1 人族の王女、魔王の後宮に入内する
地下に設けられた広大な宮殿群の一画が、トボルソ王国の第一王女ブリジア・エル・トボルソの住まいとして定められた。
宮殿の一つ、来奇殿の住人の一人となったのだ。
齢8つの少女である。
トボルソ王国は弱国であり、国を守るために、この世界で最も強い軍隊と広大な領地を持つ魔族皇帝ジランの後宮に、王位を継承する第一順位の王女でありながら、入内したのだ。
トボルソ王国は、魔王領や魔物の集落に隣接した国ではない。人族の巨大な王国に囲まれた国で、魔物の脅威とは皆無である。
皮肉なことに、魔物や魔族が実在するこの世界で、トボルソ王国の脅威は周囲の大国だった。いずれも、トボルソ王国と同じ人族の国だ。
魔族皇帝ジランは、魔王帝あるいは単に魔王と呼ばれ、統治する領地は魔王領と呼ばれる。
種族は人族ではなく、真っ青な肌に鋭く反り返った角を持つ。
魔族と呼ばれる種族を束ね、魔物と呼ばれる存在を使役する。
トボルソ王国歴2654年、魔王歴58004年の出来事である。
人族の王国として、トボルソ王国は最も由緒ある格式高い国ではあったが、魔王の50000年を超える統治には、とても及ばなかった。
「来奇殿へようこそ。ブリジア俗女、歓迎するわ」
ブリジアが輿入れした初日、来奇殿の主人コマニャスは、宮殿の正門前で出迎えた。
すらりと背の高く、髪の長い女性で、何より耳が上方向に突き出ている。
白く透き通るような服を堂々と着られる、細身の体をしたエルフ族である。
ブリジア第一王女の階級は、後宮の妃の中で最下位に当たる俗女と呼ばれる地位だ。
エルフのコマニャスは公妃と呼ばれる上位の妃で、これから住まわせてもらう宮殿の主人である。
ブリジアは、トボルソ国から従った美しい侍女たちを掻き分けて、コマニャス公妃の足元に平伏した。
「若輩者ゆえ、ご指導をお願いいたします」
「まだお小さいのに、立派な物言いだこと。指導してほしければ、役に立つところをお見せなさいね」
コマニャス公妃は、にこりと微笑んだ。
平伏していた頭をあげたブリジアには、薄い唇が横に伸びた、三日月のような口だけが印象に残っていた。
※
輿入れをした時、ブリジアは魔王その人には会わなかった。
魔王は、希望する者は全て後宮に受け入れることで知られていた。
それだけ魔王が好色であり、後宮内で生き残るのが難しいのだと噂されている。
このまま、魔王には会わずに済むのではないかと期待していた。
期待が裏切られたのは、ブリジアが来奇殿の一室を自室として与えられ、王国から運んできた荷物を運び入れた直後のことだった。
「魔王ジラン様の、おなーりー」
よく響く声が来奇殿を震わせた。
「ブリジア殿下、魔王が来るそうです」
王国から連れてきた、侍女のひとりが囁いた。
「わかっているわ。でも、魔王よ。どうすればいいの?」
「殿下、殿下の夫なのです。出迎えなければ、失礼にあたるでしょう」
「でも、私はここに来たばかりだし、来奇殿の新参者で……」
ブリジアが8歳という年齢相応に慌てていると、戸口に細く美しい女性が立った。
「陛下のお成りだというのに、何をしているのです?」
「コマニャス公妃、私はどうすればいのでしょうか?」
「陛下のご来臨の際には、全力でお出迎えするものです。ブリジア俗女、あなたは何処にきているのか、わかっていないのですか?」
魔王の治める地下宮殿である。ブリジアは、魔王の妾として入内したのだ。
何をすべきか、考えなくてもわからなくてはいけなかったのだ。
「そう責めるな。新しい俗女は人族だと聞いている。見た目通り、幼いのであろう」
開かれた扉の前に立つコマニャス公妃の肩に、大きく力強い、青色で剛毛の生えた手が乗せられた。
「陛下、甘やかしては本人のためになりません。この地下後宮のしきたりを、しっかりと覚えさせることが必要です」
「うむ。それは任せる」
言いながら、青い手の持ち主がコマニャス公妃を押した。
コマニャスは部屋に入って跪き、青い手の持ち主が全身を顕す。
力強く、たくましい肉体を、凝った意匠の服で隠している。
青い体と黒髪、黒ひげは、事前に聞いた通りだ。
魔王だ。
ブリジアは、その場に平伏し、額づいた。
「へ、陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅりましょ……」
「よい。面をあげよ」
「ひゃい」
ブリジアが、平伏したまま顔をあげる。
「ふむ。本当に幼いな。朕の後宮に住む半数が人族だが、大半が貴族や部族の長の娘だ。王国の第一王女と聞いているが……そなた、自分が何を求められて朕の城にきたのか、理解しておるのか?」
ブリジアは即答した。答えは一つだ。そう思っていた。
「はい。私は、魔王様の嫁でございまちゅ」
舌が回り切らずに噛んだのは、途中からコマニャスの表情が硬くなっていくことに気づいたからでもある。
「ブリジア、何を言っているの?」
何か間違ったことを言っただろうか。ブリジアは、コマニャス公妃が怒った理由がわからなかった。
コマニャスを制して、魔王が口を開く。
「ほう。正妻を目指すか? 果てしなき、険しき道だぞ。いいだろう。その心意気に免じて、まずは……今日はここに泊まるとしよう」
「陛下、まだ、ブリジアは為せません」
コマニャスが再び口を挟む。魔王が振り向いた。
「なんだと?」
「人族の特徴です。まだ、ブリジアは子を成せるまで成長しておりません。ブリジアをお手つけになるのは、早すぎます」
「構わん。コマニャス、下がれ」
「はっ」
エルフ族の美女は、ブリジアを鋭く睨んでから退出した。
ブリジアは、再び平伏して額づいた。体が震えるのを、止めることができなかった。
ブリジアを平伏させたまま、魔王ジランは部屋を大股で歩き、奥の寝台に腰掛けた。
ブリジアは、体の震えを止めることができず、トボルソ王国からついてきた侍女たちも、青い顔で跪いていた。
「どうした? ずっとそうしているつもりか?」
魔王の問いに、ブリジアは声を出そうとした。
ブリジアを守るように侍女のひとりが進み出た。
「ブリジア様は、まだ子を産むことができません。我らは、ブリジア殿下をお守りするために選ばれた者たちでございます。全員……生娘でございます」
まだ10代の少女である侍女のテティが、8歳児のブリジアを、魔王の視線から隠すように前に出た。
「ふむ。お前の主人が成長するまで、侍女で我慢しろということか?」
「はい」
答えたのはブリジアではない。
「この地下後宮には、妃は30人以上いる。側仕えの者に朕の相手をさせる妃などおらん。主人のお前は、それでいいのか?」
ブリジアの体が震えた。涙が頬を伝う。
第一王女である。宝箱にしまわれた宝石のように大切に育てられた。
恐ろしい目にあったこともない。
男性は、優しく、ひれ伏すものだと思っていた。
「へ、陛下の命であれば、私はいかようにも……ですが、後宮の規則を調べた私の家族が……陛下が規則を重視する方である場合、私に向けられない欲望のはけ口を用意する必要があるのではと……侍女として美しく、才能に恵まれた娘を集めました」
「愚かな! 朕の妃たちをなんだと思っておるのか!」
まだ幼いブリジアを守るため、トボルソ王国の者たちは、美しい娘を選抜して侍女とした。だが、魔王には正室がおり、側室は30人いる。魔王の性欲のはけ口を用意するなど、妃たちへの侮辱にほかならない。
「し、失礼いたしました。す、すぐに下がらせます」
ブリジアは顔を上げ、侍女たちを退出させようとした。
ブリジアの前にいたテティも立ち上がる。
魔王が止めた。
「待て。後宮内には、朕の他に男はおらぬ。雑用を務め、警備をしているのは、魔物のメスたちか性別を持たぬ種族だ。侍女に子どもができた場合、どうするつもりなのだ?」
「私の子として育てます」
ブリジアは答えた。初めから決めていたことだ。
ブリジアの侍女として連れてきた8人の女性は、全員が生娘であり、容姿端麗、文武に秀でた者たちである。
魔王の好みがわからないため、年代も10代から30代まで揃えている。
30代の女性は、トボルソ王国では騎士隊長を務めた猛者である。
「なるほど。では、全員を呼べ」
「承知しました。テティ、お願い」
「はい。ブリジア様」
テティが退出する。部屋に残った数人の侍女たちが、不安そうにみかわしていた。
ブリジアは再び平伏した。
「陛下、お願いがございます」
「全員が揃うまで待てということか?」
「いえ、我が国のことで……」
魔王が鼻で笑った。
「第一王女を側室に差し出したことで、トボルソ王国の魂胆は明白である。朕が庇護するかどうかは……お前次第だな」
「はい。ありがとうございまちゅ」
ブリジアが再びひれ伏した。礼を述べたのは、ブリジア次第でトボルソ王国に関する望みを聞き入れてくれると言ったからだ。
その間に、8人の侍女が揃った。
この日魔王は、ブリジア以外の8人を相手に狂態を演じた。