11 熟女たちからの逃走
〜老練殿〜
ブリジアは、老練殿のリルト公妃から、教育という名の虐待を受けていた。
ずっとひざまずいた姿勢で人族の信仰に関する本を写し、トイレにも行かせてもらえず、食事も与えられなかった。
ブリジアはまだ8歳であり、王女としてかしずかれて育った。
「リルト様、私が戻らなければ、コマニャス様が迎えにいらっしゃるはずです」
狭い部屋に監禁され、水だけが与えられた状況で、時折リルトが覗きに来た。
顔を見せたリルトに、ブリジアは訴えた。
「あなたの侍女たちも、来奇殿のお友達たちも帰ってしまったわよ。コマニャスは人族に頭が上がらないわ。どこかの王国が、役に立たないエルフのリンゴを買い上げてくれたおかげでね。私も人族よ。コマニャスは、人族には数多くの国があり、国同士が対立していることを理解していないのよ。私の言うことに従うはずよ。ブリジア、まだ反省が足りないようね」
リルトは、ブリジアが書き写した写本を取り上げ、ぱらぱらと捲ってからブリジアに叩きつけた。
「これで文字なの? 全然読めないわ。書き直しなさい」
「はい」
リルトが出て行く。ブリジアは、地下後宮に来たばかりの頃のような、従順で臆病な少女ではなくなっていた。
妃の一人である。表向きは従っていても、理不尽には戦わなくてはならない。
リルトの足音が遠ざかるのを確認し、扉を試した。
開かない。鍵が掛けられる音がしたのはわかっていた。
侍女のテティは心配しているだろう。だが、少なくともテティが帰る際には、リルトは穏やかに送り出した。
ブリジアと少し話がしたいから先に帰るようにと言ったのだ。
その結果、老練殿にブリジアだけが残された。
リルトのことを知る、同じ老練殿に住んでいるハモンとシリアは、リルトの様子から何が起こるのかを悟っているはずだ。
何も言わず、姿も見せなかった。
与えられたのは非常に狭い個室で、家具もない。
ブリジアは、自分の服を脱いだ。
服で手首を縛り、床に横になった。
「キャー!」
出来るだけの大声で悲鳴を発した。
すぐに足音が響き、扉が開いた。
リルトが顔を出す。
「なんなのですか?」
「ふ、不審者です。私を縛って……リルト様、危ない!」
ブリジアは天井を見た。
出入り口は一つしかない。不審者が天井にいるのではないかと考えたリルトが上を向く。
ブリジアは走った。もとより、手足は縛られていない。服を巻きつけて縛られているように見せかけただけなのだ。
扉から外に出て、扉を閉めた。
回転式の鍵を回す。だが、リルトは内側から開ける鍵を持っているかもしれない。
ブリジアは走った。
目の前に、老練殿に住む妃の一人シリアが姿を見せた。
「ブリジア、リルトさんはどこ? お客が来ているのだけど」
「あ、あっちです」
慌てていたので、思わず自分が走って来た方向を指差した。
シリアはリルトと一緒に、ブリジアたちを着せ替え人形にして遊んでいた女だ。
信用はできないが、リルトのような狂気は今まで見せなかった。
「リルトさんから逃げてきたの? 賢いのね。来奇殿に一人で帰れる?」
「はい」
「なら、裏から出なさい。しばらく、老練殿には近づかないこと。リルトさんは、執念深いわ」
「ありがとうございます」
信じていいのかどうか、はっきりとはわからない。
ブリジアは逡巡した後、シリアの指示に従うことにした。
シリアの指示に従い、また酷い目に合えば、シリアも信用できない人族だと判断できる。
短い時間に、ブリジアはそこまで計算した。
老練殿を出た時、ブリジアは背後で号泣するリルトの声を聞いたような気がしたが、耳を塞いで走り続けた。
※
〜来奇殿〜
もう、決して泣くまいと思っていた。
地下後宮に入内して以来、安心して眠れた日はなかった。
人目を憚らずに泣くこともあった。恐ろしくて失禁もした。
ブリジアは地下後宮で最下層の俗女であろうと、トボルソ王国の王女である。
二度と弱みは見せるまいと決心していた。
だが、老練殿から逃げ出し、リルトに怯えながら後宮内を歩き、住み慣れた来奇殿を目にした時、込み上げてくる嗚咽をとめることができなかった。
来奇殿の門を潜ると、コマニャスと侍女が庭の手入れをしていた。
コマニャスと侍女はエルフ族である。リンゴだけでなく植物全般の栽培が得意なのだ。
「あらっ、ブリジアさん。あなただけ老練殿から戻らないから心配していたのよ。3日間も何をしていたの? あなたの侍女も戻っているというのに」
「コマニャス様、口が利ける状況ではなさそうです」
コマニャスの侍女リーディアがブリジアに近づいて来た。
リーディアは若いエルフ族の娘で、コマニャスと同様に見た目は優しそうだ。
ブリジアは、決して泣くまいと誓っていた。
その誓いは、完膚なきまでに崩れ去った。
安心してしまったのだと、認めざるを得ない。その途端に、老練殿での屈辱と恐ろしさが一気に込み上げて来たのだ。
「ブリジア様、よくご無事で!」
来奇殿の奥から、ブリジアの侍女テティとクリスが飛び出してきた。
「老練殿のリルト様のところで、おもてなしを受けていたのではないのですか? 私はてっきり……」
テティの言葉に、クリスが声を裏返す。
「テティ! おもてなしを受けているブリジア様が、どうして下着同然の姿で、裸足で歩いてくるというのよ! どうして、あなただけ老練殿から引き上げてきたのよ!」
クリスがテティに掴みかかった。
その手が止まる。クリスの足に、ブリジアがしがみついたのだ。
「大丈夫です。私は、大丈夫です」
鼻をすすりながら、ブリジアは訴えた。
「早く、中へ」
コマニャスの言葉に、テティとクリスがブリジアを抱くように体を支えた。
ブリジアは二人の体温に包まれ、体が温かくなるように感じた。
だが、次の瞬間、ブリジアは凍りついた。
「ブリジア! よくも、よくもリディオスを!」
来奇殿の門の外に、髪を振り乱したリルトが現れたのだ。
「ひっ!」
「ブリジアを奥に連れて行きなさい。リルト公妃、この来奇殿の主人は私です。来奇殿を騒がすつもりですか?」
「コマニャス、その子を渡しなさい。私のリディオスが、リディオスが死にかけているのよ」
「ブリジアとなんの関係があるのですか?」
「勇者が現れたのよ。その、ブリジアの国でね。リディオスは、勇者討伐の任についていたわ」
「リルト公妃、落ち着きなさい。ブリジアは無関係です。ブリジアの生家で何が起ころうと、地下後宮から出られないブリジアに何ができるというのですか?」
リルトは、来奇殿の敷居を跨いだ。だが、コマニャスが立ちふさがった。
「リディオスは、両手と両足を切り落とされたわ。こんな屈辱を受けては、もう総督は勤められない。あなたの息子が同じ目にあったら、そんなに落ち着いていられるの?」
「何を騒いでいるのです?」
来奇殿に踏み入ったリルトのさらに背後から、金属をこすりあわせたような甲高い音が声として響いた。
コマニャスが膝をつき、無手と心臓を示す礼をした。
リルトは振り返り、取り乱していたのが嘘のようにコマニャスの所作に従った。
ブリジアは、来奇殿の奥に連れられようとしていたが、祈るような気持ちで柱の影から庭先の様子を伺った。
「皇后様にご挨拶を」
「お立ちなさい」
「感謝します」
コマニャスとリルトが立ち上がる。
皇后デジィは、いつものように輝く衣で金色の肌を覆っている。
連れているのは侍女の姿をしているが、全員が魔族だ。
純粋な魔族は数が少なく、身体能力は人族の比ではないという。
侍女が全員魔族であるというだけで、皇后の権力の大きさがわかるほどだ。
「ブリジア俗女はどこ?」
デジィ皇后の第一声に、隠れていたブリジアはすくみ上った。




