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幼馴染と手をつなぐ  作者: 高橋もみぢ
五章 月の下の雪
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三十五話

 十二月の放課後はパン工場に通っていた。

 日雇いでは他に試験監督やティッシュ配りがあったが、どれも毎日は募集していない。条件を考えるとここが最適だった。


 初日はまず休憩室に通され、上司に給食係のような服を支給される。中田君と呼ばれている大学生も今日が初めてらしく、受け取った服をじろじろと眺めていた。

 簡単な研修として手洗いと梱包の方法について教わる。中学生でもできそうな単純作業だった。十分もしないうちに終わり、更衣室に案内される。


 上司が出ていくと中田君が話しかけてきた。


「望月さん、がんばりましょ! おれら同期みたいなものっしょ!」


 いかにも大学生らしく髪を金に染め、金属のネックレスをしていた。帽子をかぶるので基本どんな格好でもオーケーなのだ。時折義足に視線を感じるが、さほど気にした様子はない。何が面白いのかとにかくテンションが高かった。


「え、ええ。ですね……」


 イケイケオーラが全開だ。この手の人とはあまり付き合いがないので気圧される。


「いや~、おれ、腕時計欲しいんすよ。ろれっくすってかっこよくないすか?」

「そうですねぇ……。あ、そろそろ時間ですよ。早く行かないと怒られちゃうかも」


 疲労がたまっており誰かと話す気分ではなかったので強引に打ち切る。


「……っとと、ほんとっすね。初日からクビはいやっすもんね」


 鼻歌交じりに中へ向かう。遅れてもクビにはならないだろうと心の中でツッコんだ。

教えられた通り念入りに手を洗う。中は全体的に薄暗く、ゴーッと巨大な機械の音が響いていた。すでに大量に流れているパンを先輩たちが素早く袋に詰めている。職人のような手つきに見とれていたが、上司に命令されて中田君と二人で割り込んでいく。


 パンを詰めるだけの単純作業なので俺でもできる。問題は立ちっぱなしなこと、作業が単純すぎて集中力が切れてくることだ。最初の二時間を超えると足の付け根が強烈に痛み出した。義足で杖もつけないので身体のバランスがずれており、重心が傾いているのだ。不快な疲労がじわじわと侵食してくる。右足に体重を任せるとこんどは足の裏が痛くなってきた。


 さらに工場内は熱がこもっている。額に、首筋に、背中に汗がだらだらと流れていく。義足の付け根にも熱気が籠っているだろう。ユニフォームも汗で染みになっているに違いない。


 しかもここ最近は寝不足だ。十一月なので水分補給への意識も薄く、知らぬ間に水分が失われ、頭がぼーっとしてくる。それが何時間も刺激のない仕事で襲ってくるのだ。ついに脳がバグったのか幽体離脱したように魂が体からすーっと離れていき、工場を俯瞰するような位置にまで来た。その間も俺の身体はせこせこと働いている。


 映画で見た奴隷を思い出した。


 意志のないロボットがたくさんいる。俺もその歯車の一つ。心を無にして意味のない時間が過ぎていく――


「おれ今日でやめる」


 仕事が終わると中田君はそう言った。目はどす黒くに濁り、快活さは消え失せている。

 引き留める理由はなかった。すぐ辞められるのがアルバイトのいいところなのだから。

 一人残された休憩室でパイプ椅子に座る。


「大丈夫だって。あと二週間もないんだぜ? 大丈夫だよな、俺」


 独り言をつぶやいた。







 次の日は早野さんがやってきた。三十代の女性でパート希望らしい。


「よろしくお願いしますね、先輩」

「い、いえ……」


 ちょうど同じ時間にスタートだったので話しかけられた。控えめな可愛さがある人で、地味だけど美しい花のようだった。例えるならクラスで六番目にかわいい女子だ。


 ……翌日にはもうこなかったが。


 初日が終わった後、化粧が崩れてボロボロの顔をしており、目も濁り切っていたのでなんとなくわかっていた。

 イメージでパン工場には女性が多いと予想していたが、実際にはやや男性比率が高い。やはり体力がある方が有利なのだろうか。


 まあ、楽な仕事ではないからなぁ。


「望月君は疲れたら休んでいいからね? ほら、仕方ないんだし」


 三日目の更衣室で着替えていたら上司に言われた。


「へーきですよ。このくらいなんともないですって」


 実際はかなり限界が近かったが、強がっておいた。義足ではできないことも多いが、これは頑張ればなんとかなることだ。その努力を放棄するのは嫌だった。

 特別扱いはされたくなかった。人並みの成果を出して金をもらわなければ意味がない。

 金をもらうだけならこんなに働く必要はないのだ。親父から小遣いはたっぷりもらっているし、将来も年金があるからなんとかなる。それでもバイトをするのは誓いのためだ。汗水のしみこまない誓いなど、何の意味がある。


 金は力だ。弱虫ではこの社会で生きていけない。どれだけ祈ろうと、力がなければクリスマスにサンタクロースはやってこない。力なき祈りなど薄っぺらい言葉遊びだ。

 でも力だけではいけない。力があろうと祈りがなければ生き抜くのは難しい。力ではどうにもならない理不尽に対抗するため、人は祈りを編み出した。


 力に祈りを込めて、初めて実体を伴った誓いとなる。

 何時間も連続の作業で足が痛い。身体が重い。頭がぼーっとする。

 何カ月も孤独に走り続けて精神も限界に近い。どんなに強がっても、ある日ふと気まぐれに投げ出したくなる。

 だから実感する。多分、事故にあってから初めて。


 俺はいま、生きている――







 けれど人間は身体に囚われている以上、限界がある。

 いつものようにパンの梱包をしていると、ふと視界が歪んだ。

 衛生上、目はこすれない。瞬きでぼやける視界を誤魔化して作業を進めていく。

 今度は耳が聞こえなくなった。工場を満たすゴーという音がだんだんと遠くなっていき、しまいにはプツンと切れる。ベルトコンベアの音も聞こえず夢の中にいるようだった。


 かなりやばい。


 一度だけサッカーの試合中に倒れたことがある。あの時もこんな感じだった。集中しているからと錯覚していたが、身体が悲鳴をあげていたのだ。

 倒れてまずいと思い声を出して助けを求める。――が、声はでなかった。喉の付け根をつかまれているみたいに音が出てこない。空気の振動のさせ方がわからない。これは初めての症状だった。

 視界が揺れ始めた。ぐわんぐわんと、世界が回る。

 俺は手をバタバタとさせた。助けてと叫ぼうにも声にならない。手を伸ばしても、みんな死んだような目でベルトコンベアを見つめて気づかない。


 その間にも俺の身体は深海に沈んでいくように苦しくなる。もがいても浮上できずただ溺れていく。

 視界がだんだんと暗くなり、そろそろ真っ黒になるなと予想したその直後。

 残っていた光も消え、テレビの電源が落ちたようにプツンと意識の糸が途切れた。






 目覚めると病室だった。部屋は暗い。カーテンの奥にも夜の気配が漂っていた。


「ここは……」


 がばっと上体を起こして辺りを確認する。一年前に入院した部屋と同じ構造だった。鼻を刺激する消毒薬も、恐ろしいほどの静けさもまったく同じ。違うのは、となりに由紀がいないこと。


「くっそ、これぐらいで……」


 なに、倒れてんだよ。

 身体からは点滴の管が伸び、ベッドの横で吊るされたパックから液体が落ちてきている。身体を見ると、病衣に着替えさせられていた。


 まさに敗北者の姿だった。ゲームの主人公のように、モンスターに敗北してセーブ地点に戻されている。それが病院というのは俺らしい。


 義足は外されてベッドの横に立てかけてある。その横には持っていたバッグもあった。持ち上げて中を見ると白い封筒が入っていた。


『二週間分の給料です。ゆっくり休んでください』


 工場長の手紙と金が入っていた。倒れて働いていない分もきちんと時給が出ている計算だ。気遣いを無駄にして倒れたのだから彼に責任はないというのに……。


 心の中で礼を言う。これでぴったり足りる計算だ。小さな財布に強引に金を詰める。

 スマホを見ると十五日の午前五時。今からならまだ、間に合う。

 身体はまだ重かった。一年分の疲労がずっしりとのしかかり、ベッドに押さえつけられているようだ。頭痛は激しく、腕も足も動かしにくい。さすがに無茶をしすぎた。


 ――だからなんだってんだ。


 腕をまくり点滴の針を抜く。少しだけ血がにじんだ。

 音を立てないように義足を装着して立ち上がる。足に力が入らずフラフラとよろけたが、気合でバランスをとった。寝起きで鈍い頭を叩いて強引に起こす。


 杖は音を立てるので持って行けない。スマホと財布を手に取ってこっそり病室を出た。

 暗闇に包まれた廊下は恐ろしいほど静かだった。無機質な白い壁がどこまでも続き、冷たい空気が肌をなでる。足音を殺して歩く。


 七年前に入院したときもこうして脱走を試みたことがある。けれど一度も成功しなかった。義足では動きにくく、また小学生の計画ではすぐに看護師さんに捕まるのだ。


 だが今は違う。何度も失敗した経験がある。ずっと義足を使ってきて技術もある。

 手すりにつかまってゆっくりと階段を下りていく。時折聞こえる足音から身を隠しつつ一階の裏口までまわった。表玄関の自動ドアは開かないが、ここは内側から鍵を開けられる。ロビーにいる受付の人に見つからないよう身を低くして這うように進み、脱出に成功した。病院のスリッパは義足に合わず何度も脱げそうになったが靴はとれないので仕方ない。


 外は凍てつく風が吹いていた。病衣一枚しか着ていないので寒いなんてものじゃない。朝方の刺すような冷たさが弱った体に侵食していくようだ。


 歯をぐっと食いしばりバス停へと向かった。病院前にあるのでたかだか百メートルなのに果てしなく遠い。一歩一歩、ゆっくりと進む。


 ちんたらしていると始発を逃したがすぐに次のバスが来た。財布に潜ませてあるカードで乗り込み一番前の一人席に座る。障がい者用なので普通の人の十分の一の値段だ。この寒さのなか病衣で乗り込んだからか、それとも金属の足首が露出しているからか周囲の客にぎょっとされた。脱走した患者だとバレたのか運転手も困惑している。


 それでも『なにが悪い』と堂々と背筋を伸ばして座るとためらうように発進した。


 終点のターミナルに着くと別のバスに乗り換える。目的地はショッピングモールの隣にある銀行。まずは金を下ろすところからだ。


 窓の外を見ると朝日が昇ってきた。暖かな光が世界を包み、新しい一日が始まる。


 かじかむ手をぎゅっと握りしめた。


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