越久夜間山〈稲荷の狛狐 山の女神の伝承〉7
眼前に広がる縄張り──テリトリーの、しめ縄まみれの空間に安堵すると、自らの手を見つめ、グーパーさせた。幼子の手のひらは柔らかく、傷一つない。自分は無事に復旧したようだ。
依り代を砕かれたのは痛手だ。一度で式神の依り代──本体を見破るなんて只者じゃない。
「再発生に時間がかかったな」
つかさず暗闇から寡黙が現れ、過剰にぺたぺたと身体検査する。
「ええ、依り代をやられるなんて…。何者なんでしょう」
問いかけへは答えずに、手をパシパシと叩いた。
「異常はない」
「あ、ありがとうございます。あんな小さは社の神使に負けるとは、ちょっと情けないです」
しょぼくれるこちらに、彼は励まさずに頷いた。
「あの稲荷神社は全盛期かなりの規模を有していたのじゃぞ。ポテンシャルが他の社と違う。現代になるまで何度か建て直されて、ああなってしまったがのう」
「それを先に言ってくだせえ」
「言っても、主は止まらないじゃろう?負けたのはしょうがない。通常の霊験をもつ使わしめに勝てるわけがないのじゃから」
「ま、まあ…」
納得いかない様子で椅子に腰掛けた。
「もう主が目指す理想への道は破綻してしまっておる」
「そ、そんなわけないです!」
「ならば作戦を練り直せるか?…中断を検討しなければならぬな。主とゆっくり話せ」
「ま、待ってください!」
必死の制止も聞かずに、片割れであろう者はスタスタとしめ縄をくぐっていく。それを追えずに、やがてガクリと俯いた。
熱を出し病に伏せる主はベットに寝そべり、無言でぼんやりしていた。空気は重苦しい。稲荷に負け、領地を奪われたのだ。
それに最近、彼の体調はよろしくない。精神状態も悪く、主治医から薬を増やされてしまったと言っていた。
熱により汗をかき、熱くなったタオルを取り替えながら童子式神はやがて口を開く。
「山の中で不思議な人間か、人ならざる者か…そんな者が現れて、本体を壊されてしまいました。越久夜間山は恐ろしい場所です。主さまは…」
「ああ、山の神か。…。越久夜間山には山の女神がいるというからな。おとぎ話みたいだろう」
「主さまの言う山の神が、本当に存在しているとは。彼らは越久夜間山に女神の御神体はないと言っていました。勝手に…キツネどもは多分、山の神を崇敬しているのでしょう」
「神社に御神体はない、か。そうか…。…いずれも山の神と対峙することになるだろう。俺は、あの神に見つかったのだから」と、主はうわ言を言った。
「見つかった、ですか?」
「前に言ったように、どこかでこちらを見ている。山の神よ、会えるのを楽しみにしているぞ」
童子式神は意図がわからずに眉をひそめる。熱により妄言を喋っているのかもしれない。
「神域の起点に連れて行っておくれ」
「…それは」
「山の神と対峙するには相応しい場だろうに」
「山の神と対峙…?」
「ああ、神域の起点とやらには山の神の御神体があると」
「どこでそのようなことを?」童子式神は怯えながらも問うた。
「夢の中の俺が、言ったのだ」
「は…?」
(夢だと?)
「もしやオレは特別なのかもしれん。普通でない何かを持ちえているのか…恵まれたのか、定かではないが」
「はあ…」
「運命の神がいるのなら、皮肉にもオレは見初められたのかもな」
「運命の神、ですか」
(主さまが、神を認めた)
精神薄弱で弱音を吐いているのだろうか?焦点の定まらない瞳でこちらを見た。
「負けたのは自分のせいだ」
「あ、主さま?」
「神使に勝つのは人間ができる所業じゃなかった、今まで幸運だった。ましてやお前に任せ切りだった。俺は星守一族の末裔でもなくなった。何者でもなくなったんだ」
「主さま…」
童子式神は慰めの言葉をかけようとするが。彼は無表情のまま告げる。
「何者でもなくなった上に…人じゃなくなってきている。」
「ひ、人から外れようとしたのですか」