七話
雪宮氏は北が海、南が山になっており、東西に交通網が広がっている。住宅街の西部は静かなところだが、東の中心街ともなればかなり人が多い。田舎と都会の要素が混ざり合った奇妙な空気感である。
学校からバスに三十分ほど揺られて到着するとすっかり高層ビルに囲まれた街中だ。傾いた太陽の光がビルの窓に反射してキラキラと輝いている。オレンジに包まれた街はどこかゆったりだ。勉強から解放され、しかしまだ遊んでいることを許されているような不思議な時間帯だ。
街中は義足にも優しい設計になっているが、地理的に風が強いのと、地面の絶妙な傾きが危ないので由紀と手をつなぐ。
「は~、これがジャパントーキョー。ビルがいっぱい」
歩いていると、ソラが目を丸くして呟いた。
確かに中心街はかなり発展している。だがさすがに東京とは比べ物にもならない。
「違うぞ、東京はこれの百倍すごい。ちなみにあれはただの電波塔で東京タワーではない」
「なに言ってるのさ。百倍って、ロンドンが負けちゃうよ」
「ロンドンは景観を大事にしているから高層ビルは建たないんだよ。例えばあそこに見える巨大なビルは『ディロー社』のものだぞ。ロンドンの本社よりずっと大きいだろう?」
そこまで言って思い出したが、親父はソラを社長の娘と言っていた。ディロー社には親父も勤めている。世界的に有名なイギリスの化学系企業で、雪宮町が発展したのは、高度成長期にディロー社がやってきて大量の雇用先が生まれたからというほどだ。つまり、あの大企業の社長令嬢というわけで。
……実はすごいお嬢様?
親父が当たり前のように言うから麻痺していたが、ソラはとんでもない人なのかもしれない。なぜうちに押しかけて来たのか。なぜ親がそれを許したのか。目の前の少女に対していくつもの疑問が湧いてきた。
「ディロー社、かあ」
ぽつりとつぶやく。哀愁が込められていた。
「ソラ……?」
「ボクとサクヤが出会ったのもここら辺だったよね~」
一転、明るい声で顔をあげた。ご機嫌なニコニコ顔である。
「そうだったっけ?」
「うん! あそこの高架下でこのベレー帽を買ってもらったんだ~」
ほとんど覚えていなかった。罪悪感がチクリと胸を刺す。
「でも……あの時と全然ちがうね。こんなにビル多かったっけ」
「六年あれば街は変わるだろ」
「そっかぁ。ちょっと、さみしいなあ。思い出だったもん」
仕方のないことだ。月日は人も街も変えていく。俺がサッカーを見なくなったように。由紀が料理を始めたように。
「昔は街にスーパーなんてなかったらしいしな。近所にまだ商店街があったし」
「こっちのほうが安いからありがたい」由紀が無感動に言った。
「業務用だしな。でも、なんか寂しいよな」
親父に連れられて商店街に行ったのを覚えている。おじさんたちはみんな気さくで居心地が良かった。今はもう寂れてシャッター街になっている。もうあの温かさはどこにもなく、都会のような冷たい近所関係だった。
「商店街はもう不便。買い物はスーパーが楽」
さらっと現実的なことを言うが、由紀が買い物をするなんて今までなかった。放課後はたいてい俺の家に上がり込んでダラダラしている。急に買い物なんて言い出したのが不思議だった。
……あ、弁当か。
今日の昼休みも弁当を渡してくれた。また材料が余ったからと言っていたが、そうは思えないほどの完成度である。余りものの消費にタコさんウインナーは作らないだろう。
もしかして俺のためなのだろうか。弁当のために料理を学んだのだとしたら……。
「朔夜、ニヤニヤしてる。キモ」
「しっ、してねえし! ニヤニヤ、全然、してねーし!」
口元を隠して顔を背ける。今まで料理をしてこなかった由紀が、台所に立っている姿を想像すると胸が温かくなる。
「と、とにかく行くぞ。スーパーは荷物になるから先に本屋な」
「おー!」
「……」
不満そうな由紀を無視して歩き出す。
着いたのは街で一番大きな書店。八階建てのビルすべてが売り場だ。
中に入り、エレベーターに乗って漫画コーナーのある六階に向かう。扉が開くと見渡す限りの漫画売り場がそこにはあった。少年漫画の広告をリピートしている巨大なモニターがひと際目立っている。キャラクターの等身大パネルがあちこちに設置されており視覚的ににぎやかだが、本屋の静けさは失われていない。心地いい雰囲気だった。
「わ~お、これ全部がマンガ売り場なの⁉ さすがマンガのジャパンだね~」
目を輝かせて見渡している。今までで一番いい笑顔だ。
「やっぱり日本の本屋は品ぞろえが違うとか?」
「イギリスで少女マンガはマイナーだからね~。もはやこのために日本に来たと言っても過言じゃないよ~」
弾むような声とともにずんずん歩いて行く。
少女漫画のコーナーに来ると目つきが変わり、真剣な眼差しで作品を吟味し始めた。
ほんとにマンガが好きなんだな……。
「えへ、えへへ、マンガが、いっぱい」
「……ソラ?」
「知らない、作品が、たくさん。……じゅるり」
息づかいが荒い。不安になりつつ横から顔を覗き込むと、口元はだらしなくニヤニヤ、目は取りつかれたように焦点があっていない。口の端からはよだれが垂れていた。
「お~い?」
「もらったお小遣いが五千円だから……十冊はいける。いや――違う。冊数は減るけどこっちの限定版は確保して……」
一瞬にして自分の世界に入り込んだのか、目の前で手を振るもまったく気づいていない。それどころかさらに虚ろな目で指を折り始めた。
マンガが好きというか、もはや取りつかれてない?
取り残された俺と由紀が所在なくぽつんと立ちつくす。売り場のピンク率が高いからか落ち着かなかった。
「これが外国のオタク……」
「いやここまでなのは例外だと思うけど」
「二人で帰らない?」
「さすがに置いて行くのはなあ。……そうした方が幸せそうな気はするけど。放置したら本屋の妖精になって一生住みつきそう」
「怖い」
同感である。明るい美少女という印象は完全に崩れ去った。本屋でぶつぶつ独り言を言い続ける今の姿を見せれば学校での人気も急落するだろう。
「ねえねえ、サクヤはどんなの読みたい? 読みたそうだから貸してあげるよ」
くるりとこちらを向いて言ってきた。だがまだ目の焦点はあっていない。ホラー映画のような恐怖で背筋が凍りつつも必死に笑顔を浮かべる。
「お、俺はいいよ。ソラが親父からもらった小遣いだし、自分のために使えって」
昨夜、親父からもらった一か月分の小遣いである。親父もまさか翌日にすべて使われるとは思っていなかっただろう。
「違うって。布教はボクのためなんだよ。サクヤは黙って布教されて。少女マンガはジャパニーズの常識なんだから」
「ソラの日本人観はかなり歪んでないか……?」
「サクヤはどんなのが好きなの?」
言われて考え込む。あまり漫画は読まないのだ。全年齢向けで最後に読んだのは高校入学直後にマンガ喫茶で読んだバスケマンガくらいである。
そう、全年齢向けのマンガは……。
……他意はないけどね? 十七歳だし。
「熱いスポーツ漫画が好きだな。サッカーとか」
「う~ん、スポーツかぁ。少女マンガには少ないな~」
むむむ、と吟味するように棚を睨みつける。あらゆる少女漫画で埋め尽くされて色とりどりの世界が広がっていた。
「あ、これとかどう? カルタテーマなんだよ」
一冊の漫画を手に取ってみせてくる。表紙は紅色に彩られ、こちらを見つめてくるかのようなヒロイン一人が描かれていた。漫画だと侮っていたが、これは一枚の絵画のように美しいと思った。
「かるた? 珍しいな」
「すっごく熱いマンガなんだよ! ラブは少ないけど、だからこそあまり少女マンガを読まない人にもお勧めできるんだ。かるたの奥深さとか、熱いバトルとか、キュンキュンするラブストーリーとか見どころたっぷりだし、サクヤも絶対好きになるよ!」
「お、おう……」
早口でまくしたてられる。瞳の闇がどんどん深くなるように見えて怖くなり後ずさった。
由紀も引いているのか顔が引きつっている。
「ボクが持ってるのは英語版だから貸せないし、布教用に買っちゃおっかな。これは四五〇円だから、十一巻までを……」
「ストップ! ストップだ! そんなに買っても読めないから! それに俺のためにそんな金を使う必要もないから。自分の読んでない作品を買えって」
「サクヤはオタク心がわかってないな~。布教と推しへの貢物をいっぺんにできるんだから。これはボク自身のためなんだよ」
「まって貢物ってなに」
少なくとも現代の学生が使う言葉じゃない。
「とにかく無駄遣い禁止だ。この漫画は俺が自分の金で買うから。三巻まで」
「ぶ~、横暴ぉ~。なんでも禁止禁止じゃつまんなーい」
「うるせ。親父に言いつけるぞ」
「ぶ~~~~~~~」
口をすぼめてぶーたれている。かわいそうだとは思ったが正気を失った目で冷静な判断をしているとは思えないので誰かがストップをかけなければ。
「俺も小遣いもらったしな。ソラのおすすめなら面白いんだろ? 十巻は無理だけど、序盤くらいは読んでみたいから自分で買うよ」
毎月もらう小遣いだが、俺はあまり使わない。趣味がないのだ。貯金は貯まっていく一方なのでむしろいい機会である。
「……へ? ほんとに買うの?」
「なんだよ。おすすめじゃないのか?」
目を丸くしている。虚ろさは消え失せていき、正常な光が戻っていた。
「おすすめだけど……」
「読み終わったらソラにも貸してやるよ」
「……」
三秒ほど固まりきょとんと俺を見つめると、「えへへ~」と顔をほころばせた。
「そ、そっかぁ。そっか~」
「なんで嬉しそうなの」
体をくねらせるソラに由紀が蔑みのトーンで言う。
「布教が成功したオタクはみんなこうなるんだよ~」
「え、オタク、怖い」
「由紀、大丈夫だ。多分こいつは例外だから」
由紀の偏見が増えそうなので訂正しておく。……偏見、だよね?
「じゃあボクは何にしようかな。やっぱり当初のプラン通り――」
ソラは再び本棚を睨みつける。邪悪なオーラを漂わせて吟味する姿は時代劇に出てくる悪のお代官様のようだったが、幸いすぐに決まったようで十冊ほどを両手に抱えた。
ソラにセルフレジの使いかたを教えつつ精算して外に出る。一時間もたっていなかったが、日はビルの向こうに沈み夜の街に変化していた。空は暗いはずなのに、どこもかしこもピカピカ光っていて目まぐるしい。
「スーパー」
遅くなったことを責めるように由紀が言った。ごめんと謝ってから三人で歩いて行く。連れられて緑の看板をかかげた七階建てのビルに入ると目の前に生鮮食品がずらりと並んでいた。安い、とでかでかと書かれた黄色のポップが目に入る。タイムセールを知らせる声や、ラジオから流れる独特なテンポの音楽が響いていた。
「初めて来たな。業務用って普通の野菜とかも売ってんのか」
「業務用は三階から。ここは普通のスーパー。でも同じ会社だから他より安い」
店内は主婦で溢れていた。誰もかれもカートいっぱいに商品を詰めて行きかっている。三人で歩くには大変そうだ。
「こっち」
由紀に引っ張られて中に入る。由紀はスマホのメモを確認しつつ、慣れた様子ですいすいと目的のものをかごに入れていった。ちなみに、右手は俺とつなぎ、左手には鞄を持っているので荷物持ちはソラが担当している。本来なら男の仕事だが、俺は重いものを持つとバランスを崩すのだ。
「む~、人が多いよぉ」
ずんずん進む由紀と俺に対して、ソラは人の波に押されている。苦悶の表情を浮かべて泳ぐように俺たちに追い付いた。
「由紀は慣れてんな。何度も来たことあるのか?」
「最近は結構。交通費を考えてもこっちが安いし」
「ここまで来るのは手間だろ? そこまで安さを求めるのかよ」
由紀は無視してそっぽを向く。
……あ、そっか。
由紀の家はあまり裕福ではない。子供のころから何度も家に遊びに行ってるので気にしていなかったが、かなりぼろいアパートだった。一方、俺は一戸建てでかなり裕福な生活をしている。家事をまともにしたこともないし、感覚に大きな差があるのかもしれない。無神経な発言だった。
とはいえ謝るのもそれはそれで上から目線のような気がして、どうすればいいかわからず買い物を終えて外に出るまで黙っていた。