。