行方 3
主人がいなくなった星守邸の一室で、主に仕えた元式神はベッドの上で蹲っていた。天井の隅に蜘蛛が巣を張ろうと蠢いているのを眺めながら、ふとまぶたを閉じる。
(式神は眠らない。人ならざる者は眠るのだろうか?昔話に出てくる異界の者は眠り、正体を暴かれまたは処され、人間界から追放されていた)
少年の頃の主に昔話を聞かされた。おとぎ話。神話。あるようでない作り話。
蜘蛛の糸が煌めき、童子式神は意識を沈める。夢の路地を歩きながら遠くの光を目指す。
壊れたフセギの連なる地面を踏みしめ、重たい空気の中を進んだ。
「ねえ、どうしてそこにいるの?」
明るい声が光から聞こえてくる。
「神々の集まりがあるはずでしょう?」
神世の巫女が光の中央で誰かに話しかけている。景色が開けてやっとたどり着いた。
「倭文神さん。あなたの名前。春木が言っていたのを聞いちゃったの」
巫女がにこりと笑い、倭文神の隣に来る。
あの倭文神はじろりと睥睨するや答えずに歩いていく。
「待ってよっ。私、あなたとお話したいな。神々とお話しするのが私のお仕事なんだし」
「あっ、そうそう!私は巫女をしている者なの。だから無礼だとは思わないで?」
構わず話しかけられ神霊はため息をついた。
「バカにしているのか?」
「本気だよ。だってあなたとお話したことがないもの」
「人間は嫌い。我々の気も知らないで、祈りだけを捧げてくる。そのくせ厄災が起きると押し付ける。人間など」
「人間はね、狭いところにいるから分からないんだ。皆が神様の声や存在を知れるわけじゃないから、しょうがないよ」
眉を下げて巫女は困る。
「ん。狭っ苦しいのはこのムラの神々も同じだ。私のことを役立たずだというから」
「ひどいね」
「同情なんていらない」プイッと倭文神は子供らしくそっぽを向いた。
「同情するよっ。私も似たような者だから」
その言葉に彼は微かに動揺する。少女はニコニコしたままで、同時に薄気味悪ささえ感じる。
「改めて自己紹介するね?私は月世弥。いい名前でしょう?春木から貰ったんだ」
「…建葉槌命」
「えっ」
「それが私の真名」
「…!」
目が覚めて、童子式神は体を起こす。
「建葉槌命…寡黙の真名は、建葉槌命」
ベッドから身軽にぴょんと下に降り、慌てて祠へ向かう。
急ぎ足で庭先に向かい、奥へ進む。秋とはいえ鮮烈な日差しの中、慌てて草藪に突っ込んだ。やはりまだ太陽には慣れない。
あれから祠は完全に崩壊しており、見る影もなくなっていた。雑草が生い茂っており、辛うじて屋根だけが見えていた。
その祠の前に寡黙の後ろ姿がポツンとあり、それを見つめていた。眩い木漏れ日に鈴がくすみながらも鈍く光っている。
「やはりそこにいると思いました」
「吾輩はもう終わろうとしている。女神からの信頼を失い、越久夜町の神々に失脚を喜ばれる──この土地を好きにはなれなかったのう」
振り返ると肌に穢れが侵食している。
「か、寡黙!おめえ」
「このまま悪神に成り果て、越久夜町を崩壊に陥れても悪うない。愉快とも感じる」
諦め気味に笑い、獰猛な牙をむきだした。
「お、おめえの真名を思い出したんス!夢の造った嘘幻かもしれねえけども」
「ほう、そなたがなあ。何千年も呼ばれなかった名を、そなたが知るというのか」
「はい。あっしは巫女でも天津甕星でもない、童子式神。おめえの固執している悪神ではない──それは分かっているだろうけど…!」
童子式神は精一杯に、彼を引き止めた。
「おめえは…寡黙、なんかじゃない。──建葉槌命という名で呼ばれた者だ」
「…。そう。糸を織り、最高神に使える織り女」
体が光り輝き、ケガレがなくなっていく。自分と同じ童子姿から古代の織女の背格好に変貌し、辺りを清らかに照らした。
彼女はゆっくりと童子式神を見つめ、静かに言葉を発する。
「私は建葉槌命やっと、やっと開放されるのだ」
「ええ…もう、おめえはあっしにも、山の女神にも、越久夜町にも縛られる必要はねえ」
「私は星に帰ります。分霊としての一生を終え、母体である星の一部になり、宇宙で静かに眠ります」
式神だった人ならざる者は肯定し、きちんと倭文神を見つめて言う。
「倭文神、いや、建葉槌命。さようなら」
「さようなら、童子さん」
少女の無垢な笑みを浮かべ、建葉槌命は解けて居なくなった。ざわざわと強風が吹き荒れ、祠の破片が舞う。星守邸の窓をガタガタとさせ、やがて凪いでいった。
「……」
無心にそれを眺め、童子式神は髪を揺らす。髪飾りにわずかにヒビが入ったが、それには気づかない。
「天の犬よ。あっしはやっぱり変わるのが怖い…」