25 戻った日常
〜来奇殿〜
地下後宮の天井に光るチーズが登り始めた頃、魔王は輿に担がれて来奇殿の正門前に訪れていた。
来奇殿の正門は来奇門と呼ばれる。
魔王ジランは、人型をとっていた。
魔王が体格を変更すると、質量も変わる。
輿に乗る時は、人型をとることが多い。
うっかり巨大な体躯のまま輿に乗ろうとしても誰も止めない。
それが魔王の判断であれば、従うほかないのだ。
だが、魔王にも意図せず忘れることがある。
考え事をしていて、動いていない輿に不思議に思い、担ぎ手が全員潰れていたことも一度や二度ではない。
人型になった魔王は、髪を長く伸ばした長身痩躯の姿をしている。
長年の研究の結果、地下後宮の妃たちに評判がいいとわかった姿だ。
だが、ブリジアを最初に訪問したときは巨大な姿だったし、それからもブリジアの前では巨大な姿だった。
侍女たちと寝所にいるときは常に人型だ。怯えないブリジアを試すために、あえて巨大な体躯を見せていたのだ。
来奇殿に足を踏み込むと、庭木の手入れをしていた侍女が気づいて膝をついた。
「魔王陛下にご挨拶を申し上げます」
「立て」
「ありがとうございます。すぐに主人を呼んで参ります」
「ああ」
侍女は走り去った。魔王は、常に同行しているホムンクルスのガギョク他数人の配下とともに宮殿の中庭に残された。
来奇殿の主人は、エルフ族のコマニャスである。
族長の娘であることは承知していたが、世界にエルフの集落は複数ある。
人族のようにはっきりとした国を作らず、住みやすい森を求めて移動するため、コマニャスのエルフ内での地位は魔王にもわからない。
宮殿の主人がまず出迎えるのは、地下後宮内の規則である。
すぐに姿を見せたコマニャス公妃は、魔王の前で膝をついた。
「魔王陛下にご挨拶を申し上げます」
「構わん。立て」
「感謝いたします。今日は……ご所望ですか?」
コマニャスは、細い腕を自分の胸に当てた。
「ブリジアはいるか?」
「はい。自室にいるはずです」
「わかった。案内は不要だ。知らせるな」
「承知いたしました」
来奇殿に足を運べば、最近ではほとんどブリジアの部屋に行く。
コマニャスが不機嫌そうに頬を膨らませた理由がわからなかった。
魔王はいつもの廊下を歩き、ブリジアの居住区に足を踏み入れた。
見知った侍女が挨拶をしようとするのを、魔王が止める。
侍女たちは慣れたもので、無言のまま膝をついて魔王に恭順の意を示す。
魔王が入った奥の部屋で、ブリジアは机に向かって筆を動かしていた。
ブリジアは気づかない。
魔王は、足音を殺してブリジアの背後からブリジアの手元を覗き込んだ。
「祖国の王に助けを求めなくても、朕はブリジアの侍女を殺したりはせぬ」
手紙の内容から、魔王はブリジアがさらわれたクリスの救出を求めて手紙を書いていたことを理解した。
突然声をかけられても、ブリジアは動じなかった。
だが、振り向いた瞬間に青い顔をした。
「あっ……だ、誰ですか? ど、どうして後宮に男の人が……」
「んっ? ブリジア、朕が誰に見える?」
「誰か、侵入者よ」
「待て」
魔王は、ブリジアの手を口で塞いだ。
「わからぬか。朕だ」
魔王が一部、体を変化させた。人型をしていた頭部から、天を貫くばかりのツノを露出させた。
ブリジアが釣り上がり気味の大きな瞳を何度も瞬きし、理解したと思われたところで、魔王は手を離した。
「どうした? 朕がわからなかったわけではないだろう?」
「魔王陛下ですか? どうして、そんな姿をされているのです? 私はてっきり、人族の人さらいが侵入して、私をさらおうとしているのかと思いました」
魔王は、ブリジアの言い方に疑問を感じた。
「うんっ? ブリジア、何がきっかけで、朕が魔王だとわかった?」
「私の顔を掴む手の感触です」
「……ふむ。おかしなところで気づくものだ」
言いながら、魔王は突き出たツノの先端を指で押して収納した。
「この姿を見せたことはなかったか? ほとんどの妃は、むしろこの姿を好むのだがな。ブリジアには不評だったか?」
「……いえ。私は、そのようなお姿の陛下を見たことがありませんでしたので」
「そうだったか?」
「嘘です」
「何?」
「陛下が私を脅かそうとなさったので、精一杯怯えさせていただきました」
ブリジアが笑う。魔王は、8歳の人族の小娘に手玉に取られたのだと理解した。
「ふん。朕を相手に軽口を叩くのは、そなたぐらいだ。皇后ですら、朕を困らせるようなことは言わん」
「でも、ご不快ではないのですよね?」
魔王は人族に近い姿になっても、肌は青い。
青い唇から長く息を吐いた。
「……そうなのだろうな。魔族にとって、夜も昼も関係ない。人族の好む時間だからと、わざわざ夜に来奇殿に足を運んでいるのだから」
「では、陛下はその気になればずっと伽を続けられるのですか?」
「不老というのは、そういうことだ」
「やはり……父に手紙を書かなくてはなりません。本当は、後宮に入内してすぐにお願いしたのですが、ちっともお返事がいただけないのです」
魔王はブリジアが向かっていた机のそばにある、大きな椅子に腰掛けた。
普段は誰も使用しない。魔王が度々来訪するので、魔王が腰掛けるために用意した椅子なのだ。
「数ヶ月前からだと? 侍女のことではないのか?」
「まさに侍女のことですよ」
「見せてみろ」
「あっ……いけません」
抵抗するブリジアの頭部をがっしりと掴み、魔王は小さな手から書きかけの手紙を取り上げた。
「なになに……『クリスが誘拐され、七人では陛下の夜伽を務めるのは無理でございます。陛下が力を持て余し、私の体を求める前に、新しい美女を侍女としてお送りください』だと……ブリジア、他の妃は一人で朕の相手を勤めておるぞ」
「まあ。皆さま、どんな手段を使っているのですか?」
「知りたがっているのは、他の妃たちの方だろう。ブリジアがどんな手段を使っているのか知りたくて、妃たちが引き込もうとしているようではないか」
魔王は笑いながら、ブリジアを抱きかかえて膝の上に置いた。
ブリジアは驚いて体を硬くしたが、すぐに緊張を解いた。
魔王の機嫌がいいことを悟っていたのだ。
「そうなのですか? 私は初耳ですが。そういえば……トラ柄の公妃様に、移籍について尋ねられましたが」
「ほう。トラ柄ならば、ランディ公妃だな。移籍とは単刀直入だな。獣人族は貨幣を使い始めて歴史が浅い。人族や取引上手のホビット族に巻き上げられているという噂があったが……策を弄するもの苦手なようだ。そのほかにも、今後ブリジアに近づこうとする妃が出てくるだろうな」
「私は、どのように対処すればよいのでしょうか」
「それは、朕の考えることではない。だが、困ったことがあれば聞こう」
魔王は、後宮の内政には口を出さないのが規則だ。
ただ、魔王の意向は絶対である。
魔王が命じたことは、過敏に実現される傾向にある。
ブリジアは頷いた。
上向く。魔王と視線が交差する。
「クリスを、お助け下さい」
「見殺しにはせぬ。できるだけのことはしよう。だが、勇者が間違って連れ去ったブリジアの侍女をどう扱うか、それは朕にはわからぬ」
「生死だけではございません。無事救出されたのであれば、後宮への帰還をお認めいただきたいのです」
ブリジアにいつも優しかった魔王が、顔をしかめた。
「クリスは美しいな」
「私の侍女たちは、全員美しいでしょう」
「うむ。その美しい娘が、人族によってさらわれたのだ。ただで済むはずがない。朕の周囲の者たちは、意見が一致しておる。ブリジアの侍女は、他の妃の侍女とは別の使命を帯びておろう。後宮に迎えるにしても、今まで通りの扱いは難しいな」
「陛下のお力でも、難しいのですか?」
「事実を覆すことはできん。それは、朕であっても手に余る」
ブリジアは大きく嘆息した。魔王の体に、小さな体を寄りかからせた。
「……陛下、七人でご満足いただけますか?」
「結局はその心配か?」
「いけませんか?」
「各宮殿には、朕が滞在した時間に応じて、追加俸給が支払われる」
「はい。先日コマニャス様から聞きました」
「その計算は、時間単位で行われる。朕の精が枯れることがないのなら、妃が耐えられなくなる以外で、朕が止まる必要はない。数多くの美女をあてがうというのは、今まで誰もやらなかっただけで、俸給を得るには良い方法だがな」
「今まで誰もしなかったのはなぜでしょう」
ブリジアは首を傾げる。侍女たちに魔王の相手をさせるというのは、ブリジアの発案ではなかった。
ブリジアを心配したトボルソ王国の宮中から、自然に発生したものだ。
「妃が侍女のことをよほど信頼し、侍女が主人に全てを捧げる覚悟がなければ成り立たないやり方だ。それに、通常の妃は思いついてもやりはしない。自尊心にかかわるらしい」
「では……私がまだ子どもだから……」
「実現したことであろうな。クリスのことは心配するな。可能な限り対応しよう」
「魔王陛下、感謝いたします」
「うむ」
「今日は、いかがなさいますか?」
「この部屋にくる途中で、侍女たちが寝所のしたくをしているのを見た。ただでは帰れまい」
「では、お楽しみください」
「うむ。子どもの発言ではないがな」
魔王は言うと、膝に抱いていたブリジアが眠そうだったためか、持ち上げて寝台に寝かせた。
ブリジアが書きかけていた手紙は、ほぼ完成してブリジアの署名がしてある。
魔王はあえて、ブリジアの名前の下に魔王ジランの署名を書きつけた。




