141.エピローグ 捨てるもの、新たな目標 ①
8日後。ティエラルス寮へ向かう山道を歩きながら、森の景色に目をやった依織は、一息ついて両手を広げると深呼吸をした。新鮮な空気が体中に染み渡り、気分が癒されていくのを感じる。
「自然の源気が満ちているね。トオルくんは毎日こんな場所に住んでいるなんて、ちょっと羨ましいな~」
依織が微笑みながら話しかけると、先を歩くトオルがちらりと振り返った。さらに山道を進んでいくと、小屋がいくつか集まっている集落が見えてきた。
「ここよね?ティエラルス」
依織は一番大きな宿の玄関前に立ち止まった。入口の台座には鳥の首を象った木像が飾られており、その目が光り、くちばしを動かして話しかけてきた。
「こんにちは。この麗しい日に我が家を訪れるとは、いったいどのようなご用件ですかな?」
「615小屋の左門トオルさんの友人です。先日、彼と約束していたので、今日お邪魔しに来ました。」
「なるほど。それでは、“マスタープロデタス”を見せてもらえますか?」
「はい、どうぞ」
依織はバッグから水晶の札を取り出し、宿のセンサーにかざした。水晶札には薄い青混じりの、白金色の材質に作った剣と盾が幾何学模様の薔薇を描き出すように組み合わさった紋章が浮かび上がる。
「ほう……お立派なものをお持ちの嬢さんですね。いつでも歓迎しますよ」
木像がどこかエロじじいような口調でそう言われると、依織は苦笑いを浮かべ、胸を守るように腕を組んだ。
「ありがとうございます。では、中に入ってもよろしいですか?」
「迷子にならないよう、案内精霊を付けて差し上げましょう」
すると、草むらから小さな発光体が飛び出してきた。それは、全身が輝く六枚翅の蝶々のような精霊だった。依織の目の前でホバリングし、先導するように宙を舞う。
「ありがとうございます……」
扉がひとりでに開き、精霊がひらひらと中に入っていく。それを追うように依織も足を踏み入れた。
*
ティエラルス516号小屋のリビング。
「クロディス、これが……これがもう限界だ……!」
トオルは額に汗を滲ませ、苦しげな表情を浮かべながら呻いていた。その目はぎゅっと閉じられ、集中力を保つための意識が散りそうになっている。
「ふふ……これくらい耐えられなくてどうするの?こんなんじゃ女の子に笑われるわよ?」
目の前のクロディスが優雅に微笑みながら、囁くように言う。その口調は優しい愛撫された気分ありながらも、トオルを労わる温かさを含んでいた。
「この熱さが“普通”なのか……?」
「そうよ。これくらいの源気注入に耐えられないようでは、源使い同士の本格的な術式にも耐えられないわ。それどころか、子供さえ作れないわよ?」
「胸が……心臓が……ちぎれそうだ……!」
「それは、トオル自身が心の中に作り上げた“限界”の壁よ。それを打ち破らない限り、潜在能力を開発することなんてできないわ。意識を集中して、呼吸を整えて」
部屋の中央には二人が座り込んでいる。トオルとクロディスは下着姿で、向かい合いながら両手を合わせていた。床には直径1メートルほどの紋章が輝き、その光の輪が二人を包み込むようにゆっくり回転している。
クロディスは、自身の体内に宿る源気を、両手を通してトオルへ送り込んでいた。
その頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「あっ……依織さんが来たみたいだ……!」
「だめよ。」
クロディスが平穏に言い放つ。
「術を途中で中断すると、命に関わるかもしれないのよ」
「えっ、でも……!」
「動かないで私に任せて」
外ではタマ坊が玄関へ向かい、鍵を開けて扉を開ける。その先には依織が立っていた。
「タマ坊!修理はもう終わったのね!」
タマ坊は元気そうに頷き、手を挙げて依織を迎えた。
「相変わらず元気な子ね。さて、トオルくんはどこかしら?」
依織が首を伸ばして視線を遠くに向けると、そこにはトオルとクロディスが何やら親密そうな様子で向き合っている光景が目に飛び込んできた。その瞬間、依織の思考は止まり、身体は硬直した。
一方で、依織の登場に気づいたクロディスは、わずかに眉を寄せて溜息をつき、施術を中断。トオルの胸元に輝いていた紋章の光も、静かに消えていった。
星が消えたような目をしたまま数秒間固まっていた依織だったが、やがて目を細め、硬い笑みを浮かべてトオルに問いかけた。
「トオルくん……お二人は一体、何をしているの?」
その声に反応して、兄妹は揃って依織の方を振り向いた。クロディスは相変わらず落ち着き払っているが、トオルは明らかに慌てた様子で弁解を始める。
「あの、依織さん、これは、深い意味はないんだ!見たことを勘違いしないでくれ!」
トオルは慌てて手を伸ばしながらそう言ったが、その言葉に依織は首を傾げ、何やら嫉妬のような感情が胸の内で燃え上がるのを感じた。そして、凄まじい気迫を放ちながら再び問い詰める。
「勘違いって、どういう意味かしら?」
その声色は一瞬で豹変し、目を細めた表情はまるで獲物を睥睨する獣のよう。怒りを含んだ声で罵る。
「この破廉恥者!獣!自分の妹にそんなことをして恥ずかしいと思わないの!?」
「いや、違うんだ……これは単なる修行で、限界を超えるための施術なんだ」
「修行?それなら、どうして2人とも下着姿なのよ?」
「そ、それは……この施術は身体がすごく熱くなって汗もかくから、薄着のほうが効率的なんだ……」
「妹相手に効率って、どういうこと!?」
依織の追及にたじろぐトオルを尻目に、クロディスが冷静に口を開く。
「依織さん、この施術は輸血のようなものよ。身内のほうが相性が良くて効果的なの。トオルが自分の潜在能力を引き出したいというから、最善の方法を取っているだけ。それとも、血の繋がりのない女性にさせたほうが良いとでも思うの?」
クロディスの理路整然とした説明に加え、その美しい容姿も相まって、依織の目には彼女とトオルがどうしても兄妹には見えない。トオルがこの美しいクロディスとスキンシップを取っていることに、依織の胸中で嫉妬の波が激しく揺れる。
「いや、それでも、真昼間に男女二人がこんな場所で密着しているなんて、どう見ても……不健全よ!」
「でもクロディスは僕の双子の妹で、学校の先輩でもあるんだ。それに彼女はレベルが高いから効率も良いし、ポイントもかからない。身内を頼らないなんて、むしろ勿体ないだろ?」
トオルのあまりにも無邪気な理屈に、依織は思わず遠い目をしてしまう。
「トオルくん、毎日こんなことをしているの?」
「いや、毎日は無理だって……」
「この馬鹿シスコン……」
(兄妹だからってこんなことが許されるなんて、ダメだわ……価値観が覆されそう。でも、何て羨ましいのよ……)
依織は心の中でそう思いつつも、その思いを素直に口に出すことはできなかった。その様子を見たクロディスは、知的な微笑みを浮かべながら提案する。
「もし依織さんが十分な実力を持っているなら、術式を少し改良して、あなたがお相手をすることもできるけれど……まだ未熟よね?」
「い、いや……別に私がしたいなんて思ってないし!」
赤面して言葉に詰まる依織。その姿を見たクロディスは幼子を見るような微笑を浮かべ、内心でこう呟いた。
――依織さん、恋心がまだ未熟なのね。
さらにクロディスは続ける。
「それとも、私があなたをお相手しましょうか?源気の性質を転換する術式を加えれば、あなたも限界突破ができるようになるわよ?」
「えっ……私がクロディスさんと?」
突然の提案に、依織の頭は混乱し、どう反応すればいいのか分からない。
「も、申し訳ないですが、心の準備がまだなので、また今度……!」
(思っていることと、言葉が噛み合ってないわね……依織さんが魔導士になれる可能性はまだ低そうね)
「それは残念ね。ま、どうぞ座って、お茶を淹れてくる」
そう言ったクロディスは背を向いて、リビングを通って段差を越えて、ダイニングに入って、キッチンに入った。