人と魔の狭間 3
寝静まった星守邸宅は恐ろしく静かで、底知れない薄ら寒さがあった。
「式神システムは素晴らしくもなんともねえ…式神は美しくもねえ…くそったれ、何が…」
壁を殴り、息を吐いた。心臓や頭が熱い。血が通っているみたいに。
(あっしはどうしちまったんだ。こんなこと今まで…。いや、今までが何も無かったんだ。感情も心も。当たり前じゃないか。式神は何にもねえ。人間みてえだ。人間になっちまったのか?)
縄張りの暗闇が徐々に廊下の奥から浸蝕してくる。寡黙が目ざとく、歩いてきたからだ。
彼が近づきこちらを観察しているのを横目に、テリトリーを通り抜けるために廊下を駆け出した。
くり返される景色に気づきながらも走り、やがて足に絡みついた布に躓き、盛大にコケる。
「いてえ…」
布がしゅるしゅると近寄ってくるのを前に、童子式神はうさぎの手足で再び走り出した。これならば誰も追いつけまい。
迫り来る闇を振り払い、気がつけば庭にたどり着いていた。ぽっかりと浮いた月球が見下ろしている。
嫌いだ。月は。
(あっしの願いは主の魂を食べ、分霊に戻る事。けど、いくら魂を食べても──)
首を振ると、手を変幻させ人間に戻す。未だ月はでかでかと見下ろしている。嫌いだ。
アイツはいつもこちらを監視しているように思える。嫌いだ。
「越久夜町のルールを握り、再び分霊時代の栄華を取り戻したい」
「自らを苦しめたルールを破壊したい」
呟いて、気が付き、自嘲する。「これじゃあまるで主さまの願いじゃないか…」
「どっちがどっちだか分からねえや。」
苦笑すると、童子式神はとぼとぼとテリトリーに戻る事にした
「何を乱心しておる。式神らしくないぞ」
いつものようにつかさず寡黙が現れ、窘める。
「…式神、らしくですか…」
不格好な笑いをうかべ、式神は椅子に腰かけ、黄昏れた。
「この際主さまがどのようになるのか、見てみようと思います」
「…契約を断つ、という選択肢は捨てるのか?」
「ええ。毒を食らわば皿まで、というやつです。もう引き返せませんから、行き着く所まで行くのでしょう」
「他人事じゃのう」
「ええ」なげやりに言うと、ぼんやりと重苦しいしめ縄を眺める。
「…そなたの自由じゃ。好きにするといい」
「寡黙、お前は──」
隣にいたはずの寡黙が跡形もなく消えているのに呆気に取られる。「アイツ…」
テリトリーを眺めながら、ハアと息を吐いた。
(蜘蛛の巣みてえな場所だ。絡め取られて、身動きできねえ。あのしめ縄は何を封じたいんだろうか)
「──式神というのは美しい」
ある時、主はポツリと零した。憎しみにかられ、式神を使い人を呪った後の事だった。
「あっしですか?何故?」
「魔の中で洗練された存在だ。そんな美しい物を他の奴らに或いは魔に壊され、奪われてはならない。お前が埃を被り、汚らしいと思うこのマジックアイテムを俺は美しいと感じる──」
(主さまはおかしな人間だった。式神を美しいと豪語し、人間は醜いと卑下した。そう仕向けたのは、あっしだったのかもしれない)
ある昔の事だった。人間の時間にしたら数十年前だろうか。
「着替えは私が持ってくるわ。あとは、たまに本でも…。…。具合良くなると良いわね。じゃあ、私は行くから。何かあったら絶対お医者さんに電話して。良いわね」
妙齢の白いレディーススーツを着飾った女性が嘘くさい笑みを浮かべて、病室を去っていく。
主はベッドに腰掛けたまま、しばらく俯いていた。
「本家のおばさんは嘘つきだ。すぐ治るわけないのに」
「主さま?」
「なあ、君はどこから来たんだ?」中学生になった彼は寝室の窓辺から外を眺めながら、そう言った。
「何故です?それは命令にあたりますか?」
「…ああ、命令だよ。…死後の世界から来たのか?式神なんて言うけど実の所は死神だろ。こうなったのも、きっとお前のせいなんだ!」
顔を手で覆い泣き始める。
「主さまの魂は、まだ輝きを失ってはおりません」
「魂…?」
「消える間際の魂をあっしは知っております。」
(あっしらは主の魂を対価に全ての思惑を叶える。妬み、嫉み、殺意、悪意…。それが式神だ。叶えていけばいくほど、魂は穢れていく。そして旨みを増していく。そう仕向けたのは、あっしだ)
「主さま、薬の時間です」
「式神よ、俺の魂はまだ輝いているか?」
(このプライドの高い醜悪な魂を舌で転がせばどんな味がするのだろう?誰にもやるものか。食べるからには味を成熟させ、美味くしなければ…。しかし──魔に近づいた人の魂はどんな臭いがする?)