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幼馴染と手をつなぐ  作者: 高橋もみぢ
五章 月の下の雪
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三十話

 いったいどこで歯車が狂ってしまったのだろう。


 俺がつかんだ幸せは幻で、一瞬のうちに消えてしまった。


 あの日、ソラを置いて由紀のところに駆けつけていたのなら。その前に、由紀の異変に気付いていたのなら。


 二人で乗り越えられていたのだろうか。


 そんな仮定も今はむなしく。目の前の現実は無情にも立ちはだかっている。


 なぜ――と、後悔が頭の中をぐるぐる回る。


 俺は……バカだ……。






 メッセージで『迎えに来る必要はない』と送った。

 家を出るのが一時間ほど早くなるが、バスを乗り換えて遠回りすれば一人でも学校に通える。それでも由紀が来てくれていたのは愛だ。俺も遠慮しなかったのは、由紀と一緒にいたかったから。


 でも俺にもうその資格はない。


 手間取りながら靴を履いて家を出る。ソラよりも早い時間だ。まだ辺りは真っ暗で、痛いほどの冷気が肌を刺す。今年初めての手袋は寒さをまったく防いでくれなかった。

 バランスを崩さないようゆっくり歩く。妙に体が重かった。そのくせ胸にはぽっかり穴があいたようで、身体と魂の重さが釣り合っていない気がした。金属の身体は無駄に重く、空っぽの魂は軽すぎる。


 バスの中も暗かった。習慣的に二人席に座ろうとしたが、その贅沢に気付いて一人席に移動する。隣には誰もいない。寒かった。この暗さと孤独が一晩中続いたら凍えて死んでしまうかもしれない。

 二十分ほどでバスターミナルに到着した。学校とは反対側だが、ここを経由しなければたどり着けないのだ。朝雪高校前行きに乗り換える。早い時間だからか人は少なく、最前列の一人席に座れた。ここを定位置にしてしまおう。


 道も空いていたのでいつもより十分以上早い到着になった。ゆっくり歩いて教室へ向かう。バス停からは平坦な道だが意外に距離があったので杖を持ってきた方が良かったかもしれない。どこへ行くにも由紀と手をつないでいたのであまり使わなかったのだ。


 教室にはまだ二人しか来ていなかった。あまり話さない人だがやってきた俺を二度見する。となりに由紀がいないのは不思議なのだろう。わざわざ詮索はしてこないが、ちらちらと見られていた。


 十五分ほどすると拓海がやってきた。へらへらした顔で教室に入り俺を見つけ、目を丸くした。荷物を置いてやってくる。


「……月下は?」低い声で訊いてくる。

「まだ来てないな」


 顔が険しくなる。俺は目を合わせられず、じっと机の模様をながめる。


「何があった」

「それは由紀に聞いてくれ。俺からはなにも」


 プライバシーに関わることだ。担任でさえ苗字の表記を変えないという配慮をしているのに、べらべら話すわけにはいかない。


 だが俺の態度を拒絶と受けとったのか怒ったように眼光が鋭くなる。


「なにもじゃねえよ。先週までラブラブだったのに何があったんだ。相談してくれねえと解決しないだろ?」


 まっすぐな目で貫かれる。人に好かれたいから、嫌われたくないから人助けをする俺とは違う純粋な親切だった。それがまぶしくて、偽物の気持ちが強調されるようでいたたまれない。


 こいつは優しいんだな。


 俺に何かあればすぐに飛んできて。自分に何かあっても俺に心配させないようにしている。自分のことしか考えていない俺にはもったいないくらいで……。


 でも――


「わり……今は」


 とてもそんな気分にはなれなかった。

 拓海の心配そうな眼差しから逃れるため、手で斜め右の視界を遮る。明確に壁を作ると声が詰まったように黙っていたが、それ以上は踏み込んでこず、「言う気になったらすぐに言えよ」と残して去っていった。適度な距離感がありがたかった。


 それから少しして入ってきた委員長は、すでに拓海から聞いているのかこっちには来なかった。ただ不安そうに視線を向けてくるだけ。その後に来た由紀に対しても同じような距離感だった。


 由紀は俺の隣に座る。また十一月に逆戻り。今度は教室で二人ぼっちの壁ができていた。

 距離は数メートルもない。手を伸ばせば愛しい横顔がある。けれど心の壁の分厚さとしては果てしなく遠く、再びつけられた無表情の仮面はどうあがいても破れそうにはなかった。





 二限目が終わるとソラが心配そうに視線を向けてきた。由紀が黙って教室を去ったのが不思議だったのだろう。ためらいがちにこちらにやってきた。


「サクヤ、次化学室だけど大丈夫?」


 化学室は四階の渡り廊下の先なので、人でごった返す廊下を歩いて歩かなければならない。いつもは由紀がいてくれたが、今日は一人だ。


「心配すんなって。それくらい」


 作り笑いが下手だったからか怪しまれたがなんとか行ってくれた。新しい友達と楽しそうに――けれどどこか後ろ髪を引かれて去っていく。拓海も委員長もおせっかいはしてこなかった。


 次の授業が間近に迫り、廊下の人が少なくなったところでようやく俺も教室をでる。人が多いと危ないのだ。最後尾からゆっくり一歩ずつ。遅々とした足取りでは間に合わずチャイムが鳴った。だがどうしようもないので二分ほど遅れて化学室に入った。


「む、遅いぞ――っとと、望月か」

「すみません」


 咎められずに着席する。同情的な視線が集まるこの瞬間は最高に気まずかった。


 ――それは憐み。なによりの、屈辱。


 ああ……由紀もこんな気持ちだったんだな……

 足がなかろうが貧乏だろうが憐みはいらない。ちっぽけなプライドだとしても。


 授業は頭に入ってこなかった。もともとバカなので勉強はできない。けれど一昨日の出来事でさらにバカなことを突き付けられた。前方に座る由紀の横顔を眺めていたらすぐに終了のチャイムが鳴る。時間がスキップしたような感覚だった。


 空っぽな時間、空っぽな魂、空っぽな人生。


「テストが終わったからって気を抜くなよー」


 その言葉は俺に向かって言われているような気がした。

 どきりと心臓が跳ねてそそくさと教室を去る。休み時間に誰と会話をすることもなかった。ただ中身のない休憩時間が過ぎて授業が始まり、それもすぐに終わる。


 何のために学校に来ているのだろうか……。


 少なくとも楽しいとは感じなかった。空いた心を通りぬける風のように、時間はなんの抵抗も意味もなくただ過ぎ去っていく。


 いつだって俺の隣には由紀がいて、手の温もりは連続的だった。人生の一部だったのだ。事故で失った足を義足が埋めたように、事故で失った心を由紀で埋めていた。当たり前にあるはずの身体の一部がない。世界から色が消え、何のために生きているのだろう、人はなぜ生きているのだろうと思考が飛躍していった。


 頭を黒に染めているだけで午前中が終わった。虚しい時間だったがそれでも腹は減る。そのことにいら立ちつつ鞄を開けたが弁当はなかった。先週は由紀が作ってくれていたので母ちゃんにいらないと言ったままだったのだ。


 売店にはパンがあるが、今は昼休み。人で溢れた廊下と売店を踏破して帰る自信はなかった。到着するころには売り切れてしまうだろう。


 しかし方法がないので財布を持って教室を出た。人に何度もぶつかられ、何度も尻もちをつきつつエレベーターを使って一階の売店まで向かう。人の殺到するパン売り場に突撃してなんとかつかもうとしたが、ギリギリ届かないまま売り切れてしまった。収穫なしでとぼとぼ教室に戻る。すでに昼休みの半分が過ぎていた。


 食べる物はないが特に困ったとは思わなかった。バカな自分に罰を与えたかったのだ。どうせ授業に集中するわけでもない。空腹は罰のようでむしろ都合が良かった。


「あんた、弁当ないの?」


 入り口付近に座っていた委員長に声をかけられた。偶然を装っているがもしかすると待ち伏せていたのかもしれない。踏み込みすぎないよう遠慮がちに訊いてきた。


「……ある」

「嘘が下手ね~。ちゃんと食べないと風邪ひくのよ」


 パンを差し出される。いらないと断ろうと思ったが、ぐ~と間抜けな音を鳴らす腹がそれを許さなかった。一度空腹を自覚すると強烈な渇望が全身を貫き、気が付けば受け取っていた。袋を開けるのももどかしくメロンパンにかじりつく。


 じんわりと甘さが口に広がる。食べなれた安物の味のはずなのに、なぜか優しい甘さだった。


「それあげる。病院ではあんたにおごってもらったからね」


 奢ったのは相談に乗ってくれたお礼だ。それをわかっていながら言ったのだろう。俺に負い目を感じさせないため。委員長のは純粋な親切だから……。


「ありがとな……」


 たった一つのパンで午後も頑張れる気がした。うまかった。

 由紀がいなくなったら別の人の手を借りていることに気付いて情けなくなった。


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