十話
「あんた……なにをやったのよ……」
その日の昼休み、委員長が呆れたように言ってきた。
まず登校から気まずかった。ソラと寝落ちしたせいで目覚ましをかけておらず、三人そろって遅刻したのだ。怒り心頭の由紀と手をつないで歩くのは地獄だった。ソラは顔を赤くして口数が少ないので空気は重く、気分は刑務所に連行される囚人である。
学校に着いてからはさらに悪化した。授業に途中参加してしばらくすると由紀が顔をふせたのだ。真面目な由紀が寝るのは珍しいと思っていたが――昼休みが始まって顔をあげた由紀の目は腫れていた。
泣いていたのだ。声を殺して。
信じられなかった。少なくとも中学に上がってから泣いているのを見たことがない。さすがにまずいと思い、再度謝ろうと話しかけたが、申し訳なさそうな顔をされただけで何も言わずに出て行ってしまった。義足では追い付けない速さだった。
「なにって、まあ、そりゃ……」
ためらったが、状況の悪化を防ぐために今朝の出来事を委員長に話す。
視線がみるみるゴミを見るようなものに変貌していった。
「あんた、クズね。拓海に劣らないほどの」
「反省してるってば……」
女を泣かせるというのは何よりの大罪だ。
殴られた頬がずきずき痛む。あんなに声を張り上げる由紀も久しく見ていなかった。
「久々に熱中出来ることがあってさ。嬉しかったんだよ。ソラが強引だったのもあるけど、俺も楽しかったし……」
「ソラちゃんのせいにしない。由紀を泣かせたのはあんたが悪いのよ」
「はい……」
ぴしゃりと言い切られる。心の甘えを見抜かれたようでどきりとした。
委員長は考え込むように腕を組む。
「……でもまあ、由紀らしくはないわね。望月がやらかしたら罵倒するのが由紀の役目なのに。由紀が大声を出すのも、泣いているところも、落ち込んで逃げるのも初めて見たわ。こういうとき、徹底的に戦うと思ってた」
「だろ? いつもならソラに突っかかって喧嘩を始めるパターンだよな。なのにあの二人、まだ今日は一言も話してないんだぞ? やっぱりおかしいよな」
「いやあんたにそれを言う権利はないから。あんたが出来るのは反省と謝罪だけよ」
「はい……」
とはいえ、付き合いの長い委員長もおかしいと感じているのだ。
俺も戸惑っていた。由紀は我が強く、気に入らないのならソラに直接文句を言うだろう。それなのに、まるで敗走するように逃げて行った。由紀は俺の嘘を完ぺきに見抜く。ソラと何もなかったのは信じてくれているはずなのに……。
「なにもなければ無実というわけじゃないからね? 添い寝は不倫よ?」
思考を見透かすように釘を刺された。
「……別に俺と由紀は付き合ってないってば」
「それはもういいから。あんたの心に罪悪感があるならそれが答えよ」
「……」
理論上は罪悪感を感じるのはおかしい。恋人ではないのだ。抱き着かれても、はだけていても、健全な範囲なら文句を言われる筋合いはない。
だが、由紀の涙を見て、胸を貫かれるような痛みを覚えた。
――裏切った。
自分の中から湧き出る鎖に絡みつかれるような気分だ。
「ま、それだけショックだったってことでしょうね。今までこんなことなかったんだし」
「謝るしかねえよなあ」
だが方法がわからなかった。
登校中に何度も頭を下げ、何度も謝った。誠意は込めたつもりだ。由紀も返事こそしてくれなかったが、つないだ手は優しかった。怒るときの握り方ではない。てっきり許してくれたと思いこんでいたのだが……。
「あんた一人じゃなくて、ソラちゃんも一緒に連れて行きなさい。今すぐにでも男だけが言い訳をしても聞いてもらえないでしょう。」
「だな……って、ソラはどこだ?」
いつもなら会話に入ってくるころだ。朝から口数も少なく、不自然なほど存在感がなかった。
教室を見回すと自分の席で突っ伏していた。昼休みになったのに弁当すら広げず微動だにしない。寝ているのだろうか。
「お~いソラ。今から由紀のとこに行かないか?」
「う……」
「ソラ……?」
うめき声とともに不規則なテンポの寝息が止まり顔をあげる。額にびっしょりと汗をかいていた。顔は赤く、苦しげな表情を浮かべている。
「お、おい、大丈夫か? なんかきつそうだぞ」
「ソラちゃん、顔赤いわよ」
慌てて委員長も駆け寄ってくる。
意識がぼんやりしているのか姿勢が安定していない。ふらふらと頭が揺れ、今にも倒れてしまいそうだった。急いで額に手を当てる。
「あっつ! おまっ、熱あるじゃねえか! よく授業受けてたな」
十一月にはだけた服で布団もかけずに寝ていたからだろうか。ソラは寒そうに両肘をさすりうつむいていた。息は荒く、苦悶の表情を浮かべている。
俺がちゃんとしていなかったからだ……。
委員長も額に手を当てる。顔をしかめ、心配そうな眼差しを向けた。
「熱が高いわね……。これは早退かしら」
世話焼きの委員長らしい優しい声音だった。
「とりあえず保健室に行きましょうか。歩ける?」
ソラはこくりとうなずき立ち上がるもフラフラとしていた。見ていて危なっかしい。委員長が即座に肩を貸した。
「じゃあ行ってくるわ。そっちは自分でやりなさいよ」
「へーい」
二人はゆっくりと教室を出た。昼休みで人にあふれた廊下を一歩ずつ歩くのは大変だろう。心配になりつつも、俺が行っても状況が悪化するだけなので踏みとどまる。
それより問題は由紀の方だ。謝ろうにもどこに行ったかわからない。電話をかけても出らず、メッセージも既読無視だ。怒っているのか落ち込んでいるのか、あるいはその両方か。どちらにしろ俺を拒否しているのは間違いない。義足で追い付けない速度で逃げたのはそういう意味だ。今も俺が一人では行けない場所に隠れているのだろう。
どうしようもなくなったので昼飯を食べようとしたが、持ってきていなかった。あてにしていたユキの弁当をもらっていないのだ。
まずったなあ……。
一人で昼休みのろうかを歩き売店までたどり着ける気がしない。
腹の虫を鳴らしていると拓海がやってきた。
「なんだお前、弁当もらえなかったのか。フラれてやんの~」
ニヤニヤとからかうように言ってくる。見計らったようなタイミングだった。
見るに拓海が座っていた席の周りには誰もいない。いつもは女子と会うために他クラスに行くはずだ。俺を心配して見ていたのだろうか。
「うるせうるせ。寝坊して忘れたんだよ」
「ほれ、パンやるから元気出せって」
購買のメロンパンをアンダースローで渡される。人気メニューですぐ売り切れるやつだ。今まで買えたことがない。
百円ぽっちの菓子パン一つで疲れた心が癒されていくようだった。
「……サンキューな」
「放課後カラオケいくか? 朔夜の失恋記念で」
「フラれてないから!」
「大丈夫だって。フラれることに関しちゃオレが先輩だぞ? 二股の先輩でもある」
「二股もしてねーし! お前と一緒にするなし!」
ツッコミつつ拓海の席に移動して一緒に飯を食う。二年に上がってからは久しぶりだった。短い時間の間に何度拓海のスマホが振動したのかは数えていない。ぜんぶ女子からのメッセージな気がするが……。
そうして昼休みが終わるころ、どたどたと教室に担任が入ってきた。
「望月はいるか?」
十一月なのに汗を額ににじませて、きょろきょろと教室を見渡す。
ここにいると手をあげるとほっとしたようにやってきた。
「見つかってよかった。望月の家はターナーのホームステイ先だったよな。いや実は、ターナーが早退することになったんだ。けど家に電話をかけても誰もでなくてな」
やっぱりか。三十八度は超えていただろうしな。
「父は仕事で……母は寝ていると思います。夜勤で疲れていると思うので」
「困ったな。家まで一キロ以上はあるだろ? 迎えに来てもらおうと思ったんだが。お父さんはどのくらいに帰るかな?」
「遅いと思います。今日は早くに出て行ったので、忙しいんじゃないかと」
俺らの寝坊を起こしてくれなかったほどだ。起きる前に出て行ったということである。
「そっかぁ」
担任は一瞬だけ俺の足に目を向ける。金属製の左足ではソラを連れて帰ることはできないだろう。顔に落胆が出ないようにしているが、その手の感情を向けられ続けてきた俺にはわかってしまった。
――お前が普通の人ならば。
そう言われている気がした。