相制
雲の多い夜空で下弦の月から満ち欠け、再び月が膨らみ始めた。それを越久夜町の人々は知らない。いや、神でさえも。
地主神の祀られていた土着の神社は、清廉さの跡形もなく瘴気が充満している。それに寡黙は心底嫌そうに鼻を裾で覆った。
「倭文神…いや、今は名もなき式神か。何の用かな?」
あざける笑みを作り、敵意を含んだ気色 で、眼前の人物を倭文神と呼び睨みつけた。
「…其方に用がある」
「ほう。蚊帳の外にいる私にかね」
「女神さまが、怨霊、お前に聞きたいことがあるのだ」
双方はひどく殺気立ち、虚勢を張り合う。鬼神はなるべく余裕のある態度をとりながらも、欄干に腰掛け、不遜な体勢で出迎えた。
「町を支配する最高神さまが、この私めになんの用かなぁ?こちらは心地よく眠っていたのに」
「巫覡よ。夜分遅くに申し訳ない」
「怨霊に夜も昼もねえだろう?ただ逢魔が時にはヒュードロドロと人らを脅かす仕事があるがな」
うらめしや、のポーズをとるとおどけてみせる。
「仮にも神前ぞ。人間風情がふざけるのも、そこまでにしておけ」
忌避感に彼は鼻にしわをよせた。しかし怨霊はそれを恐れない。
「ふうん?神前ね。誰の神前だ?え?ここは?…私の神前だぞ。それと元人間って言って欲しいね」
「ここは元来土着神の神域じゃ」
「…そういや、あんたが童子式神なる式神と主に歪曲した事実を告げたのかい?童子式神ちゃんはかなりご不満だったぞ」
「そうじゃ」
「何が目的で動いているのかは、薄々分かっているがね。ヒトを騙すのは良くないよ。たとえ山の神のためでもなぁ」
「怨霊が何を言う。吾輩に説教か?」
「ああ、かつて曲がったことが嫌いだったんだ。それは今も同じようだ」
「…」
倭文神は眼中に無いと言わんばかりにそれを受け流し、話を進めた。
「吾輩は女神の端女、そなたの立場がどちらなのか確かめに来た」
「どちら?私はどちらにもつかないよ。何を期待しているのかな?」
口を歪めながら、再びおどけた態度をとった。
「わざとらしいやつじゃ。その芝居がかった態度をやめろ。生前のそなたを知っている者がいたら失望するぞ」
「私はねえ…もう人間の頃とは違うのだよ。穢れにまみれた怨霊だ。で、アタシャアあの生易しい巫女がやらかしたら止めるまでさ。ああ、腐れ縁というのは恐ろしいな」
その言葉に、彼は分かりやすく僅かに狼狽えた。
「何を言う?…あの人間は輪廻を巡ったはずじゃ」
「そうかねえ?人っていうのは厄介な生き物さ。なあ?私を見てもNOと言うのかい?分霊さんよ、何千と生きているのなら人に興味を持ちたまえ」
見下された口調に分霊である倭文神はピクリと反応を見せる。それを見て愉快になった鬼神はさらに嘲笑した。
「アイツはもう動き出してるだろうね。…どうする?女神のはしため。女神は人々を案じているぞ?」
「ふむ…仮にそうであろうと、吾輩は奴を砕くまで」
「一途だねぇ」
「女神はこちらにつけと申しておられる」
「はー、神官どもがそうだったなあ。堅物ばかりでね…それは町の神々も変わらないようだ」
「ふむ」
神が何かを言おうとした途端、黒い雲が社殿や子供の背から出てくる。ぞわぞわと黒いモヤは形を成し、大きな怪物の手になった。
「馬鹿じゃ」
俊敏な動きで迫り来る手から逃れたが、境内を曇らせるほどの穢れに侵食され、ガクリと地面に膝をついた。
「バカはそっちだ。式神のフリなんてするからだぜ」
いとも簡単に捕獲されてしまう。
ガッチリと黒い手に掴まれ、束縛されつつもはなんとか平生を保ったまま問うた。
「なんのつもりじゃ」
「下手なことをされては困るんでね。君の能力は厄介極まりない」
「…吾輩はそちを平伏させるつもりはないがのう」
ギリギリと手が力を込め、さらに体を締め付けてくる。毒ガスのように倭文神へ染み込み、肌を汚染した。袖に隠していた腕を顕にして、彼は抵抗した。元から穢れ、傷んでいた腕がさらに黒ずみ悪化した。
「…!」
「おや?神ともあろう方が既にケガレているなんて」
鬼神が面白いものを見たと身を乗り出す。まるで見世物小屋の商品を見学するように。
「黙れ」牙を向き、おぞましい顔をする彼にケタケタと笑った。
「無様だ。ハハハ!恐い恐い。なら、お話をしようじゃないか?」
「…」
「昔話だよ。嫌かい?歴史は好きだろう?寡黙くん?」
「そうすればよい。好きなように」