越久夜間山〈稲荷の狛狐 山の女神の伝承〉
町の人里の中央にある低山。越久夜間山。
その山の中腹で誰かが言葉を交わしている。
逢魔が時の、宵闇に沈む山の斜面。カァカァとカラスの群衆が空を旋回し、うるさく鳴いている。朽ちかけた稲荷社の境内にはキツネの二匹のシルエットがあった。
「狛犬がやられるとは…。だからあれほど言ったのに。これだから若いモンは」
もう一匹は毛づくろいをしている。
「どうする、あんた。明日は我が身かねぇ」
「失われた神の神域を占領し、結界を壊したところで我々はすぐ修復できる。あの者は神々をなめすぎている。ただ今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた」
「そうだねえ。仲間をやられちゃあねえ」
──稲荷の神使である狐たちだった。
白銀の美しい毛並みは薄汚れ、黄緑色の目は白濁している。かなりの老年だ。
稲荷の狐らは台座の上でギラギラとその目を燃やし、狐火を纏う。
「小癪な若造と式神めが、あたしらが調伏してやろうぞ」
相変わらず下弦の月が夜空に浮かび、わずかな雲間から覗いている。九月の後半は過ぎ去ったはずであった。
風が強く、年季のかかった腰高窓がガタガタと鳴っていた。
「はぁ…世話係が来る…」
ベッドに横たわり、主が陰鬱とした表情で言った。梅雨前線がさしかかり、今にも雨が降りそうな空模様。このような季節の変わり目はだいたい彼が体調を崩している事が多い。
「世話係が…こんな夜に?主さまに、何か用があるのでしょうか?」
「説教だ」神妙な、それでいてどろんとした目付きをしながら静かに零す。
「は?」
驚いた顔をする童子式神を一瞥し、天井を仰いだ。
「世話係──有屋は、昔から、こちらがどんなに苦しんでいるかを知りながら放置してきた。世話係なんて、名ばかりで。そのくせオレがやらかす度に叱ってくる。嫌いだった」
「そうですね。小さい頃から、主さまはあんなに苦しんでいたのに」
「今度もそうだ。それで…今夜でオレは終わる」
弱々しい手つきでカーテンを閉め、部屋は暗転する。
(──主さまには世話係がいる。女中は今までたくさんいたけれど、いつしかそれらも姿を消した。ひどい仕打ちをする人間らだった。でも主さまが呪い殺したから、いなくなった)
(あの世話係は例外だった。主さまに付きまとう闇のように、彼を叱責し、心を散らかして帰る。主さまはいつも怯え泣いていた。"世話係"は人間じゃないのかもしれない。あの女から嫌な臭いがする)
有屋がやってくると、主は車椅子で連れていかれた。事情があるらしく、しかたなくついて行く事になり、珍しく自らも客間へ通される。
室内にはあの護法童子が待機しており、こちらを睨みつけてきた。主もあの子供を一瞥する。どうやら護法童子は人間にも可視できる能力を有しているみたいだ。
「私のメイドよ」
「…ふ、笑えるな。こんな幼いメイドがいるものか。使い魔か?え?」
「あら、あなたにもいるんじゃないかしら?幼いメイドさんが?」
秘書らしくしゃなりとしていた有屋が、口うるさい世話係に豹変した。彼らは睨み合い、いつもの険悪なムードが漂う。
「あなたが使役魔を有している事を…薄々勘づいていたわ。豪族星守家のご子息」
「…改まって呼ぶな。世話係の分際で」
不快そうに眉をひそめると、彼は足を組んだ。
「…。ならば、魔法使いのお偉いさんとして──あなたの一族が有する呪法を剥奪する」
「…」
ことさら怖い顔で睨めつけ、舌打ちした。
「その顔をやめなさい。何度言ったら分かるの。豪族の子息として相応しくない振る舞いはよして」
主は車椅子から腰を上げ、部屋から出ようとする「諦めない、もうあんたの言いなりじゃない」
「…子供みたいに、注意を引くためだけに悪事を働くのは止めなさい」
「…」ドアを閉め、無理やり退室してしまう。
「はあ…」わずかに乱れた髪を整え、ため息をついた。「本当に困った子ね」
「あの女め」
悪態をついて主が部屋から出るがフラフラだった。「主さま!車椅子にお戻りください!」
「黙れ!俺に命令するな!」
「…はい」
(こえー。こりゃあしばらく大変だなあ)
壁に手を付きながら去っていくのを為す術なく眺めていると、護法童子が現れた。
「なんだ?冷やかしか?」
「ふん。見ろ、やはり貴様は悪害でしかない。はあ、式神特有の腥さが隠しきれていない。鼻がひん曲がるわ」
「なにを!おめえこそ!」




