八話
「ただいま~」
家に帰るとすでに親父の靴があった。八時を過ぎているし、すでに夕食を食べているだろうか。朝食は母ちゃんが作るが、看護師で夜勤の日も多く、夕食は親父が担当なのだ。
――バタバタ、プツン!
急いでテレビを消す音がした。ソラが不思議そうに「んん?」と呟く。
またか……。
ゆっくり靴を脱いでリビングに入る。親父が黙々と夕食を食べていた。
「遅かったな。遊びに行ってたのか?」
平静を装った声。だが額には脂汗がにじんでいる。
おそらく、テレビでプロサッカーを見ていたのだろう。時間的に録画だろうか。そこに俺が帰ってきて慌てて消したのだ。
もともとサッカーを始めたのは親父の影響だ。昔は一緒にテレビにかじりついていた。
だが――俺はもう見ていない。一緒に見ようと誘う親父を避け続けていたほどだ。以来、俺の目を盗むように書斎にこもりスマホで見るようになった。テレビで見ていたのは大画面が恋しくなったからだろうか。
俺のそこまで考えたのを親父も察したのか、気まずそうに肩がこわばる。
「ユキと一緒に街に行ってたんだよ~。マンガを買ったんだ~」
ソラが袋から取り出して見せびらかす。重たい空気にならずにすんでほっとする。
「ああ、俺もソラのおすすめで買ったんだよ」
「朔夜もか? そうか……」
噛みしめるようにつぶやいた。俺が金を使うのが珍しいのだろう。
趣味もなくだらだら時間を過ごす俺を心配しているのだ。嬉しそうに言葉を続ける。
「小遣いは足りてるか?」
「いや~、それが使い切っちゃっ――もがっ!」
「大丈夫だ。貯金はたんまりあるしな」
余計なことを言うソラの口を塞ぐ。親父は甘いので際限なく小遣いを与えかねない。
俺の事故で得た慰謝料は二千万をこえている。使い道の分からない親父はことあるごとに小遣いを渡そうとするのだ。俺の義足にも通院にもその金には手を付けていないのでほとんど全額残っている。
自分で言うのもあれだが、裕福な家なのだ。金はある。しかし、それ以上に大事な何かが欠落しているような虚しさがあった。
金はあっても足は戻らない……。
支えなしでは街を歩けず、由紀に頼ってばかり。人並みの運動量を確保できないので早死にしやすいとも聞く。ハンディキャップ持ちだが勉強もできないので就職も難しいかもしれない。
自立はできないだろう。いつまでも親に、由紀に、友達に頼ってばかりの未来が容易に想像できる。それ自体は仕方ないが、問題なのはなにも恩返しをできていないことだ。それどころか、けがをした当初はうっ憤を晴らすため親父に八つ当たりを繰り返すばかりだった。そのせいで今も親父は過剰に俺に気を遣ってしまいうまく話せない。もう六年になるのに、気まずい関係性はいつまでも変わらないままだ。
「とりあえず手を洗ってこい。夕飯は食べてきてないだろ」
俺とソラは自室に荷物を置いて手を洗い、リビングの席に着く。和食だった。旬のサンマの香ばしさが鼻を通りぬけていく。味噌汁も母ちゃん直伝でしっかりとだしがきいているのだろう。ホカホカと湯気の立つ夕飯を前に、ソラの目は輝いていた。
手を合わせ「いただきます」を合図に食べ始める。ソラはサクヤが~ユキが~と今日の出来事をしゃべり続けていた。楽しそうな話し声にリビングの雰囲気が明るくなる。親父と二人きりでは重苦しかったのでありがたかった。
俺は黙々と箸を動かして夕食を終え、ごちそうさま、と食器を流しに持って行く。早くこの場から離れたかった。
「そうだ朔夜。悪いが風呂の前にソラナちゃんの荷ほどきを手伝ってくれないか。荷物が届いてるんだが、僕はいまからオンラインで研修……というか、社長との面談がね」
「それはいいけど……ソラは大丈夫か? 勝手に部屋に入ることになるが」
「ボクはへーきだってば。サクヤが手伝ってくれるなら百人力だよ~」
「力仕事があれば残しておいてくれ。あとで僕がやる」
「……わかった。先に行っとくぞ」
言い残してそそくさとソラの部屋に向かう。一階の浴室の隣、もともと物置として使っていた場所だ。中に入るとすぐに甘ったるい匂いが漂ってきた。ソラの匂いだ。たった一日でこれほど変わるのかと驚いた。
五畳半の部屋の隅にぽつんとたたまれた白い布団。その横に段ボールがこれでもかと積まれている。一人でばらすのは骨が折れそうだ。
「ま、せっかく頼ってくれたしな」
リビングから持ってきたカッターで段ボールを開けていく。といっても上に積まれている大きなものは義足では動かせないので小さいものだけだ。
人に頼られるのは嬉しい。男なのに力仕事をできないのは悔しいが、こんな俺でも認められた気がするから……。
すべての箱を開封したころにソラもやってきた。
「お~、たくさんだ」
「ちょっと多すぎないか。何が入ってるんだよ」
「ふふん、女の子の秘密は暴くものじゃないよ~」
ニシシ、といたずらっぽく笑う。中学に上がってからは由紀の家に泊まったことはことはないので、女子の生活は謎に包まれていた。
「えーっとこれは……」
開けた段ボールをソラが確認していく。プライバシーと思い中身は見ていないのでどう片付けるのか見当もつかない。
「サクヤ、洋服はどこにしまえばいいかな」
「そこがクローゼットになってる。中にタンスもあるぞ」
もともと倉庫として使っていたが、その前は子供部屋にするつもりだったらしく、西側の壁にクローゼットが収納されていた。
「おっけー。じゃ、まずはこれをしまって」
小さめの段ボールを手渡される。洋服が詰まっている割には軽かった。
不思議に思いつつ開けると白い衣類が顔をのぞかせる。
――受け取ったときに察せない己の経験不足を後悔した。
「下着じゃねえか!」
目を背け、慌てて後ずさる。バランスが崩れて尻もちをついてしまった。
ふ、フリルついてた……。リアル下着……。
ちらりとソラを盗み見る。段ボールと交互に視線が見比べてしまった。
「形が崩れてるやつは畳みなおしてタンスにしまってね」
「だれがやるか恥じらえ乙女ぇ!」
俺の葛藤もつゆ知らず、別の段ボールを広げつつ当たり前のように注文してくる。意識してないのかこちらを見ようともしない。
こいつには恥じらいがないのか……? イギリス人ってこんなもん……?
「え~、手伝うって言ったじゃないか」振り向いて口をとがらせる。
「手伝うけど、手伝いますけど! 衣類は違うじゃん。なんなら普通の服でもギリギリアウトじゃん」
「サクヤはワガママだな~。じゃあこっちお願い。ちょっと重いから下に置くね」
積まれていた段ボールの一つを床に置く。
「本当だな? こんどは見ちゃいけない用品とかじゃないよな?」
「心配性だな~」
俺の反応がおかしいのかけたけたと笑う。
いたずらを仕込んでないかと恐る恐る段ボールを開けた。
「あ~よかった、漫画か」
少女漫画だろうか。おそらく全巻セット、二十七冊がびっしりと詰められていた。
なんでホームステイにこんな荷物を持ってくるんだよ。
段ボール一つでもかなりの重さ、かなりの体積だ。輸送費はかなりかかるだろうし、部屋を圧迫するのも間違いない。どれだけ好きなんだと呆れてしまった。だが。
……俺には、そこまで熱中できるものがない。
羨ましくもあった。俺にこれほどの熱意はない。ぽっかりと開いた胸には虚しさだけが満ちている。
お互い作業があるので顔はそこまで見られていないだろうが、口数が減ったのでブルーな気分を見抜かれたかもしれない。