金烏の未知数
──巫覡よ。この時空は脆く、終わりを迎えようとしている──目ぇさませ。いつまで寝ているつもりだ?
白銀の巨犬が暗がりで唸る。歯をむきだし、鼻にしわを寄せている。しかしどこからか冷静沈着な、楽しげな声音がした。
──寝ている?私は、寝ているのか?
──どうしたい?そのまま消滅するか。生きるか。選べよ。
──生きるに決まってる。
浮かび上がったその姿は獰猛なボルゾイ犬だった。
アルバエナワラ エベルム。彼はそのような名をしていた。
鬼神は佇んで、立ちはだかる天の犬を見やる。
──私は巫覡。異国からきた巫覡と呼ばれていた、しがない者。
「私は…」
口を開き、彼は黙した。俯き、己の手のひらを見やる。
幼子の手のひらだった。
「私は、誰だ?」
"私"は全くの他人でね。彼女と同様に民に尽くしたり、文化が発展していくのに喜びを感じた。間抜けなほど未来と人を信頼していたんだ。
「なあ、アルジ。何で名前を知らないんだ?」
遠巻きに傍受していた巫女式神が冷めた瞳をして佇んでいる。
…。
ほんとうはみらいをしんじたい。たにんをしんじたい、ふたたびあのかみにあえたら。
まぬけでばかな、わたしよ。
未来が途絶えたあたしよ。未来を信じよう。他人を信じよう。会えるさ──絶対に。
手を差し伸べてきた巫女式神に、鬼神は握ろうと試みた。
私はもう、あの日の私じゃない。堕ちた魂は二度と昇れない。
厚い雲間から覗いた下弦の月を見上げ、目を閉じる。
欠けている。あの偽物の月は。
「私の偉大な星よ…あなたは今の私を笑いますか」
暇を持て余していた巫女式神はボロボロになった木の塊を境内の裏で見つける。
これはどこかで目にした物だ。どこだったかは薄らとだけ覚えている。社殿の中である。それは初めてみた時より穢れにまみれており、どんよりとしたオーラが漏れていた。
「うわっ。ヤバぁ。なんかの木彫りかな〜?」
無残にバラバラにされた木像。直接触るのは危険であろう。木の棒を持ってきて、つんつんとつつき始めた。
「誰かが置いていったのか?呪われてら」
丑の刻参りの藁人形。それとも一族に災いをなす呪いの木片。そうだったかもしれない。もうそれを確かめる術は無い。
過ぎてしまった事は覆せないのだから。
不思議がり、つついていると鬼神が背後に立っていた。
「わざわざ隠しておいたのに見つけよって」
「隠しておいた?」
「それを天の犬に食わせようとしていたのだ。奴はなんでも平らげる。毒だろうが、月だろうが。はたまた太陽だろうがな。この世にある物は全てな。悪食の犬だ」
彼は穢れなど気にせずに鷲掴む。するとどこからか冷静が現れて、木像を受け取った。
「お呼びだろ?鬼神サマ」
「ああ、ソレを食べてくれ」
「あー…美味そうでは無いな」
やれやれと物色してから、悪食の犬は食べ始める。巫女式神はそれを薄気味悪そうに眺めて、少し離れた。
「結局これはなんなんだい?」
「あれかい?象徴だ。依り代ともいうし、御神体ともいう。あれ無しでは神は降りて来れないのだよ」
「じゃあアルジ、あんたどうするんだよ?!コイツ食べちまったぞ!」
モクモクと食べている冷静から、慌てて取り上げようとする。
「ふふ。これは私のでは無くてね。地主神の神体だ。私はこの地にキツく縛られているから早々に消えたりはしないよ。安心しな」
「そうか。ならいいけど…」
なんてことも無いように鬼神は言い、巫女式神は違和感に首を傾げた。
「それって良いことなのかな?」
「さあ?私はこれまでお前に善悪を教えたことがあるかい?」
「いいや。あたしには善し悪しは分からないけど末恐ろしいとは思う」
「ほう、人ならざる者のお前がねえ」
彼は目を細め、物珍しそうに観察した。
「そう感じるのは私が人間であった名残なのかもしれないな。式神は主の意志を反映した存在だ。とくに私に作られたお前はね」
「そうかなあ?自覚はないけど」
「神格を得たいか?」
「うん。当たり前だろ」と、巫女式神は迷いなく答える。
「ほら、私はどこかでルールを破ろうとしている。あの主のように。童子式神も結局は姿見のように主の目的と野望を反射してるだけなのさ」
「なんか嫌だな、それ。童子式神にも意思はあると思うぜ」