38 皇后デジィのお茶会5
トボルソ王国の兵士たちは、突然現れた虫人族の軍勢に狼狽えていた。
国王は兵士を街に向かわせ、王城への避難を呼びかけた。
城門を硬く閉ざしたものの、人々の避難に多くの兵を割いたため、垂直な壁を道具も使わずによじ登る虫人族の戦士たちを防ぐことはできなかった。
街中への侵入を許し、トボルソ王国の兵士たちは町民を追うように王城に閉じ籠り、硬く城門を下ろした。
城の周りには堀があり、豊かな水が張られ、ワニが泳いでいる。
虫人たちは木の板を浮かべ、ワニによる犠牲を出しながらも堀を渡る。
「どうしたのブリジア、守ってばかりでは勝てないわよ」
虫人族の軍団を指揮するブラスト傑女が、横に広がる口で笑った。
虫族の特徴を持ちながら、口の中には舌がある。肌は白く、唇を持つ。
虫である以外は人族の特徴を多く持つのが虫人族の特徴だ。
「……レガモン」
ブリジアは、涙を拭って侍女を振り返る。
元騎士団長である美しく逞しい侍女は、ブリジアの背を撫でた。
「ブリジア様のご判断に従います」
「……うん」
ブリジアは、霞む視界でドロシーを見つめた。
ドワーフの妃は唇を噛み、視線を伏せている。
ドロシーが裏切った。ブリジアが、トボルソ王国が舞台になる時だけ、誰にも勝つことができないことは、来奇殿でもドロシーとコマニャスしか知るはずがないことだ。
それ以外の場所で、トボルソ王国を舞台の盤技をしたことがなかったのだ。
「仕方ないわね」
ブリジアは言うと、次の一手を差した。
その時だ。
王城の壁に張り付き、よじ登っていた虫人族の戦士たちが、突然突き出た無数の針によって串刺しにされ、堀に落下したのだ。
瀕死の虫人に、堀のワニが襲い掛かる。
「ちょっと待って。今のはなに? 反則じゃないの?」
触覚を揺らし、ブラスト傑女が立ち上がる。
ブリジアは首を振った。
「魔女たちが監視しているわ。反則なんてできるはずがない。トボルソ王国には、こういう仕掛けがあるの」
「ちっ、なら、壁を伝わないだけさ」
虫人たちが、王城の正門を破る。城内に雪崩れ込んだ。
「……レガモン、これ以上、お城の秘密を……」
「ブリジア様のご意志に」
「うん」
トボルソ王国王城に攻め込んだ虫人たちが、一斉に焼かれた。
「嘘だ! そんな仕掛けがあるもんか」
「だって……本当だもの」
次々に襲い掛かる虫人たちが、ブリジアの一手により確実に殲滅される。
トボルソ王国の被害はなく、虫人はほぼ全滅した。
「ドロシー! ブリジアは、トボルソが舞台だと、ただのカモじゃなかったのかい!」
結果は、獣雷殿の惨敗である。見ていたランディが、虎が吠えるような声で怒鳴る。
ドロシーは、体を震わせていた。
「ほ、本当です。ブリジアは、トボルソが舞台の時だけ……いままで、手を抜いていたの?」
ブリジアは、ドロシーを見つめた。
盤技の決着はついた。
席を降り、レガモンから手巾を受け取り涙を拭いた。
「魔法による盤技では、地上で本当にある場所を舞台に、実際にある戦力で戦うわ」
「知っているわ」
ドロシーが唇を突き出して答えた。
「結果は記録される。その国にどれぐらいの兵士がいて、どんな地形か、どんな仕掛けがあるか……全部、晒しちゃうのよ」
「あっ」
ドロシーにもわかったらしい。どうしてブリジアが、トボルソ王国が舞台の時は必ず負けたのか。
ブリジアは、トボルソ王国、特に王城については知り尽くしている。
「ブリジア様によって、トボルソ王城の鉄壁の守りが、誰でも知っている罠になる。ブリジア様は、自国を裏切ることを嫌ったのです。ドロシー様、ブリジア様に祖国を裏切らせた罪、軽くはありませんよ」
レガモンが真面目に問い詰めると、ドロシーは震えながら答えた。
「わ、私だって、脅されたのよ。そこの虫女が、一族を率いてドワーフ族を皆殺しにするって。ドワーフ族は、洞窟で暮らしている。虫族とは共同生活をしているようなものなのよ。それが突然裏切られたら、ドワーフ族は簡単に全滅するのよ!」
叫ぶドロシーの頭に、コマニャスが手を置いた。
「ランディ、初めから、ブリジアを引き抜くためにお茶会を仕組んだわね」
エルフ族の怒りは、すでに獣雷殿に向けられている。
ランディは牙を剥いた。
「そうだよ! あんたが、ブリジアの移籍を拒否しなければ、こんなことをしなくとも済んだんだ! ブリジア、ドロシーを脅したのも、トボルソ国の秘密をばらしたのも、コマニャスが欲張ったからだ。どうして、こんな奴のところに居たがるんだい。私が、あんたを傷つけるはずがないだろう!」
怒鳴りつけるランディは、虎そのものだった。
ブリジアは恐れた。
だが、言わなければならなかった。
「私は無事だとしても、侍女たちは?」
「何?」
「私の侍女たちは、私を守るために、志願して全てを投げ打って同行してくれたのよ。侍女たち全員が、私を守ろうとしてくれる。なら、その侍女たちは、私が守らなくちゃ」
ブリジアの震える体を、背後からレガモンが抱きしめた。
まるで、ブリジアの覚悟を嘲笑うかのように、乾いた拍手があがった。
金属的な反響があるのは、拍手している本人の体質による。
「ブリジアの覚悟はお見事ね」
「では……」
口を開いたコマニャスが押しだまる。皇后デジィが軽く手をあげた。それだけで、魔王以外の誰しもを黙らせられる。
「私が、来奇殿から獣雷殿へ移れと言ったらどうするの? たかが傑女が、私の命令を無視するつもり?」
侍女レガモンの抱擁を受けながら、ブリジアの体が抑えきれないほどに震えた。
それほど、皇后デジィへの恐怖は根源的なものだ。
涙が溢れてきた。したたり落ちる涙を拭くこともできなかった。
「ま、魔王陛下に、お願いします」
「不敬な!」
デジィが机を叩いた。鋼鉄製の机に、皇后の手形が刻まれる。
「ブリジア! 皇后様に謝罪なさい!」
コマニャスが叫ぶように言った。だが、ブリジアは引かなかった。
「わ、私は、祖国の秘密を晒しました。全て、侍女たちを守るためです。ど、どうして、約束を守ってくださらないのですか?」
「皇后様、いいではありませんか。ブリジアの言う通りです。罠を仕掛けたのはランディたちでしょうが、その罠を、ブリジアは犠牲を払って退けたのです」
口を挟んだのはダキラだった。ダキラは、ブリジアに向かって薄く笑いながら片目を瞑った。
「わかっているわ。冗談のつもりだったのだけれどね。それよりランディ、どうしてそこまでして、ブリジアを獣雷殿に呼びたいの?」
「ブリジアがくれば、陛下のご来臨が増えるからでしょう」
コマニャスが口を挟む。ランディが牙を剥くが、反論はしなかった。
「早く陛下の子どもが欲しいの?」
「皇后様、金だろう」
今度は大元帥ダネスが言った。ブリジアが行った盤技の様子には最も真剣に見つめていたが、それ以外のことには興味がなさそうだった。
「なるほど。ランディには、褒美を与える約束だったわね」
皇后デジィは言うと、左手の袖を捲って横に伸ばした。
「いいのかい?」
「早くなさい」
「了解」
大元帥ダネスの手が動いた。
ブリジアにはそれしか見えなかった。
剣を抜き、収めたのだろう。
直後に、横に伸ばしたデジィの手首から先が机に落ちた。
皇后デジィの金色の左手は、自ら意志を持つかのように指を動かして移動した。
机の上を移動し、獣雷殿のランディ公妃の前で動きを停止する。
「ひっ……」
金色をした不気味な物体に、虎御前の異名をとるランディですら悲鳴をあげる。
動きをとめた途端、皇后デジィの左手は金塊の塊のように見えた。
「褒美よ」
「あ、ありがとうございます」
ランディの声が震えていた。
デジィの左手は、手首から先が失われたままだ。
「さて……実際の勝者であるブリジアを、意に反して獣雷殿に預けるわけにはいかないわね。かといって、コマニャスには罰を与えなくてはならないわ」
「コマニャス殿もブリジアを可愛がっているようです。では、ブリジアを永命殿で預かってはいかがでしょう?」
「ダキラ様、それは……」
コマニャスが口籠る。ブリジアを振り返る。
永命殿は、皇后デジィの宮殿である。
永命殿で預かるというのは、皇后デジィと同居するということである。
ブリジアは身震いした。
デジィは恐ろしい。だが、ダキラはブリジアに好意的に見えた。
「わ、私の侍女たちは、来奇殿に残ってもよろしいでしょうか?」
ブリジアは、咄嗟に言った。一番に考えたのは、かつてデジィに死罪を宣告された侍女テティのことである。
顔を見て思い出し、デジィが気まぐれに刑を執行しないとは言えないのだ。
デジィは顎に手を当てようとして、左手が空振りしながら言った。
「おかしな申し出ね。普通なら、侍女たちを連れて行きたいと思うでしょうけど」
「いけませんか?」
何より、皇后やその侍女たちは魔族である。獣雷殿より安全だとはとても思えない。
「いいえ。ダキラ、あなたが言い出したのだから、きちんと面倒を見るのよ」
「心得ております」
ダキラが楽しげに微笑んだ。
まるで、猫を飼う相談をしているようだと思いながら、ブリジアは魔族たちにとって、人族とはその程度の存在なのだろうと思い知った。




