一話
一章 恋する乙女は手をつなぐ
『月下由紀の金魚の糞』
クラスメイトの陰口を偶然きいた。
ショックだった。仲のいい人ではなかったが、悪意の刃は想像以上に鋭利である。やり場のない気持ちを吐き出そうとトイレの個室に入ったが、魚の小骨のように喉の奥でつっかえた。心臓に重しがついたような気分を抱えたまま天井を眺めるしかなかった。
心の底に沈殿するドロドロしたものは消えない。
核心を突かれたのだ。薄々自分でも気づいていたことをズバリ暴かれた。
学園一の有名人にして美少女である由紀。幼馴染というだけでその隣にいる俺。容姿、成績、身体能力とあらゆる要素を天秤にかけても残酷な結果しか残らない。
三日ほど引きずった。異変に気付いた由紀が問い詰めてきたのでしぶしぶ相談すると、ぶっきらぼうだったが、俺を立ち直らせようと言葉を尽くしてくれた。
コンプレックスの対象に励まされるのはなんとも複雑で、余計に落ち込むこともあったが、それでも由紀が俺のために頑張ってくれたのは嬉しかった。暗闇に包まれた海底で一筋の光が差し込んだような希望である。
問題なのは、陰口を聞いた由紀が気に入ってしまったことで……。
早朝。玄関で靴を履いていると由紀がチャイムもなしに入ってきた。
「遅い。金魚の糞」
「俺には朔夜という名前があってだなあ!」
最近のお気に入りらしく、開口一番に言ってくる。
迎えに来た幼馴染は無表情だった。遅い、というのは彼女の挨拶である。
ぶっきらぼうな言い方で怒っているようにも聞こえるが、ただ感情表現が乏しいだけだ。本当に怒っているときは口をきいてくれない。無表情の仮面の奥にはにやけ面があるはずだ。
「ちょっと待ってくれよ。今日のこいつは強敵なんだ」
「靴を履くだけなのに。へたくそ」
「うるせ~。慣れないものは慣れないんだよ」
靴を履くのも靴ひもを結ぶのも苦手だ。
玄関に座り込み、銀の光沢を放つ左足首をしっかりと押さえて靴をはかせる。だが力加減を間違えてすっぽりと抜けてしまった。
「……これだから朔夜は。借して」
由紀は呆れたように紺のカバンを置く。靴を渡すとかがんで俺の左足を手に取った。
――金属製の、その足を。
「わりぃな」
少し申し訳なかった。こんな事すらできない自分に腹が立つ。
「朔夜だから仕方ない」
「その通りだけどひでー言い方ぁ」
やれやれと気だるそうにしつつも仕事は丁寧だ。義足を右手で固定してゆっくり靴をかぶせていく。
手持無沙汰になったので由紀をぼーっと見つめた。
流れるような黒髪に端正な顔立ち。ぴしっと整った制服はしわ一つなく、リボンを崩しもスカートを曲げもしていない。まぎれもなく美少女だが、流行を重んじる女子高生にしては心配なほど飾り気がなかった。
だが彼女には華がある。美しい顔立ち、メリハリのあるスタイル、周囲の視線を独り占めにするオーラ。飾らない素材の味だけで頂点に立つ規格外の存在である。
彼女ではないが、自慢の幼馴染だった。
「……よし。脱げない?」
靴ひもまで結び終わった。俺は立ち上がって足をあげる。問題なさそうだ。
「ああ。ありがとな。いくか」
由紀が右手を差し出してきた。その手を握り外に出る。義足の俺は、こうしてバランスをとってもらわなければ通学路の踏破さえ難しいのだ。迎えに来てくれる由紀には感謝である。
十一月にしては暖かい日だった。見上げた空は気持ちのいい秋晴れ。じんわりと頬に滲む汗を冷たいそよ風がさらってく。
義足は汗に弱いので助かった。ソケットで密閉されるため夏場は蒸れて悪臭をはなち、金属が腐食していくのだ。
不安定な身体を由紀の温かい右手に支えてもらい住宅街を歩く。一軒家の並ぶ通学路に人の気配はなく、小鳥のさえずりのみが耳に届いてくる。雪宮町は田舎でも都会でもない中途半端な街だ。朝日が照らす静けさは心の波を鎮めるようで好きだった。
「――うっ」
ふと左足に鋭い痛みが走った。思わず体のバランスを崩して由紀の肩をつかむ。
「大丈夫?」心配そうにのぞき込んでくる。
「あ~くっそ、いてぇかも」
左足の血管に、ざらざらの砂が流れるような痛みが広がる。
幻肢痛――失った手足に痛みを感じる症状だ。
由紀にしがみついて痛みに耐える。激痛下では支えがないと倒れてしまうのだ。
「これ飲んで」
差し出された白の水筒を傾ける。クマのワンポイントがついていた。冷や汗で脱水していたので、喉を通る冷たい麦茶が気持ちいい。
五分ほど背中をさすられていた。ようやく痛みが引いて俺は由紀の肩から手を放す。
「平気? 痛むようなら休んだ方が良い」
心配そうにのぞき込んでくる。
「だいじょーぶだ。ありがとな」
努めて意識しないように水筒を返す。間接キスを意識してちらりと由紀の口元を見たが、無表情を貫いていた。気にしているのは俺だけなのか。
「まったく、これだから朔夜は」
「どーせ俺は由紀に頼りっぱなしだよ!」
しょうがないなあ、という目で見られた。
一人で歩けない男だ。情けねえ……。
再び手をつないで歩きだす。ここら辺は水はけのために傾いていて転びやすいのだ。
さらに学校が近くなると「美雪坂」と呼ばれる名所に差し掛かる。冬に雪が積もる様子が美しいことから地元民からは愛されているが、坂と雪というコンボは苦しい。手をつないでならギリギリ歩ける。一人ではとても登れない。
そうして美雪坂の途中にある結婚式場、マリー・フォレストの前を通ったときだった。
路傍のベンチに座る一人の少女がいた。
その横顔に目を奪われた。
左手にはパレット、右手には筆を持ち、視線は目の前の式場とキャンバスを往復している。
その目に惹かれた。ルビーのような深紅の双眼は彼女の気迫を燃料に燃え盛っている。式場とキャンバスを睨みつける集中力とオーラは、軽薄な同級生と一線を画した特別な輝きを感じた。
ごくりとつばを飲む。ただ者ではない、と思いよく観察すると少女は意外にも小さかった。華奢な身体は立っても百五十センチあるだろうか。気合で引き締まった横顔だが雰囲気とは裏腹に幼さが残っている。
少女は金髪だった。かぶっているベレー帽は右に傾き、頭の左半分にはお団子がある。
――あの帽子、どこかで。
「朔夜」
左隣から身のすくむような冷たい声が届いた。つないだ手が圧力にさらされてミシミシと痛む。
「いてえ! ゆ、由紀⁉」
「朔夜。鼻の下伸びてる」
左を向くと由紀は無表情のままだった。だが、地の底から這い出るような声と平常より僅かに見開かれた目はそれだけで鬼より恐ろしい。淡々とした抑揚のない声が拍車をかけている。
「伸びてないって⁉ なんで急にそんなこと」
「ふーん、そう。あの子、かわいいよね」
金髪の少女に視線をやる。その目からは何も感情を読み取れない。
……マジ怖え。
「あ、ああ。一般的に、世間的に、客観的に見れば可愛い部類だろうな」
「デレデレ。これだから朔夜は」
「ここまで言葉を尽くしたのになんでそうなるし!」
由紀は手をつかんだまま足を速めた。バランスを崩しつつ何とかついて行く。
「急ぐなって。焦っても遅刻しねえだろ?」
「うるさい金魚の糞」
「人が気にしてることを何度もえぐるな~!」
陰口の傷をいやしてくれた翌日にはこれでいじってくるのだ。
由紀は口が悪くて、厳しくて、そして、少しだけ優しい。