二十四話
退院して病院を出ると冷たい風が吹いていた。日光は弱々しく頼りにならず、売店で買ったカイロの封を開ける。
「じゃあ僕は仕事に戻るから。何かあったら電話してくれ。由紀くん、朔夜を頼んだ」
「わかりました」
スーツ姿の親父がドタドタと走り去っていく。昼休みを抜け出して退院の手続きをしてくれたのだ。時間的にはとっくに昼休みをオーバーしているはずなので帰りは遅くなるかもしれない。背中を見送りつつ、心の中で礼を言った。
「帰ろ。家は久しぶりでしょ」
隣の由紀が手を差し出してくる。水色のブラウスに暖かそうな白のコート、ふんわりとした長めのスカートと私服を見て、今日が土曜であるのを思い出した。
家に帰れるという安心感と、帰っても由紀が隣にいてくれる嬉しさが温かく胸を満たしていく。差し出された手を取った。
「ああ」
家までは三十分ほど歩く。仮義足ではまだ本調子ではないのでタクシーを使おうとも思ったが、由紀と二人で歩いてみたいと思った。体力も落ちているので大変だろうが、支えてもらえれば大丈夫だろう。
他愛もない話をしながら歩く。なんでもないいつもの風景がやけに色づいて見えた。鳥の声は美しく、木々の緑は鮮やかに。こんなにも世界は美しいものなんだとポエミーに浸ってしまった。
学校の前を通り、美雪坂を下っていく。途中に通ったマリー・フォレストをいつも以上に意識してしまった。もしかすると由紀とここで式を――と妄想して顔がにやけてしまう。はっとしてツッコまれないかと由紀を見ると、少し複雑な表情をしていた。
「どうしたんだ?」
「いや、別に」
何でもないように無表情になる。意識しての照れ隠しだろうか。
そうは思っても俺から突っ込むのは藪蛇だ。スルーしてそのまま歩いて行く。
到着すると、由紀はさも当然とばかりに家に入ってきた。高校に入ってからはあまりお互いに入らなくなったので新鮮である。
「ただいま~。……って電気ついてるし」
不思議に思いつつ上がると、ちょうどソラが自室から出てきた。しまったという表情を浮かべて怯えるように肩をすくめている。
「あ……お、おかえり」
そうとだけ言ってすぐに部屋に戻った。今までには感じなかった分厚い壁を前にして、俺も由紀も何も言えずただ立ち尽くしていた。
意気揚々とした空気はすぐに消えて声を潜める。
「二階に行こうぜ」
由紀の手を借りつつ二階に上がる。久しぶりの自室はきれいに掃除されていた。
「私、お茶持ってくる」
「いやいや由紀は客だろ? 俺がするって」
「いいから。客じゃないし」
由紀は下におりる。小さいころから何度も来ているだけあって色々と把握されていた。今のうちにベッドの下のブツは別の場所に移しておこう。ゴソゴソと隠してからベッドに座って待機する。
……落ち着かねぇ。
昔とは違う関係で、俺らは色々と成長している。家の中に彼女がいればどうしても意識してしまう。一階の寝室で母ちゃんがぐーすか寝ているのが救いだ。いなかったら何が起こるかわからない。
しばらくするとコップを二つ持って帰ってきた。それらをちゃぶ台に置くと、俺の横に腰をかけて体重を預けてきた。二人分の体重でベッドがぎしと軋む。
俺の腕にしがみつき、頭を肩に置いてきた。
「ゆ、由紀……?」
驚いて腕を引き抜こうとするが、がっちりとホールドされて身動きが取れない。ヒビが入りシップをしている場所はするりと避けている。
漂ってくる甘い香りに脳がしびれるようだ。柔らかいセーターごしに色々な感触が伝わってくる。由紀から流れてくる幸せな魔法が俺の内部を満たしていくようだった。
「いつも手をつないでるから普通」
言い分としては正しいが、由紀からスキンシップをしたのが意外だった。学校で見せる孤高な美しさはなく、年相応の一人の少女に見える。由紀が俺に甘えるのはほとんどなかったので驚いたが、そうしてくれるのが嬉しかった。
穏やかな微笑みをたたえて遠慮がちに頬をこすりつけている。スキンシップに慣れていると思ったが、恋人としてのものはまた別で、ぎこちなさが新鮮だった。
「朔夜の右腕はレアものだし」
「そっか。俺も由紀の左腕はレアだな」
左足が不安定だから左手をつないでいる。逆の手はもしかすると初めてかも……?
十年も一緒にいてなにもかもが新鮮だ。改めて恋人になれてよかったと噛みしめる。
今までも手をつないでいたが事務的だった。恋人として意味もなくするのとは違う。くっついていると俺の欠けた部分が埋まっていくようだ。伝わってくる心臓のテンポは次第に穏やかになっていき、俺のテンポと共鳴する。由紀の幸福が伝わってくる。二人で一つになればなんだって乗り越えられる気がした。
愛おしくなって由紀の頭をなでる。髪が乱れるなんて無粋なことは言わなかった。どこかくすぐったそうに笑い、顔をあげる。
目が合った。
俺たちはキスをした――
「アルバム発見」
一通りスキンシップを終えると由紀が立ち上がって本棚を漁り始めた。その裏にはブツが隠されているのでひやひやしたが気づかれなかったらしい。小学校の卒業アルバムを目ざとく見つけて掘り出した。
「うわ懐かし。このころの由紀、ショートだったんだよな」
今ではさらさらの黒髪ロングが代名詞の由紀だが、三年生くらいまではむしろ男子のような髪型だった。気も強く男子相手にも物怖じしない性格だから俺とも仲良くなれたのだ。髪を伸ばしたり、日焼けを異常に気にするようになったのは高学年になってからだ。
「ここからよくそんなに伸びたよなぁ」
「頑張った。朔夜が女の子らしい子が好きって言ったから」
「へ?」
思わず由紀の髪を見る。艶やかな黒髪は腰のあたりまで伸びており、男女ともに目線が釘付けになるほどの美しさだ。
「朔夜が『お前は女らしくない』って。しかも、テレビの髪の長い女優さんが好きって言ってて。それで伸ばそうって」
「マジかよ……それは、なんか……すっげー嬉しい」
そんな前から意識されていたとは……。
由紀の美しさを独占できている気がして嬉しかった。我ながらちょっとキモイ。
「なのに朔夜は全然気づかないし」ぷい、と顔を背ける。
「わ、わるかったって。つーか小学生にそこまで求めんなし」
「高校生でも朔夜は気づかないと思う」
「……否定はしない」
これだけの優しさをもらっておきながら、俺は由紀の気持ちを信じ切れていなかった。
バカなのだ。由紀がいなければ何もできないほどに……。
「朔夜はバカだったから。サッカーしかしてない」
「このころはなぁ。うわアホ面ぁ~」
ページをめくるとサッカー部の集合写真があった。四年生の半年だけクラブにも部にも在籍していたのだ。それが夏ごろに事故にあって辞めざるを得なかった。
今でもそのころのユニフォームはタンスにしまってある。とっくにサイズが合わなくなったゼッケン十番。六年生を押しのけて十番だったんだぜ? 期待されてたんだぜ?
なのによぉ……。
ふと由紀に手を握られる。少し無理をして微笑んでいた。
「アルバム閉じる?」
「いやいい。いい加減未練がましいしな」
あの事故からずっと由紀は俺を支えてくれている。うじうじする時期の卒業が恩返しだと思った。
由紀の握る手が少し強くなる。優しさに包まれているようで心強かった。
「大丈夫。サッカーがなくても、朔夜にはいいところがある」
「……ありがとな」
――お前はお前であるだけでいいんだよ。
拓海にも言われていた。由紀の温かさで氷解した心に言葉の魔力がすっと入り込んでくる。ずっと消えなかった何かにせきたてられるような感覚が消えていった。
「でも、いつかまた頑張る朔夜も見たいかも」
「頑張る俺かぁ。サッカー……は無理だから野球でもしてみるか? あとは弓道とか」
「今はいい。大事なのはそんな未来じゃなくて――」
ぐっと体を寄せると横から抱き着いてきた。甘えるように俺の胸に顔をうずめる。
「『今』を大事にして」
「……甘えんぼめ」
暖房がききすぎて暑いくらいだが、心地よくてくっつくことをやめられない。この部屋だけ春が来たような気分だった。
けれど明日も明後日もぐーたらするわけにはいかない。入院生活で筋肉が落ちているので外に出なければならなかった。最後のデートが役所なのでその記憶を早く塗り替えたいのもある。公園の告白はちょっとしたトラウマだ。
けれど遠出もできない。義足では遊べる選択肢がぐっと狭まるのは悲しかった。
「なあ由紀、明日か月曜の放課後か暇か?」
突然提案するときょとんとした顔をされた。
「デート?」
「まあ、そんなとこ」
改めてデートと口にされるとドキッとした。
由紀はしゅばばっと鞄からスマホを取り出して何かを確認した。これ以上ないほどの集中力で操作している。
「明日は空いてる」早口で言ってきた。
「じゃあ明日。昼飯を向こうで食いたいから……十一時にここ集合でいいか? まだノープランだけど」
こくんと力強くうなずいた。期待で目を輝かせている。
今までも二人で遊びに行くことはあったが、また違う感覚だった。




