神世の巫女の復活 3
わたしは、だれ?
わたしは──…しがないムラの娘。名前はなかった。
でも、あの方に付けてもらった大切な名前。…どうして思い出せないんだろう?
柔らかい裸足が草原を踏みしめる。硬い草木は皮膚を傷つけた。よれよれと歩きながら、ある少女は荒れ野を進む。
暗い、苦しい。恨めしい。怨恨。あの神はわたしを拒絶した──。
──わたしのではない禍々しい気持ちが、溢れだしてくる。それもそうだ。
もう、わたしの魂は壊れてしまったんだ。
ボロボロの服をまとい、大きな月の下佇む。彼女は眩しそうにそれを眺めた。
「にせもの」
護法童子が襲来してから数日経った頃だった。草木も眠る丑三つ時。秋風の吹く、静寂な夜だった。
「ぬ!誰?またアイツ?」
板碑に寄りかかり、暇を潰していた山伏式神はハッと顔を上げた。式神の鋭い五感が誰かがテリトリーへ入った気配を察知する。
「もしかして、鬼神とか」
鬼神が来ていないかを確かめるために、腰を上げ走り出す。ススキがさわさわと音を立て、草木の匂いがする。異界とは言えども秋の気配がする。
(おかしいわね。そろそろ夜霧が出てもおかしくないわ…)
瘴気の対流が起こす霧が今年は起きない。まるで時が止まってしまったみたいである。
やっとこ墳墓にたどり着き、丘の上に形容しがたい影があるのを目撃した。ダラリと長い腕を垂らし、うつむき加減の大きな異形。そのバケモノから湧き出す、あまりの妖気にゾワリと総毛立つ。
「ひっ」
早々に逃げようと闇を出現させ、再び墳墓を見るとソレは消え、か弱そうな少女がいた。
(見間違えたかしら?)
座り込んで泣きじゃくっていた。恐る恐る接近するも、彼女からおぞましい気は感じない。ごく普通の魔物だった。
「どうして泣いているわけ?まさかあのおっかない鬼にいじめられたの?」
山伏式神はなるべく穏便に子供に問うた。
「…おに?…あなただれ?」
「ただの式神よ」
「しきがみ?」
「知らないの?」
「…うん」七歳くらいの少女は幼げに頷くと、こちらを見つめる。
「どこからきたのかしら?こんな姿の魔いたっけ」
「…わかんないけど、この場に引き寄せられたの」
「同じね」
「同じ?」
「私もこの荒れ野に引き寄せられたのよ」
「あなたも…私のように? 」
「ええ、ただし!私は何者だったのか知っているのよ。すごいことなの、分かる?」
「へ?…そう」
「もしかすると新しく産まれた魔なのかもしれないわね。ゆらぎから生まれた、新入りさん」
「魔…?私は魔っていうの?」
「ええ!私たちは魔というカテゴリに属しているだけよ。でも珍しいわ。人間と同じ姿をしている魔なんて、あまりいないもの。物好きね」
えへん!と胸を張ってみせた式神もどきに、彼女はどことなくショックな表情を浮かべた。
「え…?わたし、人間じゃなくなったんだ」
「元は人間だった感じ?最近そんな風な魔ばかり出会うわねえ」
「他にもいるんだ?」
「いるわよ。おっかないのが」
新米の魔は墳墓の丘から降り、周りを見渡した。「ここは?」
「越久夜町という町のはじっこにある荒れ野、蛇崩よ」
「…。静かなところね」
「あなたがいた場所。なんだかムラを支えた人間?のお墓らしいわ。まさか一緒に埋められた生贄とかじゃないわよね…?」
「ソレ、多分わたしのことなんじゃないかな」
「やっぱり生贄?!」勘違いする山伏式神にクスリと笑う。
「ふふっ。違うよぉ~」
「ならムラを支えた方?そんな風には見えないわね…」
「うふふ、おかしい。あたし、そんなに頼りないかなぁ?」
「あ、いや」
まさかこの娘がかのツクヨミではなかろうか?いや、鬼神から教えられた彼女の素性は…稀代の巫女でありツクヨミという名しか知らないのだ。
(ま、まさかね)
「あなたとはお友達になれそう。よろしくね。しきがみさん」
「え、ええ!」
「えっとぉ、しきがみさんがわたしの名前決めてくれないかな?どうやらもう壊れてしまったみたいなものだし」
「な、名前?えっ、わたしが?そうねえ…月、月夜見ちゃんとかどうかしら?」
月の下、巫女は柔らかく微笑む。ツクヨミと紹介されれば頷いてしまうほどに、正体が掴めなかった。
「見つけてくれてありがとう」
「…う、うん」
そんな柔軟さに拍子抜けし佇むしかなかった。さわさわと風が吹いていき、栗毛色の髪を揺らした。