42 寝起きの皇太后
ブリジア傑女は、魔王の懐に入って、軍事用コートの破れ目から外を見ていた。
暇な時に後宮内を散歩する習慣があるブリジアには見慣れた光景のはずだが、いつもより高い視点から覗き見るのは面白かった。
皇太后の住まいである封眠殿には行ったことがなく、しばらく行くとブリジアが初めてくる区画に入った。
「陛下、先ほどから腹を押さえていらっしゃいますが、腹痛ですか?」
皇后デジィの金属を打ち鳴らすような声が響いた。
「朕に腹痛などあるはずがなかろう。コートが破れていることに気づいたのでな。隠している」
ブリジアは、時折視界を遮るのが、魔王の指なのだと理解した。
魔王は、ブリジアが収まっている腹部にずっと手を当てているのだろう。
それでいて、ブリジアの視界を塞がないように配慮している。
ブリジアは、魔王の配慮に感謝した。
「気にするな」
「何をです?」
ブリジアの感謝に、つい口に出した魔王が、デジィに問われた。
魔王がどんな表情をしているのか見えなかったが、ダネスが口を挟んだことで話題が変わった。
「俺とダキラは、初めて母上にお会いするのです。どのような方なのでしょうか? 陛下と皇后さまが揃って正装するというのは、本当に恐ろしいお方なのですか? それとも、礼儀作法にうるさいお方なのでしょうか?」
「単純な戦闘力であれば、デジィにも及ぶまい」
魔王が気楽な調子で言ったが、続くダキラの声は重かった。
「皇后様よりお強い方は、私は陛下しか存じません」
「産眠に入る前は、朧様と呼ばれていたそうだ。霧を自在に操り、光を利用して幻を作り出す。皮膚は岩よりも硬く、戦場においてはその力で敵を惑わしたという」
「俺が聞きたいのは、母上の戦闘力ではなく為人なのですが」
ダネスの言いたいことは、ブリジアもよくわかった。母親がどんな人物かと問われ、戦い方を聞かされるとは思わなかっただろう。
魔王は咳払いをした。
「礼儀にうるさくはない。戯れが好きで、戯れるように暴力も振るう。力の加減を間違えることも多く、専属の侍女のうち、魔族以外で一年以上生き延びた者はいない」
「母君のおかげで、皇后の侍女は魔族だけとなったのですね」
「そうだな。正装をさせたのは、朕の命令だ。初の親子対面で負傷してはつまらんからな。かといって、武装することはあるまい」
魔王はじめ、四人の着ているのは軍服なのだろう。実際に戦場に望むときは、別に武装というものがあるらしい。
魔王の武装がどれほど重いのか、ブリジアには想像もできなかった。
「なるほど。こちらが十分に用心していれば、楽しいお方なのでしょう」
「そういうことだ」
ダキラが納得した物言いをしたが、ブリジアは腑に落ちなかった。
長い間眠り続けていた母親に会うのが命懸けというのは、理解できなかった。
「ところで、前々からお尋ねしようと思っていたのですが、我々の父は何者でしょう? 陛下を産んだ後、5000年の眠りに入り、その間に陛下は魔王に就任されたはずです。ならば、母上が前回眠りから覚めた時には、すでに陛下の父である前代魔王様は討伐されていたはずかと思いますが」
ダネスの疑問はもっともだ。ブリジアは、よく聞こうと除いていたコートの穴に耳を押し付けた。
押そうとも叩こうとも、魔王専用装備であるコートは歪みすらしない。
「父には会っているだろう。デジィ、教えていなかったのか?」
「どうして私が、そんなことをしなくてはならないのですか?」
皇后は不服そうに言った。ブリジアが揺れる。魔王が肩をすくめたのだと感じた。
「私たちの父とは、何者ですか?」
「朕の父と同じだ」
「前代の魔王様ですか? 討伐されていなかったのでしょうか?」
「今も、そこにおる」
魔王が、一点を指差した。
「「えっ?」」
ダネスとダキラが、同時に疑問を口にする。
「魔王親衛隊第3部隊総督カムイ」
「はっ」
呼ばれたのは、魔王を乗せるための輿を持ち上げられず、そのまま護衛権従者として従っていた、ゴーレム部隊の隊長と思われる逞しい肉ゴーレムである。
「朕とお前たちの父だ」
「「はっ?」」
再び、二人の声が揃った。
おかしそうに笑ったのは皇后のデジィだ。
「ほらっ、そのような顔をする。だから、教えたくはなかったのです。純粋な魔族は寿命を持たず、魂が滅んでも肉体は滅びないわ。墓に埋めても腐敗することもない。だから、純粋な魔族が討伐されると、死体は全てゴーレムとして再利用されるのよ。魔王親衛隊第3部隊は、戦闘の能力では魔王軍正規軍に匹敵すると言われているのも当然でしょう。歴代の魔王様や親魔王様たちが、生前と変わらない、むしろ生前よりも強化されて動いているのですから」
「では、母上は……」
「父が恋しかったのであろうな。ゴーレムと交配した。肉体が滅びないということは、子種も尽きないということだ。自らの意志を持たず、命令に従うだけの人形だとしても、ミスディ母上は慰められたのだと、本人から聞かされた」
魔族とは恐ろしい存在だと、話を聞いていただけのブリジアは震えていた。
魔王が足を止める。
封眠殿の看板が見えた。
皇太后ミスディが眠り続けた宮殿に到着した。
〜封眠殿〜
ブリジアは、魔王の制服に空いた穴から覗き見ていた。
宮殿で魔王と皇后、大元帥と大参謀、かつては栄華を極めたゴーレムたちを出迎えたのは、後脚で立ち上がるカメだった。
魔族というよりも、もはや魔物にしか見えない。
硬い甲羅に全身が覆われているために腰を曲げることはできないが、立ち上がった甲羅の上部から伸びた頭部が、まっすぐに魔王を捉えた。
「陛下、お待ちしておりました」
「ジャスティ、ご苦労だった。皇太后は目覚めているのか?」
「正直なところ、わかりかねます」
立ち上がったカメの名がジャスティというのだと、ブリジアは理解しておかしくなった。
声を出してはいけないと、堪えたところで体が震えた。
魔王の制服が揺れる。魔王が自ら腹を叩いたのだと、ブリジアは気づいた。
『つ、潰れます』
『潰すはずがあるまい。静かにしておれ』
『わかっています』
相変わらず、頭の中に声が響く。
ブリジアが思っただけのことが正確に伝わっているので、ブリジアの能力ではなく、魔王が思念の伝達も読み取りもしているのだろう。
魔王には嘘がつけないのだと、ブリジアは自覚した。
「朕に嘘を言う必要があるか?」
「いえ。めっそうもございません。陛下に嘘など、どうしてつけましょう」
カメのジャスティが慌てた。魔王がブリジアの思念を読み取り、思念で返すところをうっかり口に出したのだとは、ブリジアだけが気づいていた。
「陛下、ジャスティは陛下のお生まれになる前から皇太后に仕えているのでしょう。そのジャスティに判断がつかないと言ったとて、嘘だとは限らないでしょう」
皇后デジィがとりなすが、デジィもまた、魔王がジャスティに、嘘をついたのだと責めていると勘違いしている。
魔王は一つ咳払いをして続けた。
「冗談だ。長年仕えてきた侍女にすら判断がつかない。それこそが、朧御前の本領発揮ということだろう」
「では……」
呟いたダキラに、魔王は頷く。
「母上はお目覚めだ。食事は摂ったのか?」
「まだ、何も……」
ジャスティの声が震えた。皇太后の空腹を恐れているのだとわかる。
「すぐに焼けた石を用意せよ。石炭があれば、そのほうが良い」
「すぐに」
ジャスティが、カメとは思えない速度で走り去る。途中で甲羅に手足を引っ込め、回転しながら滑っていった。
「皇太后を抑える。ぬかるな」
「わかっております」
返事をしたのは皇后デジィだった。魔王が振り向いた。
「皇后に言ったつもりはなかったが」
「久しぶりの皇太后様とのお手合わせ、私も楽しませてくださいな」
「よかろう。ダネス、ダキラ、二人は手を出すな。初めてお会いする母上に、怪我を負わせたくも負わされたくもなかろう。カムイ、続け」
「承知」
魔王配下の魔王親衛隊第3部隊は、ゴーレム部隊である。その中でも、精鋭たちは不老である魔族の死体を再利用したものだという。
第3部隊総督のカムイは前代魔王なのだとは、ブリジアも今日知ったことだ。
だが、ブリジアは観察している余裕はなかった。
魔王が走り出す。
振動から、間違いなく地面に足型が残ったと感じた。
その前を、黄金の輝きが掠める。皇后デジィだ。眩いほどの輝きを撒き散らす。
左右にカムイ率いるゴーレム部隊が展開した。
宮殿の内部に入る。
視界がきかず、黒い霞に覆われていた。
魔王の体が揺れる。
魔王の胸に、黒い拳が打ちつけられたのだと知った。
魔王は揺るがず、制服は凹まない。
だが、魔王だから無傷なのだとわかる一撃だった。
「母上、朕を殺すおつもりか?」
「ジランかい?」
真っ黒い霧の中から、甲高い声が響いた。
「左様」
「ジランなら、死にはするまい。ひゃははははっ!」
「母上、お姿をお見せください」
言いながら、魔王は口から炎を吐いた。
普段からマグマを水のように飲む魔王の吐いた火は、溶岩地帯を出現させた。
「ミスディ様、私もおります」
魔王の前に皇后デジィが立ち、黒い霧を打ち払うように輝きを撒き散らす。
「デジィ、私の可愛いジランの正妻、その力を見せてごらん」
再び甲高い声とともに、天井から黒い槍が降り注いだ。
全てデジィの体を貫くほどの勢いだったが、デジィの黄金の肌には傷ひとつつかない。
デジィが跳躍した。魔王がさらに進む。
左右から飛びかかろうとしたゴーレムたちが次々に脱落する中、魔王だけはまっすぐ、宮殿の奥に入った。
皇后デジィが魔王の頭上を飛び越えて宮殿の際奥にいた黒い塊に飛びかかり、飲みこのまれる。
デジィの足首を掴んで引き摺り出した魔王が、人型をとった黒い塊を押さえつけた。
「母上、お久しぶりです。無事お目覚めのようで何よりです」
「ジラン、久しぶりだね。いい嫁をもらったようで安心だ」
朧御前の異名をとる皇太后ミスディは、全身が黒檀よりも黒く、目鼻立ちすら目を凝らしてもわからなかった。
ただ、間違いなく魔王の母だとブリジアは確信した。
制服の穴から覗いていたブリジアを真っ直ぐに見つめ、口角を上げて笑ったのがわかった。




