十九話
「ごめ~んソラ! 行けなくなっちゃった!」
放課後になるとすぐにカナが謝ってきた。
どうやらバイク免許のために通っている自動車学校のテストを今日までに受けなければ退学ということに気付いたらしい。教科書をもって泣きそうにしていた。
「時間がないからもう行くね! うちにはまた今度きてね~!」
手を振りながらすっ飛んでいく。カナは真面目そうに見えて先延ばし癖があるのだ。カナは仕方ないなあと背中を見送ると、放課後の教室にひとり残される。予定がなくなってしまった。
すでにほとんどの生徒が教室を出ている。部活動に熱心な人が多いのだ。何に情熱を傾けるでもなく放課後を過ごしているのはボクくらいで……。
「……」
つい先日まで描いていた絵が脳裏をよぎる。
小さいころから絵が得意だったから、ボクはマンガ家になりたかった。でもイギリスではマイナージャンル。パパを納得させるためにも通っていたのは絵画教室だった。居場所がなかったのだ。
思い切ってパパに相談したけれど、ターナー家に恥をかかせるなと拒否された。マンガなど芸術のうちに入らない。絵を描きたいなら芸術家を目指せと。
だから無理やりにでも日本に逃げてきた。なのに、ここでも居場所が見つけられない。
描きかけのマンガは白紙のままだ。ボクは何をしているんだろう……。
「――とりあえず月下をデートに誘えよ」
気が付けば人がほとんど出払った教室でその声は聞こえてきた。
キンジョーだ。サクヤとミオと三人で教室の隅にかたまり真剣な表情で何かを話し合っている。帰らないのかなと思ったが、鞄が置きっぱなしのユキがいなかった。そういえば奨学金のなにかで職員室に呼ばれていた。
盗み聞きするつもりはなかったけど、人が少なくて聞こえてしまう。向こうは気づいていないが気まずいのでそそくさと帰り支度をする。
「いきなりデートはハードルがなぁ……。せめてもう少し会話を重ねてから……」
「うわ、ヘタレぇ。これだから童貞は」
「うるせうるせうるせ! 何事にも順序があってだな!」
「十年も一緒にいて順序なんてないわよ。その若き衝動は何のためにあるの?」
「そーゆーのはいらないの! 俺たちは健全なの!」
ぎゃーぎゃーと言い合っている。
楽しそうだな……。
大変な状況だけど、三人は自然と笑顔になっていた。家にいるときの絶望しきったサクヤとは全然違う。ボクでは笑顔にできないのだろう。
「いいか朔夜。いま必要なのは意思表明だ。お前が好きなのは誰だ」
キンジョーが真剣な声色で問う。つい目で追ってしまったサクヤの顔は気圧されたようにたじろいでいたが、やがてきっと覚悟を決めて。
「――俺は、由紀が好きだ」
何気なく聞こえてきた言葉。
ボクに向かって放たれたわけじゃない言葉。
いや、だからこそ。
ボクの中の何かが――壊れた。
「ならそれを伝えろ。そのためのデートだ。そうすることでしか月下を安心させられないだろ」
「でも誘ってついてきてくれるかぁ? 普通に断られそう」
「それが難しいな」
何でもないように三人の話は続く。ボクなんか目もくれず、仲直りに向かって案を練っていく。
やっぱり、ボクは蚊帳の外で。
二人の間に入り込めるはずもなくて。
恋の意味も知らないお子様で。
少女マンガの悪役側で。
お姫様にはなれなくて。
一人で舞い上がっていただけで。
『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』
以前に読んだマンガのフレーズが聞こえた気がした。
その場にいられなくなり鞄を手に取る。だが教室を出るときに落ちていた缶を蹴飛ばしてしまった。静かな教室にコロンコロンと響き、三人がこちらに注目する。
気づかれた。
一瞬、サクヤと目が合う。ボクの感情を悟られたくなくて急いでそらした。サクヤがどんな表情をしていたのか読み取る余裕もない。
衝動的に走り出した。とにかく遠くに行きたくて。とにかく一人になりたくて。
「――ソラ!」
後ろからミオの声がした。追いかけてきているのだろうか。
振り切ろうと校舎のあちこちを走り回り、中庭まできたけどそこで体力が尽きた。自分でも驚くくらい息が荒い。へなへなとベンチに座り込むと、追い付いたミオもボクの横に座った。
第一声に迷って二人とも声を出せない。
夕空の下の中庭は計算されつくした美しさがあった。右手に見える花壇は色とりどりの花が咲き誇り、敷き詰められた芝生の絨毯は風に揺れて穏やかだ。中央に生えた背の高い木が鳴らすかさかさとした木の葉のさえずりが心地いい。
「夕焼け、きれいよね」
ミオが言った。校舎の隙間からギリギリ見えるオレンジは美しい。
「うん……」
気の利いた返事はできない。頭の中はそれどころじゃないのだ。
いや、むしろ頭の中は驚くほど冷静だ。ごちゃごちゃした衝動もどろどろした気持ち悪さもなく、ただ冷静に事実を見つめている。
大変なことになっているのはそのさらに奥。正体不明の胸の苦しみ、心だ。
悲しみの洪水が静かにすべてを押し流していく。防波堤はとうに決壊した。ギシギシと悲しみで軋む心から高波は漏れ始め、身体全体に広がっていくようだ。食道はぎゅっと圧迫され、肩が重く、足は動かない。頭以外のすべてが悲鳴をあげていた。
最初はこの倦怠感の正体がわからなかったが、言葉にするならば失恋だろうか。でもそれは嫌だ。この感情を一言で表してしまってはチープになる気がしたのだ。
「ミオ。ボクは……」
ミオとは数度ほどしか話したことがない。何と切り出せばいいかわからなかった。
「ごめんなさい」
ボクに向かって頭を下げた。その意味がわからなかった。
こわばる口元を強引に押さえつけるようにしてミオは続ける。
「無神経だったわ。本気なこと、知ってたのに」
王子様と呼んだのは冗談で、サクヤは好きでもなんでもなくて――と言い訳しようと思ったけどやめた。ボクを真剣に見据えるミオに嘘は通じない。人におせっかいを繰り返すだけあって観察眼が鋭いのだ。
「いいよ。ボクの方が後だったから」
「……そうじゃないの」
ミオが顔をあげる。最愛の人に刃を振り下ろすかのような罪悪感に満ちていた。
「あたしは中立になれないの。二人に、幸せになってほしいと思うから」
誰にも応援されないと理解していたからからかショックは薄かった。むしろここまで向き合ってくれることの方が意外だった。
「ミオは真面目だね。わざわざ追いかけてまで」
「ただのエゴよ。好きな人たちが幸せになってほしい。本当に、自分勝手な願い……」
ミオは体内を焼かれたように苦しげな顔を浮かべる。
やっぱり真面目過ぎるけど気持ちはわかる。自分の望みをかなえるために他者を蹴落としたくない。悪役にはなりたくない。ボクもそう思うから。
でもそんなの難しくて。主人公がいれば悪役もいて。みんな幸せになるのは難しくて。
どれだけ悲しくてもどうにもならなくて。ならば仕方ないとボクから目をそらして罪悪感を減らすのが賢いはずなのに。
「でもなんでそれをボクに? そんな必要ないのに」
こんなの追い打ちだ。女子の世界では間違いなく嫌われる行為である。
「ソラに残酷なことをしたって思うから。せめて、誠実でありたいじゃない」
ミオはスカートの端をぎゅっとつかむ。
表情は曇っているけど、心は澄み切っていると思った。清流のような在り方を前に劣等感を覚えた。卑怯者になるのを恐れたボクは二人を遠ざけたのに、ミオは正々堂々と対峙してくる。違いを見せつけられた。
「一生懸命だね」
ミオは当事者ですらないのだ。ここまで他人のために頑張れる人は見たことがない。
素直に称賛したはずが言い方が皮肉っぽくなってしまった。さっきから表情筋がうまく動いてくれない。ボクがずっと無表情を崩さないからか、ミオが慌てて付け足した。
「あいつには恩があるのよ。正確にはあの二人には、だけど」
「ミオが?」
どちらかと言えばサクヤが問題を起こしてミオが助けるというイメージだから驚いた。
「ほら、あたしは結構性格がきついじゃない。遠慮しないし。だから去年は女子の間でかなり孤立してたんだけど……まあ、そこで望月に助けてもらったのよ。しつこく絡んできたから最初はうざかったけど、そのうち由紀とも話すようになって。友達になって。いつの間にかいじめもなくなって」
意外だった。サクヤはあまり仲良くない人に絡むイメージがない。ミオに積極的に話しかける姿は想像できなかった。
ボクがぽかんとしていると、ミオは自慢するように笑った。
「拓海もなのよ。あいつ、沖縄からの転校生なんだけど、最初はヤンキーそのものだったのよ」
「……今もじゃない?」
「大分マシになったのよ。金髪で強面だから怖がられてたけど、望月がウザ絡みを繰り返していじり続けたから今のバカキャラに落ち着いたのよ。まあ、そのせいで吹っ切れたのか女に手を出しまくるようになったけど」
「うそぉ……」
サクヤってそんな行動力あったんだと驚いたが、ふと雪の日のことを思い出した。
誰も彼もボクを見捨てる中でただ一人声をかけてきた少年。
ミオの語るサクヤはまさにボクが見た王子様そのものだ。
「だからあいつ、クラス内では結構信用があるのよ。由紀がフリーになったからってアタックするのは他クラスの人だけ。みんな、ぼっちの由紀に絡んで行けるのは望月だけってわかってるから、あの二人を応援してる。あいつは自分が嫌われてると思ってるけどね」
「そう、なんだ……」
またしてもボクだけが知らなかった関係性。ボクを疎外する関係性。
ボクが自己紹介をしたとき、みんなはどう思ってたんだろう。
「あいつは困ってる人を見捨てないのよ。人助けになったときだけ異常な行動力を発揮する。ソラが熱を出したときもそうじゃない?」
たしかに風邪をひいたからって一晩中横にいてくれるのは驚いた。
「いい人だね。サクヤは」
しかしミオは悲しそうにうつむいた。
その意味がわからなくて首をかしげる。
「……そうね。でもあたしは怖い。だってあいつが人助けをするのは――」




