三十三話
俺はバイトを始めた。
義足でもできる事務仕事だ。街のオフィスビルの六階で、俺と同じアルバイト六人だけの職場だった。二年前に作られた会社らしく、設備も整っており義足でもスムーズに歩ける場所である。机もイスもデザイン性が高く、柔らかい空気を放つ部屋だった。
俺は力仕事も立ち仕事もできない。だが渡された資料をパソコンに入力するくらいなら楽勝だ。――そう思っていた。
現実は甘くなかった。パソコンをほとんど触ったことのない俺はまったく研修を理解できなかった。最初は動画を見るだけだったのに理解できず、上司に質問を繰り返してなんとか理解した。
「大丈夫大丈夫。ゆっくりでいいから。焦らなくていいから」
優しく励ましてくれたが、その笑顔は引きつっている。
実際に配置されてからも苦労が絶えなかった。どんな仕事であっても人がいれば人間関係が出来上がる。彼らは義足なんて初めて見るのだろう。じろじろと不躾に好奇の目を向けられ、しかしあらゆるところで気を遣われる。俺がどんなに仕事が遅くとも「ドンマイ、仕方ないよ」と優しく励まされ、何か運ぼうとすればすぐにやってきて代わりに持ってくれるのだ。
「すみません、迷惑かけて」
「へーきへーき。望月君は、ほら、仕方ないんだし」
仕事ができないのは俺がアホだからであって、義足は関係ないのにな。
上からは六人分の仕事を渡されるのに、俺が半人前なせいで残り五人の負担が増えている。俺はどこに行っても人の足を引っ張り、迷惑をかけている……。
でも迷惑をかけるのは仕方ないと思えるようになってきた。俺にできるのは頑張ってベストを尽くすことだけ。それ以外の悩みは贅沢で、時間の無駄でしかない。
それに、俺には金が必要だった。親父からもらったものでも年金でもなく、自分で稼いだ金が。そうでなければ永遠は誓えないから。
時間がないのだ。一年間、頑張り続けても間に合うかわからない。一秒たりとも無駄にできなかった。
幸い事務の仕事は無限にあるのでシフト制度はなく、時給はタイムカードを切った時間で発生した。いくらでも残業が許されたのだ。冬休みは朝から最終バスまで、三学期になると放課後から最終バスまでオフィスにいた。たまにバスを逃すと親父に迎えに来てもらった。
家族なんだから、迎えに来てもらうくらいいいだろ?
バス停から少し歩いた立体駐車場の花壇に腰かけて親父を待つ。大抵は電話をかけてに十分くらいでやってきた。道路のわきに駐車した隙に乗り込む。
「寒いだろ。お疲れ」
車内は暖房がきいており、冷えた手足を温めてくれる。疲れ果てた身体をどかっと背もたれに預けた。
「あ~~~~~~。疲れた」
「今日の仕事はどうだったんだ?」
親父が優しい声で訊いてくる。
「べ~つに。いつもどーり」
いつも通りポンコツだった。
でもうじうじ悩むのはやめたのだ。頑張ってもできないなら仕方ない。
「金は貯まりそうなのか?」
「さあなぁ。テスト期間は行けねえし、今のペースだとかなりギリギリかもなぁ」
頭の中で計算してみる。来年になれば授業後の課外や模試も増える。最初から成績は気にしていないが、拘束時間は増えるな。
「あ、でも小遣いはいらねーぞ」
「わかってる。でも送迎くらいはしてやるから」
「……ありがとな」
家族がそっと支えてくれる。泣きそうなほど嬉しかった。
クリスマスの日に吐き出してから、親父と普通に話せるようになった。遠慮がなくなったのだ。俺が頑張ることで迷惑をかけるのなら仕方ない。そう思えるようになった。
「それにしても、朔夜が頑張れることが見つかってよかったよ。最近、生き生きしてる」
「そうかぁ? めっちゃ疲れてるけど」
「サッカーをやってたときもそんなことを言っていたよ。毎日くたくたで、ずっと文句ばかり言ってた。でも楽しそうだった。一生懸命って、そういうことじゃない?」
妙に納得した。身体も心もきつくて、死にそうになるほど辛いけど、俺は頑張っている。抗っている。毎日を部活に捧げるクラスメイトのように駆け抜けている。この疲労を充実と呼ぶのだろうか。
「そうかもな」
窓から見える夜空には星が瞬いていた。街明かりの強いここら辺でも一等星は見える。
あのまぶしさははるか遠く、手を伸ばしても届かないかもしれない。
それでも――俺は走り始めた。金属の足を引きずって。
手に入れたいものがあるから――
いつの間にか、春になっていた。
放課後になると教室を飛び出してバイトに行く生活となった。疲労がたたり授業中はほとんど爆睡だ。担任も俺を厳しく注意できず、由紀ともどもクラスの腫物のような状況になっていった。
休み時間も寝ていたので拓海とも話さなくなった。刺激のない毎日だからか時間が矢のようなスピードで駆け抜けていく。今までの学園生活がどれだけ友人に恵まれていたのかを知った。いつの間にか終わっていた期末試験の記憶はなかった。留年はしていないので最低限勉強していたはずなのだが。
由紀の成績はさらに落ちたらしい。きれいな顔は日に日にやつれていった。ただでさえ母子家庭で大変なのに、頼みの綱の母ちゃんがヒステリーを起こして騒ぎ、家の中がピリピリしていく。安息などないのだろう。
由紀のよりどころとなるべき俺が裏切ったのだから。
バイト漬けの春休みが一瞬にして終わり、三年生になるとみんなとクラスが離れた。もともとマンモス校なので一緒になる方が珍しいが、誰一人いなかった。けれど新しく友達を作る気はない。そんな時間はない。もともと最近は話してすらいないので変わらないだろうと自分を誤魔化して強がる。
そんな時だった。
「――月下さんの母親、亡くなったらしいぜ」
教室で噂が聞こえてきた。一瞬、意味を理解できなかった。
――おばさんが、死んだ。
信じられなかった。死ぬというイメージがわかなかった。非日常の極みであり、唐突に放り込まれてもあまりに場違いで実感がなかったのだ。
けれどすぐに思いなおす。不条理はいつだって唐突で、前触れなく俺らに牙をむくのだ。
噂はあっという間に広まった。ホームルームの際、担任が言いにくそうに告げると何人かの女子は泣き出した。おそらく会ったこともないだろう。意味もなく、泣いていた。それは偽物の祈りだった。
おばさんの顔を思い出す。年の割にしわが濃く、ツリ目が印象的だった。小さい頃は遊びに行くとよくジュースとお菓子を出してもらったものだ。
けれどどうしてもあのヒステリーな声が耳に残っていた。由紀を切り刻むように発せられた暴力的な言葉である。ひどく傷ついたように部屋を出てきた由紀の顔も忘れられない。
――複雑だ。
身近な人が死んで悲しいはずなのに、どこかほっとしている俺がいる。由紀が解放されたのかもしれないと思ってしまう。
見知った関係なのでせめて葬式には行こうと思ったが、由紀本人が親戚だけでやりたいと言ったらしく参加できなかった。多分、俺を排除したかったのだ。
由紀とはもうしばらく話していない。恋人関係はとっくに解消され、廊下ですれ違っても挨拶すらしない。
でも互いに目を合わせ、存在を意識しあう。他人と呼ぶにはあまりに異質な関係だった。
――あと八か月か。
孤独に震えていても今の俺では抱きしめられない。今はただ、頑張るしかない。




