24 すれ違った虎の妃
ブリジア傑女が憩休殿を出たところで、連れていたソフィが口を開いた。
普段は口数の少ない美少女である。一緒に憩休殿に来たもう一人の侍女テティは、用が済んだところで先に帰らせていた。
「どうして、クリスが身ごもっていることを言わないのですか?」
ずっと疑問に思っていたのだろう。ブリジアは前を向いたまま答えた。
「一つには、自分の子どもを身ごもったからといって、陛下がクリスを助けるべきだと判断する理由がないわ。二つには、クリスはテティに月のものが遅れていると相談したそうだけど、身ごもっていることに確証がないわ。もし違ったら、私が懇願して陛下に無駄な命令をくださせることになる。それでは、私の立場が悪くなるだけだわ。それともう一つ……」
「まだあるのですか?」
「クリスのお腹にいるのは、私の子どもということになるわ。私が身ごもったという噂が広まれば、後宮の妃のみなさんが、どんな反応をするかしら」
「どんな反応をするんですか?」
「少なくとも、8歳の人族のお腹に子どもが入るのかどうか、見にくるでしょうね」
「見せてはいけないのですか?」
「誰か来るたびに裸になるの? 嫌よ。私は、嫌なことを拒否できるほど、位は高くないもの」
いくつかの角を曲がった。
前方から、魔物たちが担ぐ輿が近づいてきた。
宮殿の主人の誰かである。しかも、担いでいるのが性別を持たないホムンクルスでも、生殖器が機能しないハーフノームでもない。
全員が女性の人族の特徴を持つ、獣人族だ。
獣人族は、亜人にも魔物にも分類される特殊な地位にいる。
概ね肉体の七割が獣のような毛皮に覆われているが、残りの三割は滑らかな人族に近い肌である。
肌の面積が通常の人族より少ないことで、より官能的だとも、戦闘の際には弱点になるとも言われている。
「獣人の妃なんて、お会いしたことはないわね」
輿を担いでいる面々から、担がれているのも獣人だろうとブリジアは想像した。
まだかなり距離があるため、膝をつきはしない。
背後のソフィも、妃どうしがすれ違うことに特別の意味は感じなかったようだ。
「でも、どうして私が作り話をすることになったのですか? ブリジア様が言っても同じことではありませんか」
「同じじゃないわ。だって……私は一度陛下に、人族には記憶を取り出す道具なんてないって言ってしまったもの。一度言ったことを覆すのは、陛下の心象を悪くするわ。それに……魔女の出であるソフィの方が、説得力があるもの」
「でも私の嘘で、クリスが殺されるようなことにならないでしょうか。陛下が見られたくない恥ずかしい記憶を見られる前に、殺してしまおうと思うのではないでしょうか」
「それはないわ。だって、クリスの記憶を覗ける状況なのかどうか、『万物の憂』を使用したのかどうか、クリスから聞くしかないもの。クリスを死なせてしまったら、陛下はずっと恥ずかしい記憶がいつ流れ出るか、心配しながら生きなければにならないわ」
「なるほど」
「ソフィ、跪いて」
獣人たちが担ぐ輿が、ブリジアたちの目の前に迫っていた。
輿の上には日除けと覆いがかけられ、中を見ることはできない。
ブリジアは右手をあげ、左手を胸に置くいつもの礼をして膝を折った。
「止めよ」
「ご挨拶を申し上げます」
上位の妃を知らないということは、それだけで不敬となり得る。
ブリジアは、獣人が担ぐ輿がすぐに行きすぎることを願ったが、乗っている主人が止まるよう命じていた。
慌ててブリジアは、名前を出さないまでも挨拶を述べた。
叱責されるだろうか。地面に膝をつくべきだろうか。
ブリジアの心配をよそに、輿にかけられた覆いが外された。
「その装いは、妃の1人だな?」
妃と侍女たちでは、身につける衣装で異なるものがある。
髪に髪留め以上の飾りを飾ることも、手に意味のない付け爪をつけることも、侍女には許されていない。
「はい」
「人族のようだね」
ブリジアが顔をあげると、輿の上にいた美しい女性が、鼻をひくつかせていた。
見た目は美しい。顔から胸元にかけて毛で覆われていないが、肌が黄色と黒のまだら模様となっている。
着物はごく薄い白い布を体にかけているだけで、衣の下に艶やかな毛皮があることがはっきりとわかる。
虎の獣人であり、妃である。
獣人の多くは、獣の身体能力を持つ。嗅覚もその一つだ。
「はい。その通りでございます」
「人族でその大きさで妃……噂の来奇殿のブリジア傑女かい?」
なによりもしなやかさを想像させる虎の美女は、がらがらとした声でブリジアに尋ねた。
「は、はい」
自分は相手の名前を知らないのに、相手には知られている。
相手が上位の妃であれば、それは致命的だ。
ブリジアは緊張した。緊張して、命じられていないにも関わらず、地面に膝を着いていた。
虎の獣人が輿の上で続けた。
「コマニャスはエルフ族だろう。人族として、エルフ族の下にいつまでも、ついているつもりかい?」
ブリジアは背後のソフィに助けを求めたが、ソフィはただ視線を反らせた。
「コマニャス様は、よくしてくださいます」
「今はそうかもしれない。でも、いつまでも優しくはないだろう。その点、獣雷殿の子たちは、人族に対する偏見はない。移籍したらどうだい?」
「あの……それは、可能なのでしょうか……」
「可能だよ。宮殿の主人が申請し、相手の宮殿の主人が受諾すればね。ただ、大抵は事前に承諾してもらってからのことになる。もし、申請された側が断ったりしたら、角が立つからだろう」
「はい」
「では、移籍するつもりはあるということだね。楽しみにしているよ」
「いえ、あの……」
来奇殿は、コマニャスだけではない。ドワーフのドロシーは友達のように接してくれるし、最近ではホビット族のポリンの赤ん坊の面倒も見ている。
来奇殿での居心地は悪くない。
だが、ほかの宮殿を知らないブリジアに、宮殿の移籍について聞かれても、返事ができなかった。
ブリジアとしては、特に望んではいない。
だが、すでに獣雷殿の主人である虎の獣人は、輿に出発を命じていた。
声をかけることはできない。
輿を担いだ集団が過ぎ去るまで見送り、ブリジアは膝を払って立ち上がった。
〜来奇殿〜
正殿で報告すると、エルフ得意のミニチュア庭園の手入れをしていたコマニャスは、途端に不機嫌になった。
「輿に乗った虎の獣人ね。ランディ公妃に間違いないわ。私と同じ階級で、獣雷殿の主人よ」
「はい。確か、獣雷殿と言っていました」
「本当に、『宮殿を移らないか』と言われたのね?」
「はい。あの……私は初対面なのですかけど、どうして誘われたのでしょうか?」
コマニャスは正殿の一番奥に、ブリジアは手前の椅子に腰かけている。
ドロシーとポリンは同席していない。
ブリジアの侍女ソフィと、コマニャスの侍女リーディアが控えている。
「目的ははっきりしているわ。俸禄のためよ」
「……俸禄ですか?」
「俸禄が何か知らないとは、言わないわね?」
「仕えてくれる侍女たちに振る舞うお給金ですか?」
コマニャスは額を抑えた。
「さすがは、人族の王女様ね。ブリジアが言うようなものもあるでしょうけど……私たち妃だって、地下後宮に仕えているのだから、俸禄を受けるのよ。まさか、受けたことがないとは言わないでしょうね。毎月支給されているのだから」
ブリジアは、ソフィを振り向いた。ソフィは頷く。
「もちろん、知っています」
ブリジアの返事を値踏みするように、コマニャスは薄い唇を撫でながら言った。
「妃の階級によって、妃個人に与えられるものと、妃の数によって宮殿に与えられるものがあるわ。宮殿に与えられるものは、宮殿の主人のものだけど……宮殿に与えられる金額は、妃の数だけでは決まらないの。陛下が何回お越しになったか、何時間滞在されたかが数えられて、上乗せされるのよ。月に2回以上お越しになった宮殿は、俸禄が倍になるわ」
ブリジアには、初めて知らされることだった。
「では……各宮殿の主人たちは、妃の取り合いなのですか?」
「無駄に数を増やしても、面倒な仕事が増えるだけなのよ。宮殿の主人が欲しがるのは……その妃が目的で、陛下が何度も訪れる妃ね」
ブリジアは思い出した。魔王は、何度もブリジアを訪れてくる。
初めては侍女たちが目的だと思っていたが、最近では用もなくブリジアの所に来て、世間話をして帰っていく。
泊まっていくことも多いが、毎回夜伽に精を出しているわけではない。
「陛下って……お一人しかいませんよね?」
「あなたが魔王陛下のことを言っているのなら、当然ね」
「私のところに、よく見えていますけど……」
「ええ。お陰で助かっているわ」
「その分、ほかの妃の皆さまのところに行けていないのですよね?」
「当然そうなるわね」
「……私、ほかの宮殿の皆さまに、嫌われているでしょうか……」
思い返せば、他の宮殿に行こうとした魔王を引き止めたこともある。
ブリジアは、今までのことを思い出し、急に恐ろしくなった。
コマニャスが立ち上がり、ブリジアの前に立つ。優しく微笑んだ。
「そう。陛下の寵愛が失われるまで、あなたはこの後宮で、もっとも嫌われている妃なの。だからランディ公妃は、あなたをただ虐めたいだけなのだわ。わかったわね? ブリジアは、私が守ってあげる。ランディがたとえブリジアの移籍を申請しても、きちんと拒否してあげますからね」
「……はい。お願いします」
コマニャスの笑みに肌が泡立つ理由を理解しないまま、ブリジアは応じていた。




