28 勇者と侍女の行方
勇者ナギサは、日本の高校生だった。
どこにでもいるごく普通の高校生と言えるかどうかは、趣味が裁縫で、特に布製の人形、いわゆるぬいぐるみ作りが得意な男子高校生が、普通かどうかにかかっている。
お手製の数多くの人形を鞄にぶら下げていたが、最も汚れが目立ち、かつ修復されているのが、紫色の髪をした小さな子どもの人形である。
最初の時がいつだったのか、もはや覚えていない。
物心つく前だったかもしれない。
何度も同じ夢を見た。
違う夢だと言った方がいいかもしれない。
だが、必ず同じ人物が夢に出てくる。
会ったこともない。
紫の髪をした少女は、ある時は大人たちを困らせ、ある時は優しく動物や草花に接し、ある時は世の理不尽に涙した。
幼かったナギサ少年は成長した。
度々夢に出てくる少女は成長しなかった。
夢の中で、ナギサに語りかけることもない。
次第に、ナギサはそれが悲しく思えてきた。
手芸にはまり、真っ先に作成したのが、会ったことのない、よく見知った少女のぬいぐるみだった。
その夢を見たことに、意味があったのかどうかはわからない。
ある日、少女が巨大な化け物に対して平伏している夢を見た。
とても危険な化け物だと思った。
殺される。
近づいてはいけない。
少女に気づかれることはない。
夢の中のルールとして、ナギサには良くわかっていた。
だが、何もしないでいることはできなかった。
手を伸ばした。
そうすれば、少女の肩を掴めるのではないか。
恐ろしい化け物の魔の手から救い出せるのではないか。
咄嗟にそう思っていた。
ナギサの手は、少女には届かなかった。
だが、何かに触れた。
ナギサの手が、何者かに掴まれた。
それは冷たく、ぞくりとさせられたが、嫌な感じはしなかった。
「あの子は今、魔王の後宮に入れられたところよ」
ナギサの耳に、何かが囁いた。
「後宮だって?」
それが何かは、ナギサも様々な物語で知っていた。
しかも、『魔王の』と、その何かは言った。
「あの子には、人族の命運を左右する大きな役目があるはずなのに、あの子の父は魔王に差し出してしまったわ」
「……ひどいな」
「あの子を助けるためには、あなたは多くの代償を支払わなければならないでしょう」
声の主はわからなかった。
ナギサは、幼い頃からずっと夢で見続けた少女が、実在するのだと知った。
「助けたい」
それは、ナギサの本心だった。
「いいでしょう。あの子のいる世界へ送ります。その世界で、あなたは勇者となるでしょう。トボルソ王国のブリジアを探しなさい」
声の主は最後まで姿を見せず、ナギサは異世界に渡っていた。
勇者ナギサの登場は、多分の戸惑いを持ってトボルソ王国に迎えられた。
女神の思惑と違う方向に守護した国が進んでしまったために、たまたま異世界に引き摺り込まれたのだとは、ナギサは考えなかった。
「目が覚めたかい? 勇者様」
薄暗い洞窟の中で、勇者ナギサは座ったまま眠っていた。
夢を見ていたのだ。現代の世界から、この異世界に来た当時の夢だ。
魔王と対峙し、力の差を思い知った。
ブリジアを助けることができなかった。
その無力感が、悪夢に近い夢を見せたのだろう。
既に異世界での生活も長く、日本では裁縫道具より重いものは持ったこともない生活をしていたが、現在はどんな重さの武器でも軽々と扱えるようになっていた。
「ああ。敵かい?」
勇者ナギサが尋ねた相手は、一緒に旅をしているホビット族のカリムウだ。
ホビット族は体が小さく力も弱いが、警戒されにくい。
この世界にくるときに、ナギサは戦う力を与えられた。
だからこそ、器用に立ち回り、世間慣れしているカリムウの存在は有り難かった。
「周り中、ずっと敵だらけだよ。どうやら、魔王はこのドタの街に目をつけたのかもしれない」
「人族が、敵に回ったかい?」
「ああ。そうかもね。魔王のやっかいなところは、人族をうまく利用できるだけの知恵があるってところさ」
ナギサは、魔王の後宮でソフィという侍女が、記憶を映像として再現できる人族の魔道具がドタの街にあると言った事実を知らない。
ソフィはただトボルソ王国が狙われないように、他国の都市名を上げたところに、たまたま勇者が潜伏していた事実を知らない。
「冒険者たちを頼るのも、危険ってことかな?」
「仲間だと思っていた冒険者に裏切られる覚悟はしておいたほうがいいだろうね。でも、冒険者たちにも頼らなきゃ、街を抜け出すこともできない。魔王はひょっとして、ドタだけじゃなくて、キン王国を滅ぼしたいのかもしれない」
「目的は、ぼくじゃないってことかい?」
「ナギサだけを狙うにしては、戦力が異常なんだ」
「わかった。なら、クリスはどうしているんだろう。最近会っていないけど、無事なのかな?」
クリスは、紫の髪を持つ少女ブリジアに仕えていた侍女だ。
単なる侍女としては、驚くほど気品に溢れ、目が覚めるほど美しい娘だった。
王女であるブリジアに渡したはずの魔法陣でクリスが転移してきた時は、クリスが第一王女ブリジアで、紫の髪の少女はクリスの侍女だったのだろうかと思ったほどだ。
この世界に転移した時、勇者ナギサは第一王女ブリジアの名は聞いても、紫の髪の少女がそのブリジアかどうかはわからなかったのだ。
「無事ならいいね」
「どういう意味だい?」
「会えっこないのさ。だって、ずっと前にドタから逃げ出したからね」
「逃げ出した? どうやって?」
「人族を支配しても、征服しても、無抵抗なら虐殺はしない。それが魔王軍だよ。クリスは普通に歩いて出て行った。護衛しようとした戦士たちは大勢死んだけど、魔物たちはクリスには見向きもしなかった」
「だから……厄介なんだ。ぼくが魔王軍と戦っても、人族の敵になってしまうことがある」
「どうするんだい? クリスの心配はいらないよ。ブリジアに会いたいなら、後宮に行くしかないけど」
「いや。今はまだその時じゃない。魔王を倒す方法を見つける方が先だよ」
勇者ナギサは言うと、外の様子を探り始めた。
これまで勇者ナギサが倒してきた魔王の配下は、半分は人族であり、魔王の私兵だった。
本物の魔王軍の強さを、勇者ナギサは知らなかった。
〜トボルソ王国、王城〜
アイレは、トボルソ王国の王都にたどり着き、意識を失った。
魔王の後宮から、ブリジア傑女の手紙を持って旅をしてきたのだ。
刑に処せられ、両手と両足を切り刻まれた。
幸いにもブリジア傑女に使用人として下げ渡される際に罪を許され、刻まれた手足にはブリジアの温情で蘇生の魔法が使用されたが、簡単に生えてくるわけではない。
長い時間をかけて、ゆっくりと再生するのだ。
その間は義手と義足で補うが、魔道具である。
魔力を吸収して動くが、魔力が足りない場合は体力を削る。
長い旅になったため、アイレは力尽きて王都の門前で倒れたのだ。
たまたまアイレを知っている者に助けられなければ、死んでいたかもしれない。
あるいは、服に施された魔王の紋章に救われたのだろうか。
アイレは、勇者と共に国を出るまで、公爵家の嫡男として恵まれた環境にいた。
婚約相手のブリジア王女は、王位継承権一位である。
その夫になれば、アイレが次の王になるはずだった。
アイレは、王城の一室で目覚めた。
後宮のものよりは質が落ちるが、清潔な気持ちのいい寝台だった。
「お目覚めのようね」
アイレが体を起こすと、黒髪を束ねた切長の目をした美女が尋ねた。
本を横に置くのは、今まで読書でもしていたのだろうか。
「……あなたは?」
「何度かお会いしているはずよ。アイレ様」
「今の私は、ブリジア様の使用人にすぎない……と言って、君にわかるかな?」
ここがどこなのか、アイレはまだ知らなかった。
位の高い家の誰かに拾われたのかもしれない。ブリジアが王女の名前だとは知っているだろうが、王女本人だとはわからないかもしれない。
だが、全ては杞憂だった。
目の覚めるような美女は言った。
「ブリジア様の使用人ということなら、私と立場は一緒ね。私はクリス、あなたに会ったのは、魔王の地下後宮でのことよ」
「……勇者様にさらわれた侍女か?」
「あなたのが持っていたブリジア様の手紙は、父君の国王が持っているわ。今頃、返事を書いていることでしょうね。内容は知っているの?」
「読んではいない。ただ、クリスという名の侍女……君を助けてほしいのだと、ブリジア様に渡された。ここは、王城なのかい?」
クリスと名乗った女性は、小さく、だがしっかりと頷いた。
「ブリジア様は、あぶなっかしいけど、実は賢いお方よ。手紙には、あなたに良い結婚相手を探してほしいと書かれていたみたいよ。侍女たちの噂で聞いたのだけどね。ブリジア様ご本人が、アイレ様と添い遂げることはもはや叶わないからと」
「ブリジア様のお気持ちは嬉しいが……この体になった私に、結婚などできはしない」
「あれを失ったから? 後宮に入り込むためにわざと切り落としたのなら、立派な覚悟ね」
クリスは手で卑猥な形を表した。クリスは年若い美女である。
まだ子どもを孕れないブリジアの代わりに、侍女たちが何をしているのかまでは知らないアイレは、クリスの態度にむしろ赤面した。
「勇者ナギサの発案だ。ナギサのいた世界では、後宮の管理は去勢された人間が行っていることは珍しくないそうだ。むしろ、魔王の配下にもともと生殖能力を持たない魔物がいることを知って驚いていた」
「でも、手足を失った後、再生するための薬を飲んだのでしょう? ブリジア様の計らいみたいね」
「ああ。義手や義足では不便だからと。よくできた魔道具だ。慣れれば、それほど不便でもないと思うが」
「外してみて」
「別に構わないが」
クリスに求められ、アイレは義手を外した。これは、気絶していても、装着者本人の意思がなければ外せないのだ。
義手を外すと、数ミリずつ切断された肉の断面に、奇妙な盛り上がりが生じていた。
「再生の薬を飲んだのね?」
「ああ。さっき君が言った通りだ」
「失ったのは、手足だけではないはずよね」
「……まさか……」
「気づかなかったの? あなたの服を着替えさせた侍女から聞いたのだけど」
アイレは慌てて、自分の服をかき分けた。
確かに、旅してきた時の服とは違う服を着ている。
女性に着替えさせられたらしいが、公爵家嫡男だったアイレには、動じることではない。
だが、服をかき分け、まだ外していない方の義手が、感触を伝えてきた。
「これも……生えるのか?」
「ブリジア様は、生えるはずだとお考えのようね。だからこそ、あなたに結婚相手を探してくれと書いてきたし、二度と後宮には戻らせないで欲しいと書いてきたそうよ」
「その、結婚相手というのは……」
アイレは、クリスを見つめた。
涼やかな瞳は、今までアイレが会ったどの女性より、ブリジア以外では美しかった。
ブリジアを比較対象とするには、ブリジアは幼すぎる。
だが、違ったようだ。
クリスは笑った。
「私がここにいるのは、あなたの持ってきた手紙の大部分が、私について書かれていたから、内容を知っているなら、気にするはずだという王の配慮ね。私は誰とも結婚できないわ。後宮に戻らなくちゃいけないもの。私がいなくなって、ブリジア様が困っているわ」
「ブリジア様の侍女は8人だと聞いた。そんなに困るのかい?」
「ブリジア様の侍女が8人というより、ブリジア様をお守りできる美女が8人でしかないのよ。それぞれ、才色兼備な8人の美女は……私が自分のことを美女だと言っているのは聞き流してね……主に美貌と才覚、生娘かどうかで選定されたわ。その中で、侍女としての教育を受けて、経験を積んだことがあったのは、私とテティの2人だけだったのよ。他の6人は、全く違う分野から、国を上げて選び抜かれた美女たちよ。それぞれ得意な分野はあるけど、侍女として十分な活動ができるかというと、また別問題だわ」
「そうか。だが、君は誘拐された立場だろう。簡単に戻れるのかい?」
アイレは、地下後宮を出るときに、戻るための本人確認用魔道具を渡され、無くせば戻れなくなると告げられた。
クリスに渡したところで、別人だと認識される。
戻るための魔道具を、クリスは持っていないはずだ。
「私がいなければブリジア様が困るのだと思えば、トボルソ王がなんとかするわ」
多分そうなのだろう。アイレは義手を戻しながら、自分はもはや、ブリジアに必要とされないのだと感じていた。




