44 コマニャスの計略
コマニャスが立ち上がり、壁一面に置かれた棚に、所狭しと並べられたブリジアの人形を見渡した。
さらに横に置かれた木の箱には、ドッぺルゲンガーが変身したブリジアの姿まま、硬直したものが詰め込まれていることまでは知らない。
コマニャスは唖然と口を開け、魔王を振り返った。
「陛下……後宮の妃たちは、陛下が来奇殿によくお越しになる理由は知りません。勘のいい者は察しているでしょうが、確信はないはずです。ですが、私は来奇殿の主人、陛下が来奇殿にいらっしゃる目的もよく存じ上げております」
「それで?」
魔王は、訝るように目を細めながら尋ねた。戦場では視線のみで相手を滅ぼすとまで言われる。
「陛下は、ブリジアが本当に好きなのですね」
「違う!」
突然陛下が怒鳴ったため、振動で棚の人形たちがぴょこぴょこ跳ねる。
ブリジア当人は驚き怯えて立ちすくみ、跳ね忘れて遅れて飛び上がった。
魔王がめざとく見つけて視線を向けたが、コマニャスは背を向けていたのでブリジア本人には気づかなかった。
魔王の怒声にコマニャスはへたり込んだが、さすがに公妃と呼ばれる妃である。
気丈に言い返した。
「ブリジアを愛していなくて、どうしてこれほどの人形を集めるのですか? むしろ、狂的ですらありましょう」
「ブリジアから、聞いておらぬのか? 皇太后の目覚めに合わせて後宮に来ている大参謀ダキラが、たまたま目にしたブリジアの人形を気に入り、譲ってくれと強請ったのだ。朕にとっても渡すわけにはいかなかったため、同じものを取り寄せると告げた。だが、そうかんたんには見つからぬ。ダキラを満足させるため、さまざまなブリジアの人形を取り揃えたのだ」
コマニャスは頷きながら、納得しかねる表情で立ち上がった。
「そういうことでしたか。ブリジアが、ドロシーと何か相談しているとは思ったのです。ブリジアの人形は人気があって、トボルソ王国ではブリジアのグッズの売上で王族の生活費を賄っていると、確か……ブリジアの侍女が言っていました」
「ほう。そこまでか」
言ったのは侍女レガモンである。実際には、レガモンはそこまでは言っていない。コマニャスの勘違いだが、コマニャスも魔王も、真実を知る術はない。
「ところで魔王陛下、ダキラ様が気に入ったという、最初の一体はどのようなものなのですか? 陛下が二つと手に入れられず、代わりにこれほどの人形を用意するとは、よほど特別な人形なのでしょう」
「……言えぬな。ただ、コマニャスは見たことがあるはずだ」
「……なるほど」
コマニャスは、納得したように頷いた。
ちょうど、一番下の棚に隠れたブリジアの目の前である。
コマニャスが何を納得したのかが怖かったが、ここで正体をばらすわけにはいかないと感じていた。
「さあ、朕の部屋にこれだけの人形があることはわかったであろう。コマニャスが、本当にブリジアのことを思うのであれば、この中にいる本物を当てられるはずだ。もちろん、触ってはならん。話しかけるのも禁止だ。それ以上棚に近付かず、本物のブリジアを当ててみせよ」
「承知いたしました」
コマニャスは思慮深げに歩き出す。人形が置かれた棚の前をゆっくりと歩き、つぶやくようにブリジアのことを口にした。
一切話してはならないとは言われていなかった。人形に話しかけなければいいのだ。
「私にとって、ブリジアは正に家族同然です。時には粗相をすることもありますが……陛下は当然ご存じでしょう。ブリジアはまだ寝小便をいたします」
「ああ。あれには困ったものだ」
ブリジアは、物心ついた時には寝小便などしなかった。
来奇殿に来てからは一度もない。
コマニャスが知るはずがないし、魔王も同様だ。ただ、魔王は知らないとは言えないのだ。
ブリジアの侍女たちと興じている間、本当はブリジア本人と興じていることになっているのだから。
ブリジアは、恥ずかしさと屈辱と怒りで頬が紅潮するのをなんとか堪えようとした。
「もちろん、とても優しい妃です。エルフ族のリンゴを食べようと腐るまで我慢し、腐った後に食べて数日間下痢をし続けました」
「……ほう。それは朕も知らんな」
「ドワーフ族の特産品がアダマンタイトだと聞いて、食べ物だと勘違いして歯が折れたこともあります。ホビット族の紙タバコを嗅いでみたいとポリン伯妃に泣いて頼んでいたのを、言い聞かせるのは大変でした。それでも、私はブリジアを家族のように思っているのです」
いずれも、ブリジアには心当たりのないことだ。当然、腐ったリンゴを食べて下痢をしたという事実もない。
「……ブリジアには、手を焼いているのではないか?」
「だから皇后様は、私への罰としてブリジアを転籍させようとしたのを、撤回したのでございます。私がどれだけブリジアを愛していようと、いなくなった方が助かるのでは、罰にならないからです」
「ふむ。それで、ブリジアはどれかわかったか?」
「当然です。最初からわかっております」
コマニャスが薄い胸を逸らした。
「どれだ?」
「あれでございましょう」
コマニャスが指差したのは、棚の一番上だった。
コマニャスが外した。ブリジアは、聞いていなかった。
コマニャスが語ったことは、全て根も葉もないことだ。コマニャスの悪口に、震えるのを我慢していた。
コマニャスがどう言おうと構わない。だが、魔王がそれを真に受けたとなれば話は別だ。
「コマニャス、残念だが……」
「お待ちください。ちゃんと確かめなくては、決めつけることはできません。手に取らしていただきたいのです」
「よかろう」
魔王が棚の上から取り、ブリジア本人の目の前でコマニャスに渡されたのは、ドロシー傑女が作った醜怪極まりない子どもの人形だった。
「コマニャス様! あんまりです!」
ブリジアは、ついに我慢できずに飛び出した。かつて、同じことがあった気がした。
魔王を試してブリジアの人形を並べた時、やはり魔王はドロシーが作った不細工な人形を選んだのだ。
「ブリジア、見つけたわ」
飛び出したブリジアを、コマニャスは抱き寄せた。
「いかがですか? 陛下」
振り返るコマニャスの細い顔に、魔王は笑った。
「今のを間違いだと言っては、朕がブリジアに叱られよう」
ブリジアは、ドロシーの作った等身大の人形に向き合った。
「陛下、その言い方だと……私が本当にこの人形に似ているみたいなのですけど……コマニャス様、じょ、冗談ですよね?」
ブリジアが泣きそうになりながら尋ねると、コマニャスは膝を折ってブリジアに視線を合わせた。
ブリジアの紫色の髪を撫でる。
「ブリジア、この私が来奇殿と大切なブリジアのために、新しい妃を引き入れようというのに、冗談なんて言うはずがないじゃない」
コマニャスは誠実さを見せようとしたのだろう。だが、ブリジアを絶望させるには十分だった。
ブリジアが、ドロシー製の人形を抱きしめるように崩れ落ちた。
「ブリジア、シュク王国の貴族令嬢シャミンを知っておるか?」
「……はい。遊んでもらったことがあります」
不細工な人形を抱きしめたまま、ブリジアは顔を上げた。流れる涙を拭う気力も湧かなかった。
「これから一月後に入内する予定だが、コマニャスが来奇殿に引き入れようとしているようだ。ブリジアはどう思う?」
「私は……陛下やコマニャス様が決めることです。否も応もございませんが、シャミン姉さんが一緒なら、心強いです」
「うむ。他の宮殿の主人たちから今のところは希望も出ておらぬ。暫定だが、シャミンが入内した時には、来奇殿で預かるがよい」
「ありがとうございます。陛下」
コマニャスはひれ伏して魔王に礼を述べたが、ブリジアはどうしてコマニャスがシャミンの入内を希望しているのかはわからなかった。
「ブリジアよ。永命殿に戻るか?」
「陛下、ダキラ様が任務に戻るのであれば、デジィ様は私を傍には置きたくないのではないでしょうか」
「そうだな。では、ブリジアを貴女に封じる祝いとして、来奇殿に戻ることを許可する。それと……他に望みはあるか?」
ブリジアが来奇殿に戻ると聞き、コマニャスがブリジアの手をとって喜んだ。
ブリジアがいない間、魔王は来奇殿には行かなかったのだ。
いかにブリジアの侍女たちが相手をしているとはいえ、主人が他所にいる間に侍女たちと遊ぶのは体裁が悪いのだ。
コマニャスが喜んだのは、ブリジアがいれば魔王が堂々と来奇殿に遊びにくる。結果として来奇殿の俸給が上がるからなのだ。
「陛下、私の侍女クリスがもし生きていて、本人の希望が後宮に戻ることでしたら……」
「ああ。わかっておる。地上でどんな目に遭っていようと、クリスに罪はない。望むのであれば、再びブリジアの侍女として受け入れよう。ただ、今のところ、クリスの手がかりはないが」
実はクリスはトボルソ王国に戻っていることは、魔王は知らない。
地上にいる人族の中で、魔王が人族の侍女を探しているなど、誰も知らないのだ。
「では……もし、可能ならですが……」
ブリジアが言い淀む。魔王は察して口を挟んだ。
「望みがあるのか?」
「ダキラ様から、この世界は丸いのだと伺いました。ドラゴンに乗ればそれを目で見ることもできるとか。ダキラ様が任務に戻る前に、見ることは叶わないでしょうか?」
「そうか……王族であっても、人族はそのようなことも知らんか。大気圏を超えて飛び立てるのはドラゴンだけとなれば、それもやむを得ないか。本来ならば朕が連れて行けばいいことだが、妃のうちで1人だけとなると、デジィが五月蝿い。ダキラには話しておこう。ちょうど、ダキラからブリジアをドラゴンの背に乗せていいかと打診を受けていたところだ」
「ありがとうございます」
ブリジアは、まるで長い間の念願が叶ったかのように歓喜した。




